勝利はどこから?

聖書箇所 1サムエル17章31〜49節

イントロ:

★    今日の聖書箇所はあの有名なダビデとゴリアテの話です。紀元前1000年頃、イスラエルは王政になっていました。第一代目の王として神が選ばれたのが、サウルでした。神がサウルを召されたとき、サウルは神の前に謙遜に王としての務めを果たしていましたが、その力と勢力が拡大していくことによって傲慢になり、神の御声に聞き従わなくなってしまったのです。それとともに、神は敵の勢力を強くされました。1サムエル17章では、ぺリシテ(今のパレスチナの語源)軍との戦いが書かれています。

★    さて、面白いことにぺリシテ軍は代表戦士を送って一対一の対決をしようと申し出るのです。ぺリシテ軍の代表戦士こそがゴリアテです。聖書に彼の様子が書かれています。身長6キュビト半(約286cm)、よろいの重さが5000シェケル(約57kg)、槍の穂先は鉄で出来ていて、その重さが600シェケル(約7kg)です。最近人気のあるボブ・サップが身長2m、体重170kgですから、ゴリアテがどれほど大きく恐るべき戦士であったかうかがい知ることができます。

★    さて、このような恐るべき代表戦士と一対一で勝負をしようと考えるイスラエルの兵士はひとりもいなかったのです。ところが、イスラエルの兵士としてサウルに仕えている兄弟たちの安否を尋ねるために、父エッサイはダビデを戦地に送ります。これが、ダビデの人生を、いえ彼の人生だけではなく、イスラエルの歴史を変える出来事になるとはエッサイもダビデも、神以外は誰ひとりとして知らなかったでしょう。

★    それでは、この箇所から3つのことを学びたいと思います。

本論

(1)勝利のスタート・・・「神を経験する」

★    先週のメッセージで、「苦難を通しての勝利」ということを学びました。聖書の神は勝利のための近道を用意する方ではありません。神は私たちに苦難を与え、そこで私たちは自分の心の内面(の汚れや醜さや罪)を知り、神に信頼し、心が強くされ、勝利を経験していくのです。ヨセフはそれを経験しました。

★    同じ原則は、ダビデにも当てはまります。いえ、勝利を経験する聖書の登場人物はみな同じ原則に生き、生かされています。まず、ダビデの当面の勝利はゴリアテに勝つ、勝利することでした。しかし、彼の勝利はこのとき始まったのではありません。イスラエル軍の兵士の中からだれも代表戦士として志願しないのを見て、ダビデは自ら志願します。しかし、それを聞いたサウル王は33節でダビデに、「あなたは、あのぺリシテ人のところへ行って、あれと戦うことはできない。あなたはまだ若いし、あれは若いときからの戦士だったのだから。」と言います。サウル王のこのことばは実に常識的です。3m近い大男であり、鍛えられた戦士であるゴリアテに羊飼いの若者が常識的には勝てるはずがありません。しかし、ダビデはサウル王のことばに反して戦う決意をはっきりと表したのです。

★    ダビデの勝利はすでに始まっていました。彼をしてサウル王にゴリアテと戦わせてくださいと言わせた勇気はどこから来たのでしょうか?それは「神を経験する」ということにありました。
★    34節からダビデは羊飼いとして、父に仕え、神に仕えていることを語っています。羊飼いという仕事の中でダビデは責任を負い、ライオンや熊から羊を守るという苦難の中で神を経験することを通して成長していたのです。

★    私たちの人生の勝利は突然やってくるのではありません。備えが必要なのです。そして何よりも日常生活の中で「神を体験する」というところから出発するのです。私たちはイエスキリストの神を「苦しい時の神頼み」的な神としていないでしょうか?天地の創造者であり、私たちの造り主、すべての支配者であるイエスキリストは私たちの日常の主でもあられるのです。人生の勝利のスタートとして、毎日の歩みの中で、イエスキリストを認め、経験していきましょう。

(2)勝利のために・・・自分の杖を手に取れ

★    サウル王はダビデの信仰と勇気を受け止め、代表戦士として送るため、「行きなさい。主があなたとともにおられるように。」と祝福のことばをかけます。しかし、やはりサウルは心配です。ですから、自分の武具をダビデに貸し与えようとしました。サウルのよろいかぶとをダビデに身につけさせ、サウルの剣を帯びさせたのです。イスラエルの王の武具であり、武器ですから超一流の武具・武器であったに違いありません。詩篇の記者は33篇で「王は軍勢の多いことによっては救われない。勇者は力の強いことによっては救い出されない。軍馬も勝利の頼みにはならない。その大きな力も救いにはならない。」と書き記しました。

