1 テサロニケ 4:13-18
1 テサロニケ 4:17 次に生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とと もにいることになります。
今日、ほとんどのクリスチャンはこの節をこの世の困難からの逃避を描写する箇所とみなしています。彼らはまもなく、ある日(それはいつもまもなくな のです。イエスがこれをテサロニケの人々に話されたときも、まもなくでしたし、今日、今でも「まもなく」なのです。)イエスが天に見えるかたちで現われ、 すぐにすべての死者はキリストにお会いするためによみがえり、生きているクリスチャンはキリストとともにいるために、彼らと一緒に雲に乗って携え上げられ るだろうと信じています。彼らはクリスチャンがこの地上から肉体的に「携挙される」だろうと信じています。あなたも人の乗っていない車が衝突している絵 や、墓から出てきた肉体がみんなと一緒に空に上がって行く絵を見たことがあると思います。
あなたはこの「教会の携挙」という考えが教会の歴史的な教えではなく、プリマス・ブラザレンによって1830年頃に始まったものであることをご存知 でしょうか?この教えはスコフィールド・リファレンス・バイブルとクラレンス・ラーキンの手の込んだ終わりの時の出来事チャートによってアメリカで流行る ようになりました。20世紀には、教会の「目に見える、肉体のともなう携挙」が主要な終末論となりました。
多くの人々がこの出来事がいつ起こるのか予言してきました。ミッケル・ダールは「ミッドナイト・クライ」の中で、1980年まで現代は終わるだろう と予言しました。レジナルド・エドワード・ダンカンは「The Coming Russian Invasion of America」の中で千年王国は1979年に始まるだろうと予言しました。サウスウエスト・ラジオ 教会のエミール・ガヴァーラックは1981年に携挙が起こるだろうと予言しました。
1948年にイスラエルが国家になり、多くの人たちがこれを聖書預言の大変重要なことがらと見なしました。彼らはそのときの世代(40年)のうち に、携挙があるだろうと信じました。エドガー・C・ウィゼナントは「1988年に携挙が起こる88の理由」という本を書き、これが600万部売れること で、1988年の夏と秋は福音派の人々にセンセーションを少なからず巻き起こしました。ウィゼナント氏は1988年9月になぜキリストが地上に戻ってこら れるのかを苦労しながら示しました。地方紙の多くはキリストの間もなく起こる再臨への期待のために、仕事をやめるほど彼のメッセージを真剣に受け取ったク リスチャンがいたと報告しました。
ウィゼナントは「聖書が間違っているときだけ、私も間違っているでしょう。このことははっきりと言っておきましょう。聖書的に私が間違っていること はありえません。このことを町のすべての牧師たちに言いましょう。」と述べています。1988年の9月も過ぎて、携挙が起こらなかったとき、ウィゼナント は「The Final shout:Rapture Report 1989」という新しい本を出版しました。その本の中で、彼は「私の間違いは、数学上の計算が1年だけ間違っていたことです。」と言っています。さて、次 に何が起こったと思いますか?彼は再び間違ったのです!
ハル・リンゼイは次のように言っいました。
ほとんど2000年近い冷酷な迫害がともなった流浪の後、ユダヤ人は1948年5月14日に再び国家となり、「いちじくの木」は 最初の葉をつけました。
イエスはこのことが、ご自身が「戸口まで」来ていること、再臨の準備ができていることを示していると言われました。また彼は、 「まことにあなたがたに言います。これらすべてのことが起こるまでは、この時代は過ぎ去りません。」(マタイ24:34)と言われました。
どの時代でしょうか?文脈から明らかにこれらのしるし、その中でも特にイスラエルの再建を見る時代のことです。聖書の一時代は約 40年です。これが正しい帰結であるなら、1948年からの約40年間に、これらのことが起こります。その生涯をかけて聖書預言を研究した多くの学者たち はこのことを信じています。(The Late Great Planet Earth, pp. 53-54).
