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腐敗しない宝

by:
ゲイリー・ノース



 
聖書箇所:マタイ6章19〜21節

「自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。そこでは虫とさびで、きず物となり、また盗人が穴をあけて盗みます。自分の宝は、天にたくわえなさい。そこでは、虫もさびもつかず、盗人が穴をあけて盗むこともありません。あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。」


 この箇所で語られている神を中心にした原則は、神に熱心に仕える者に報酬を与えられる神ということである。「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。」(ヘブル11:6)この聖書
箇所は時間における永遠の優越性を語っている。私たち自身のために地上に宝を蓄えることにはリスクが伴う。神のためにすることは確実に継続するものである。時というのは宝にとって、信頼できる道具ではない。どんなにベストな計画を立てようが、物事は一晩のうちに崩れてしまうことがある。人はどこに信頼を置くべきなのだろうか?もちろん一時的なことがらにではないだろう。

●宝を蓄える者のゴール

 この箇所は、自分のために地上に宝を蓄えることを禁止している。このことには二つのことが含まれる。ひとつは、自己権力の拡大、もうひとつは時間である。地上に宝を蓄える人は近視眼の人であり、同時に非常にリスクを背負った人である。彼は失うかもしれない資本を積み上げている。死後の世界に資本は無用であるのは確かなことである。告別式後の質問は、「彼はどれほど後に残したか?」ということであり、その答えは「すべてのもの」であり、普遍的な回答である。

 この箇所は相続者や愛するもののために、宝を残すことを禁止していない。相続は以下のように聖書においてたいへんはっきりしたテーマである。「善良な人は子孫にゆずりの地を残す。罪人の財宝は正しい者のために蓄えられる。」(箴言13:22)次の世代への富の相続は支配契約の成就にとって基本的なことである。契約遵守者の手にある資本の長期的増加は歴史における神の王国の拡大の一要素である。

 ここで禁じられていることは、自分のために宝を蓄えることである。それは、人に信頼し、時間に信頼するといういつわりの信仰を表しているからである。「富む者の財産はその堅固な城。自分はそそり立つ城壁のように思っている。」(箴言13:22)人が地上に蓄えた富は他の人々にとって誘惑となる。盗人が押し入り、さびがつく。生活の腐敗のような価値の腐敗がさびることのないゴールド以外のすべての形の富に脅威を与える。それは盗人にとってかっこうの餌食であり、盗まれなくても失うことはありえるのである。

 しかし、人はなぜ富を蓄えるのだろうか?これこそが答えだというものはない。不確かな出来事のための安心として、自分自身の名を上げ、認められたいために、マネーゲームとしての挑戦の喜びなど、これらはみな動機となるだろう。しかし、死はすべての人に訪れる。もし、最も大切な事というのが、人があなたやあなたの仕事をどう評価するのかということ、認められる事、名声、尊敬、蓄えられた財産ならば、それは自分自身の仕事において他の人の知恵に信頼をおいているということだ。自分の仕事に価値をおいている人は、死ぬべき存在なのだ。死は偉大な平等主義者であり、すべての人に訪れる。

 伝道者の書8:17〜9:6参照

 もし、死がすべてのことを同じようにしてしまうならば、死ぬべき存在(モータリティー)というのはすべての意味にも、相違ということにも脅威を与える。歴史における善も悪もみな同じように終結する。一時的なことがらに対して意味を与えるものがないならば、そしてすべてが死に消え行くべきものであるならば、永続する意味というものは存在しなくなり、すべては無となる。
 イエスが警告された本当に大切なこととな何か?それは物質がすべてであるということではないということだ。地上に蓄えているものの上に安んじている人は、弱々しい神に信頼をおいているのである。



●心にある宝

 「あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。」というのはとても深みのある考えである。人が最も価値あるとするものが、その人の心を捉えている。その人は、その夢を見、そのことに沿って人生設計を立て、そのために犠牲を捧げる。宝は人を捉えるのである。人々は隠された(葬られている)宝の夢を見るが、隠された(葬られている)宝は、人々を葬る。比喩的に言うならば、その夢が物事の中に置かれている人々は、その物事に捉えられている。彼らの願望が彼らの人生を再構築する。彼らの願望の中心は、一時的な、過ぎ去り行くものである。このことが、人々に永遠について考えなくさせる。