★    私たちは忘れてはいけません。勝利は外側のものによって得るのではなく、内側にあるものによるのです。ダビデはそうでした。サウル王の武具はどんなに高価で、すばらしいものであっても、彼にとっては使いにくいもの、慣れないものだったのです。それらは「サウル」のものだったのです。ダビデは勝利のために「それを脱がなければ」なりませんでした。私たちの人生でも、どんなにすばらしいものであっても、これさえあればと思えるものであっても、それを手にしてはならないものがあります。手にしたとしても使えないので、返したり、捨てたりしなければならないものがあります。それは神が外側のものであなたに勝利を与えようとしておられるのではなく、内側のもの、もうすでに与えられて持っているものによって勝利を見せようとしてくださっているからです。

★    ダビデは40節で、「自分の」杖を取りました。いつも使っている、得意な石投げとそのための「なめらかな」(どんな石でもよかったわけではありません。彼の経験から「なめらかな石」を選んだのです。)石を取りました。これらはみなダビデの得意なものだったのです。使い慣れていたものでした。人目から見ると、何だと思えるものであったでしょう。実際、ゴリアテは「おれは犬なのか?」(43節)とさえ言っています。しかし、それこそがダビデに神から与えられた勝利のための道具だったのです。

★    あなたに神が与えられたものは何でしょうか?聖書は神がひとりひとりに賜物を与えられたと教えます。タラント(タレント)が与えられていると言われています。私たちは持たないものによってではなく、与えられ持てるものによって、それを用いることによって勝利を得るようにと神によって召されているのです。

★    あなたの与えられているものは何でしょうか?まだそれが分からなければ、毎日の生活の中でイエスキリストに祈り求めながら歩み、小さなことがらの中で神を経験していきましょう。
(3)圧倒的な勝利者

★    さて、ダビデは神によって与えられた「自分の」ものを持ってゴリアテとの戦いに向かいました。57キログラムのよろいに身を固め、穂先だけで7キログラムもある槍を持った3m近い大男に、杖と石投げと5つのなめらかな石だけで戦いを挑みました。しかし、ダビデは知っていました。この戦いがダビデ対ゴリアテの戦いではないことを。この戦いは聖書の神対神をあなどる者の戦いなのです。ですからダビデは45節で、「私は、おまえがなぶったイスラエルの戦陣の神、万軍の主の御名によって、おまえに立ち向かうのだ。」と宣言しました。46節では、「すべての国は、イスラエルに神がおられることを知るであろう。」とダビデは言い、47節においては、「この戦いは主の戦いだ。」と叫んだのです。

★    私たちの人生は私たちのものではありません。私たちの人生の勝利は私たちのためのものではありません。それは神のものです。私たちの人生の目的は神を喜び、神の栄光を現わすことです。ですから、人生の戦いは神のための戦いか、神に対しての戦いかのどちらかしかないのです。

★    パウロは神に熱心なまじめなイスラエル人だと信じ、クリスチャンを苦しめていました。しかし、ダマスコへの途上でイエスキリストに出会いました。イエスは彼に「なぜわたしを迫害するのか。とげのついた棒をけるのは、あなたにとって痛いことだ。」と仰いました。パウロは神のために戦っていると信じていたのですが、実際は神と戦っていたのです。神と戦って勝てる人はひとりもいません。ですから、神の前に謙遜になって信頼を表わし、神のために人生を生きることが最もすばらしい生き方なのです。

★    ダビデはそのような人でした。そして何が起こったのでしょうか?それは、ダビデが考えていた以上の勝利が与えられたということです。ダビデにとってそれは主の戦いでしたから、勝利しか結果はなかったのです。しかし、彼の勝利はなめらかな石5つで得られるだろうという、人目からはすばらしい信仰と信頼から来る計算の上に立っていました。ところが、神の計画は違いました。なめらかな石「一つ」の勝利だったのです。

★    ゴリアテは自分を犬のようだとばかにするのかと怒りましたが、天地の造り主、その支配者である聖書の神の前に犬以下の敗北を経験したのです。ダビデには一振りの剣もありませんでした(50節)が、彼の手にあった石投げと一つの石で勝利を経験したのです。

★    神は私たちが勝利を経験することを期待しておられます。もちろんそれは、簡単な勝利ではなく、苦難を通しての勝利です。そして神は、私たちが「日常の小さなことを通して神を経験し」、神に与えられた「あなたの手にあるもの」を用いて、「圧倒的勝利者」となっていく人生へと招いておられるのです。



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