韓国のあるグループは携挙が1992年10月28日に起こるという予言を新聞に掲載しました。何も起こらなかったとき、キム・テジンは「私たちは神 からのメッセージを間違って受けました。イエスは数年の間に戻って来られます。」と返答しました。
1992年の夏、チャールズ・R・タイラーはバイブル・プロフェシー・ニュースの中で、イエスの再臨はその年の秋にあるだろうと書きました。「あな たが今読んでいることは、たぶんバイブル・プロフェシー・ニュースの最終号です。なぜなら1992年秋号が出版されるまでに、私たちの主イエスキリストは ほとんど間違いなく戻って来られることは聖書の成就している預言の数々が示しています。」と書きました。
「 Armagedon: Appointment with Destiny 」の中で、グラント・ジェフェリーは「紀元2000年は終末時代の終わりの日」と書きました。レスター・サムラルは「I Predict 2000 A.D.: 」の中で、「人間の地上での活動は紀元2000年までに絶対完了すると予言します。」と書きました。
どのように思われるでしょうか?紀元2000年に携挙が起こるでしょうか?すべての間違った憶測にも関わらず、どうして彼らは予言をやめないどころ か、予言し続けるのだろうと思いませんか?
教会の「目に見える、肉体の伴う携挙」という現代の考えをサポートするために用いられる聖書箇所を見てみましょう。
1 テサロニケ 4:13-18 眠った人々のことについては兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみ に沈むことのないためです。私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスと いっしょに連れてこられるはずです。私たちは主のことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先す るようなことは決してありません。主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにあ る死者が、まず初めによみがえり、次に生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げら れ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。こういうわけですから、このことばをもって、互いに慰め 合いなさい。
ここで、私たちが尋ねる必要のある質問は、「使徒パウロはだれに対して書いているのか?」ということです。知らないでいてもらいたくない「あなたが た」とはだれなのでしょうか?明白な、そして否定できない答えは、一世紀のテサロニケのクリスチャンという答えです。
聖書を読み、学ぶときに、私たちは読者の妥当性(audience
relevance)・・・第一読者はこれをどのように理解したのかということを心にとめなければなりません。聖書は私たちのため
(for us)に書かれましたが、私たちに対して(to
us)書かれたのではありません。私はこのことばによってあるクリスチャンたちをかっとさせた
ことがあります。彼らは聖書が私たちに対して書かれたと考えているのです。しかし、そうではないことを示すのは簡単なことです。私は「聖書のすべては私た
ちに対して書かれた」と言ったある人とこの主題を議論しました。この立場がどれほどばかばかしいかを示すために私は彼に次の聖句を示しました。
ヨシュア 6:3 あなたがた戦士はすべて、町のまわりを回れ。町の周囲を一度回り、六日、そのようにせよ。
そこで、彼に「エリコの回りを行進するという命令はあなたに与えられましたか?」と尋ねると、彼は「はい、そうです。」と返答しました・この時点で 私はこの議論を終えました。この考えは全くおかしな考えです。私は彼が(自分ではそうだと言いましたが。)本当にはエリコの回りを行進するように命じられ ていると信じているとは思いません。しかし、私たちは聖書は私たちのためではあっても、私たちに対して書かれたのではないことを認めるべきです。
もし読者の妥当性を無視するならば、以下の節があなたのために書かれているとするならば、あなたはどう理解するのでしょうか?
ヨシュア 6:25 しかし、遊女ラハブとその父の家族と彼女に属するすべての者とは、ヨシュアが生かしておいたので、ラハブはイスラエルの中に住んだ。今日もそう である。これは、ヨシュアがエリコを偵察させるために遣わした使者たちを、ラハブがかくまったからである。
3000歳を越えた女性が存在することになります。ラハブは今日もイスラエルに住んでいるのでしょうか?もちろんそんなはずはありません。ラハブは いないのに、どうして聖書は彼女が今日もイスラエルに住んでいると言うのでしょうか?ヨシュア記が書かれたとき、ラハブはイスラエルに住んでいたのです。 このことばはそれが書かれたとき、本当であり、確実なことだったのです。しかし、私たちにとっては3500年前のことであり、読者の妥当性を考慮して読ま なければなりません。それでは、別の聖句に移りましょう。
2 テモテ 4:21 何とかして、冬になる前に来てください。ユブロ、プデス、リノス、クラウデヤ、またすべての兄弟たちが、あなたがたによろしくと言っています。
これは私たちに対して書かれましたか?冬になるまでに、私たちはどこに行くべきなのでしょうか?どの冬のことを言っているのでしょうか?これはパウ ロがテモテに対して書いたものです。いつ書いたのでしょうか?紀元67年の冬が来る前に書かれました。
ピリピ 2:19-23 しかし、私もあなたがたのことを知って励ましを受けたいので、早くテモテをあなたがたのところに送りたいと、主イエスにあって望んでいます。テモテのよう に私と同じ心になって、真実にあなたがたのことを心配している者は、他にだれもいないからです。だれもみな自分自身のことを求めるだけで、キリスト・イエ スのことを求めてはいません。しかし、テモテのりっぱな働きぶりは、あなたがたの知っているところです。子が父に仕えるようにして彼は私といっしょに福音 に奉仕して来ました。ですから、私のことがどうなるか分かりしだい、彼を遣わしたいと望んでいます。(NKJV) But I trust in the Lord Jesus to send Timothy to you SHORTLY (tacheos), that I also may be encouraged when I know your state. 20 For I have no one like-minded, who will sincerely care for your state. 21 For all seek their own, not the things which are of Christ Jesus. 22 But you know his (Timothy's) proven character, that as a son with his father he served with me in the gospel. 23 Therefore I hope to send him AT ONCE, as soon as I see how it goes with me.