 天の宝のために夢を持ち、人生を設計し、犠牲を捧げることは、神への従属と未来志向であることの印である。歴史における浪費を横におき、天に宝を積む人は、ラディカルな未来志向者であり、それゆえにより上のクラスの人々である。このためには信仰が必要である。天国と復活後の新天新地というイエスの教えに信頼することが要求される(黙示録21)。

 イエスが、人の心は天の宝によって捉えられるということによって以下のことを明確にされた。それはまるで、宝には人々の心を引っ張ったり、結んだりする糸があるかのようである。人々は、この糸によって地上に結び付けられたり、天に引き上げられたりする。彼らの宝は彼らの夢のありかを定義する。それは、私たちが宝をさらに蓄えるとき、その宝の糸はもっと人を縛りつけるようになるということを意味している。「それから、イエスは弟子たちに言われた。『まことにあなたがたに告げます。金持ちが天の御国に入るのは難しいことです。まことに、あなたがたにもう一度告げます。金持ちが神の御国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。』」(マタイ19:23〜24)。

 この箇所は人が自分のために宝を積むことは悪い事であるということを意味しているのでは全くない。イエスが警告しておられるのは、地上の宝に対してである。永遠の報酬のために義を求めることは賢いことである。パウロは「兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕らえたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目指して一心に走っているのです。」(ピリピ3:13〜14)と書いた。未来の報酬のための現在の犠牲は、私たちの心がどこにあるのかを表している。

 イエスは、「良い人は、良い倉から良いものを取り出し、悪い人は、悪い倉から悪いものを取り出すものです。」(マタイ12:35)とも言われた。ここに同じテーマにおけるバリエーションを見る。宝には違いがあるのだ。腐敗する宝もあれば、腐敗しない宝もある。心にある良い宝は良いものをもたらす。それは人をよりすばらしい義へと導く。
 
 あなたの心はどこにあるのか?あなたの宝のあるところである。イエスは地上の宝はわなであり、妄想であることを明らかにしておられる。「人は、たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう。」(マルコ8:36)



●資本の蓄積


 それでは、道具とは何だろうか?道具とは、人間の支配を地上に拡大するための手段ではないか?道具とは資本であり、時間の中で労働と土地から作り出されたものである。道具によって、道具を作り出すための現在の消費は減少する。道具を作り出すことを要求する節約という方法で、人が被造物の上により大きな支配力を得るための努力をすべきではないという考えはイエスのことばには見当たらない。

 それでは、どのように倫理的に道具と宝を区別することができるのだろうか?宝は最終的報酬を意味する。それは人の生産の終了であり、人のゴール、その人の人生の終わりという意味がある。それは最終的な消費物であり、生産の停止である。金貨の箱にとりかこまれた守銭奴のビジョンははっきりしている。自分の金貨とともに葬られる守銭奴になることが彼らの喜びである。すべてのファラオの墓がそれを示しているように。それは、自分の娘を金に変えてしまった、死の一触れを行ったミダス王の物語のようである。天の宝は人の地上での努力の終わり、人の地上での生産の終わりを含んでいる。歴史における人の奉仕の個人的な完成を意味している。永遠のために消費することを目的とした、歴史の中での犠牲は死の一触れのようなものではない。それは全く正反対のことである。人は宝ではなく、資本を蓄積するために努力すべきである。彼らは支配の道具の在庫を蓄えておくべきである。

 資本の蓄積に対する大きな脅威は、人の心の中で資本が地上の宝になることである。ディケンズのクリスマス・キャロルという物語に出てくるスクルージーのみじめさの理由は、資本を宝としたことである。スクルージーとマーレイはよいビジネスマンだった。しかし、資本の蓄積が彼らのわなとなってしまった。マーレイの幽霊にかかっていた鎖は、地上の宝に彼をしばりつけてきた糸の産物であった。ディケンズの物語は人間の再生の世俗版である。スクルージーには彼がどのようであったかという過去、どのようであるかという現在の2つの超自然的な幻が与えられる。彼は「もっと」という偉大な神の糸によってさらにきつく縛りつけられた。そして、第三の幻の中で、彼はほとんど参列者のいない自分の葬式、どろぼうによって少しばかり価値がある宝を剥ぎ取られた家という結果を見る。しかし、葬式に王や女王が参列し、家は世界的に有名な博物館に変わったとしたらどうだろうか?しかし、彼は死人でしかない。自己の自律性の中で、堕落した人間が帰するところは死のみである。そして死人は死人が葬る。(マタイ8:22)