(日本語には現われていませんが)「すぐに」というギリシャ語のことばはタケオスです。Arndt and Gingichのレキシコンによるとタコスは70人訳聖書やある聖書外典などに使われていて、速さ、迅速さ、性急さ、突然性を意味しています。
テモテがまもなく来ることにあなたはワクワクしませんか?どうしてワクワクしないのですか?聖書はパウロが「すぐに」テモテを送ると言っています。 しかし、テモテがすぐに到着するのを待ちわびているクリスチャンがいるとは思えません。クリスチャンはこれが書かれた一世紀のピリピのクリスチャンに語ら れたものであることを理解するからです。「すぐに」というのは自分たちにとってではなくて、一世紀のピリピ人クリスチャンに対してだと理解します。それで は、どうしてキリストの再臨に主題が移るとクリスチャンたちはこの読者の妥当性という原則を無視するのでしょうか?
パウロがテサロニケ人への第一の手紙を書いたとき、一世紀に生きるテサロニケのクリスチャンたちに書いたのです。もし私たちがパウロが言うことを理 解したいと願うなら、このことを理解しなければなりません。
もし私たちが主が教えておられることが理解できないならば、この箇所を見て、理解しましょう。
1 テサロニケ 4:13-14 眠った人々のことについては兄弟たち、 あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみ に沈むことのないためです。私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスと いっしょに連れてこられるはずです。
第一に、イエスにあって眠った人々とはだれのことでしょうか?だれであるかを理解するために、テサロニケのクリスチャンたちが持っていて、クリス チャンでない人たちが持っていなかった「望み」が何かを知る必要があります。
イスラエルの「望み」とは復活だった:
使徒行伝 24:15 また、義人も悪人も必ず復活するという、この人たち自身も抱いている望みを、神にあって抱いております。(NKJV) "I have hope in God, which they themselves also accept, thatthere will be a resurrection of the dead, both of the just and the unjust.
使徒行伝 26:6-8 そして今、神が私たちの先祖に約束されたものを待ち望んでいることで、私は裁判を受けているのです。私たちの十二部族は、夜も昼も熱心に神に仕えながら、 その約束のものを得たいと望んでおります。王よ。私は、この希望のためにユダヤ人から訴えられているのです。神が死者をよみがえらせるということを、あな たがたは、なぜ信じがたいこととされるのでしょうか。(NKJV) "And now I stand and am judged for the hope of the promise made by God to our fathers. 7 "To this promise our twelve tribes, earnestly serving God night and day, hope to attain. For this hope's sake, King Agrippa, I am accused by the Jews. 8 "Why should it be thought incredible by you that God raises the dead?
この前の節からもパウロが「神が私たちの先祖たちに与えられた約束の望み」が死者の復活であったことと理解していたのは明らかです。
ホセア 13:14 わたしはよみの力から、彼らを解き放ち、彼らを死から贖おう。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。よみよ。おまえの針はどこにあるのか。あわれみはわた しの目から隠されている。
ですから、パウロがテサロニケの人々に話している「望み」とは復活です。
彼らは「復活」をどのように理解していたのでしょうか?ほとんどの教会が表明している伝統的な教えは以下のものです。「信者が死ぬと、彼らの肉体は 墓に葬られ、彼らの霊は主とともにあるために天に上げられます。彼らは終わりの日の復活を待つ間、肉体のない状態にいます。それから、終わりの日に主が再 臨され、すべての死んだ聖徒たちの朽ちたからだを復活させ、元に戻し、その後肉体をもって復活したからだをキリストのような霊的で朽ちることのないからだ に変えるのです。」
この考えの大きな問題のひとつはパウロが彼の時代に復活は「起ころうとしている」と教えたという点です。
使徒行伝 24:15 また、義人も悪人も必ず復活するという、この人たち自身も抱いている望みを、神にあって抱いております。
ですから、パウロの時代に起ころうとしていた復活とは何なのでしょうか?それは神がすべての旧約の死んだ聖徒たちをハデスから神の臨在に生きるため に天に移すということだったのです。イエスのメシア的み業の前までは、だれ一人として天に上った者はいませんでした。
ヨハネ 3:13 だれも天に上った者はいません。しかし、天から下った者はいます。すなわち人の子です。
イエスのメシア的み業の前までは、死んだすべての人はキリストの贖いの業と死者の復活を待つために死者をとどめておく場所に行きました。キリストが 人間の罪の支払いをしてくださるまで、人は神の臨在の中に入ることはできませんでした。シェオルから連れ出されて、主の臨在の元に連れて行かれることを聖 書は復活と呼んでいます。死 者の中からの復活を参照してください。
さて、質問に戻りましょう。パウロが第一テサロニケ4章13、14節で語っている「イエスにあって眠った人々」とはだれのことなのでしょうか?それ はシェオルまたは、ハデスにいる旧約時代の死んだ聖徒たちです。パウロはキリストが再臨されるとき、墓から旧約の聖徒たちを救い出し、復活させるというこ とをテサロニケの人々に保証しています。
テサロニケの人々は旅立った兄弟たちを心配しているかのようなものでs。パウロは第一テサロニケ4章14〜18節で心配しないように話すことで、彼 らに確信を与えています。なぜならパル−シアのときに、彼らはキリストとともによみがえるからです。そして「残っている者たちはそれに続くのです。」
1 テサロニケ 4:15 私たちは主のことばのとおりに言いますが、主 が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。
パウロが書いていることに注意してください。「私たちは主のことばのとおりに言いますが、主 が再び来られるときまで生き残っている私たちが、」ということばの「生き残っている私たち」は時を指示することばです。「私たち」とは パウロと彼の読者の集合体として理解されなければなりません。彼ら(パウロとテサロニケの人々)は彼らの生きている間にキリストの再臨があることを期待し ていたのです。このことは書簡を通して非常にはっきりしています
1 テサロニケ 1:10 また、神が死者の中からよみがえらせなさった御子、すなわち、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエスが天から来られるのを待ち 望むようになったか、・・・
1 テサロニケ 2:19 私たちの主イエスが再び来られるとき、御前で私たちの望み、喜び、誇りの冠となるのはだれでしょう。あなたがたではありませんか。
1 テサロニケ 3:13 また、あなたがたの心を強め、私たちの主イエスがご自分のすべての聖徒とともに再び来られるとき、私たちの父なる神の御前で、聖く、責められるところのな い者としてくださいますように。
1 テサロニケ 5:23 平和の神ご自身が、あなたがたを全く聖なるものとしてくださいますように。主イエス・キリストの来臨のとき、責められることのないように、あなたがたの 霊、たましい、からだが完全に守られますように。
パウロとテサロニケの人々は自分たちの生きている間にキリストの再臨を見ることをはっきりと期待していました。次のことにも注意してください。
2 テサロニケ 1:6-7 あなたがたを苦しめる者には、報いとして苦しみを与え、苦しめられているあなたがたには、私たちとともに、報いとして安息を与えることは、神にとって正し いことなのです。・・・
一世紀のテサロニケの人々に話しているパウロは神が彼らを苦しめる者たちに苦しみをもって仕返しをし、苦しめられている彼らには安息を与えられると 言います。これがなされるのはいつであると言っているでしょうか?