 シチズン・ケーンは今まで製作された映画の中で、最もすばらしい映画と宣伝されているが私はそのようには評価していない。しかし、この映画の魅力は、富(宝)の虚構という同じテーマから引き出されている。ケーンの実在モデルであるウイリアム・ランドルフ・ハーストは莫大な美術品を集めた。彼は自分の持っているもののリストをなくした。彼はコレクションを箱に入れ積み上げた。代理人に美術品のひとつを何年もかけて探させた。そして、それは箱に入ったコレクションの横に置かれているのが発見されたのだ。映画の見所はそのすばらしい結末だった。映画の始めに出てきた彼の人生最後の瞬間の言葉で表現された宝は、「バラのつぼみ」と呼ばれる何か、または誰かだった。それが何であるかはだれも分からなかった。その最後の場面の直前に、もえる炉の中にたくさんのゴミを放り込む労働者が映し出される。そのゴミの中のひとつが、「バラのつぼみ」と書かれた子供用のソリだった。そして、最後のシーンはえんとつから立ち昇る煙の柱だった。「もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら、各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現われ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。」(1コリント3:12、13)。



●この警告は文字通りなのか?


 イエスは誇張して言われたのだろうか、それともガイドラインを与えられたのだろうか?イエスは、道具としてではなく消費物として役立つ高価なものを集めることに本当にに反対されたのか?イエスはハーストのような、一般の人々に公開するために財宝を蓄える人々を望んでおられるのだろうか?私はそうだと考える。アメリカにおける一番良いクリスチャンの例はボブ・ジョーンズ大学を建てた、ボブ・ジョーンズ・シニアの芸術品のコレクションであろう。それはアメリカ、いや世界中でいちばんすばらしい中世後期から近代初期の宗教芸術である。彼は第二次世界大戦終了直後に、このコレクションを集めた。犠牲者達の貧困のゆえに価格が低かったのである。現在、このコレクションの価値は大学の土地の価格よりも高価だろう。しかし、無料で公開ツアーがなされている。その存在が知られていないので、ほとんど訪問者はいない。自分で楽しみ、またそれを娘達に残すために少しばかりの素敵なものを買う女性についてはどうだろうか?
アンティークの収集家はどうだろうか?その答えは、収集家の心次第である。収集することが彼の情熱となっているか?収集することが焼き尽くす炎となっているか?そうであるなら、宝となっているということだ。彼はそれを売るか、公開するためにどこかの機関に贈呈すべきである。その糸によって縛られすぎている。「イエスは、彼らに言われた。『もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。』ところが、青年はこのことばを聞くと、悲しんで去って行った。この人は多くの財産を持っていたからである。それから、イエスは弟子たちに言われた。『まことに、あなたがたに告げます。金持ちが天の御国にはいるのはむずかしいことです。」(マタイ19:21〜23)


●結論


 要するに、宝とはその人の神がその人生を忠実に仕えてきたその僕に対して贈るものである。地上の宝を追い求めた人は有限の神に仕えた人である。この神とは、他の人かもしれない、何かの動機かもしれない、悪霊かもしれないし、自分自身かもしれない。しかし、地上の宝を与えることのできる神は、聖書の神ではない。

 優先順位のトップは天に宝をたくわえることである。その働きが終わったとき、忠実な僕に神が与えてくださる報酬が天の宝である。「というのは、だれも、すでに据えられている土台のほかに、ほかの物を据えることはできないからです。その土台とはイエス・キリストです。もし、だれかがこの土台の上に、金、銀、宝石、木、草、わらなどで建てるなら。各人の働きは明瞭になります。その日がそれを明らかにするのです。というのは、その日は火とともに現われ、この火がその力で各人の働きの真価をためすからです。もしだれかのの建てた建物が残れば、その人は報いを受けます。もしだれかの建てた建物が焼ければ、その人は損害を受けますが、自分自身は、火の中をくぐるようにして助かります。」(1コリント3:11〜15)

 ここには配置の問題が存在する。地上の宝を積み上げるために用いた富は、同時に天の宝を積み上げる神の国の奉仕に用いる事ができない。これがクリスチャンの歩みには裁きが伴っていることの理由である。資本は宝になり得る。道具は目的になり得る。歴史の中で終わるものはどんなものでも、それを積み上げる人をその強い糸によってしばる宝となり得る。



キリスト教経済研究所

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