2 テサロニケ 1:7b〜10そのことは、主イエスが、炎の中に、力ある御使いたちを従えて天から現われるときに起こります。そのとき主は、神を知らない人々や、私たち の主イエスの福音に従わない人々に報復されます。そのような人々は、主の御顔の前と、その御力の栄光から退けられて、永遠の滅びの刑罰を受けるのです。そ の日に、主イエスは来られて、ご自分の聖徒たちによって栄光を受け、信じたすべての者の-そうです。あなたがたに対する私たちの証言は、信じられたので す。−感嘆の的となられます。
主が再臨されるとき、テサロニケのクリスチャンたちは彼らの敵からの安息が与えられるのです。もし彼らの生きている間に再臨が起こらなかったとした ら、主は彼らに偽りの希望を与えられたのであり、実際それは主が彼らをだまされたことになります。
パウロはキリストが彼らの生きている間に再臨されることと、死んだ聖徒たちに先立って生きている者たちが神の臨在の元に行くことがないこととを保証 しています。ヤングの字義訳聖書には以下のように訳されています。
1 テサロニケ 4:15 (YLT) このことを主のことばによってあなたがたに言いますが、生きている私たち・・・主の臨在まで残っている者たち・・・が眠った人々の前に来ることはないで しょう。
それではテキストの次の節に移りたいと思います。
1 テサロニケ 4:16 主は、号令と、御使いのかしらの声と、神の ラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、
もし神のことばを正しく解釈するなら、解釈学の原則を熱心に適用しなければなりません。解釈学の第一の原則は「信仰の類比」(the Analogy of Faith)で、それは聖書は聖書によって解釈するというものです。聖書のだの部分も聖書の他のどの箇所におい ても明らかに教えられていることがらと矛盾があるような方法で解釈されてはならないのです。
聖句と聖句を比較するとき、これが裁きについて語る黙示的表現であることが分ります。このテキストをマタイ24章を比較することで、その意味をさら に理解できるようになります。
マタイ 24:30-31 そのとき、人の子のしるしが天に現われます。すると、地上のあらゆる種族は、悲しみながら、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗ってこられるのを見るのです。人の子は大きなラッパの響きとともに、御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから 果てまで、四方からその選びの民を集めます。(KJV) And then shall appear the sign of the Son of man in heaven: and then shall all the tribes of the earth mourn, and they shall see the Son of man coming in the clouds of heaven with power and great glory. 31 And he shall send hisangels with a great sound of a trumpet, and they shall gather together his elect from the four winds, from one end of heaven to the other.
何か聞いたことのある表現ではないでしょうか?もちろんそうです。これはテサロニケの箇所と並行しているからです。イエスはこれをエルサレムの崩壊 の文脈の中で語られ、これらすべてのことがらの成就を彼らの時代は見るだろうと言われました(マタイ24:34)。聖書のことばで「雲」とは神の民の敵に 対する神の怒りと裁きを示す象徴です。ダビデは詩篇18篇3〜15節で、主は敵から彼を救うために雲に乗って来られると言いました。主は雲に乗ってエジプ トに来られ、彼らを裁かれると言われたのです。
イザヤ 19:1 エジプトに対する宣告。見よ。主は早い雲に乗って、エジプトに来る。エジプトの偽りの神々はその前にわななき、エジプト人の心も真底からしなえる。
主は文字通りには雲に乗ってはおられませんでした。しかし、アッシリヤの手によって裁きを受けたのです(イザヤ201〜6)。イエスが物理的に雲に 乗って来られるという考えは旧約聖書の預言者たちの理解したその性質に反するものです。
第一テサロニケ4〜5章とマタイ24章とを比較することは非常に興味深いことです。マタイ24章29〜35節で、イエスが黙示的表現を用いられたこ とを心にとめるとき、第一テサロニケ4〜5章は同じ表現が文字通り用いられていると考えることはできなくなります。マタイの主が来られるということがエル サレムの滅亡に関する霊的な出来事に関すると信じる人々は、雲も天使の吹くラッパも文字通りの解釈をするようにとは主張しません。マタイの出来事が文字通 りでないなら、なぜテサロニケの出来事を文字通りとするのでしょうか?マタイはテサロニケの表現の出所なのです。
| 1. キリストご自身が戻られる | マタイ 24:30 | I テサ 4:16 |
| 2. 天から | マタイ 24:30 | I テサ 4:16 |
| 3. 号令をもって(大能を帯び) | マタイ 24:30 (in power) | I テサ 4:16 |
| 4. 御使いたちをともなって | マタイ 24:31 | I テサ 4:16 |
| 5. 神のラッパ | マタイ 24:31 | I テサ 4:16 |
| 6. 集められる | マタイ 24:31 | I テサ 4:17 |
| 7. 雲(の中) | マタイ 24:30 | I テサ 4:17 |
| 8. 時は分からない | マタイ 24:36 | I テサ 5:1-2 |
| 9. 盗人のように | マタイ 24:43 | I テサ 5:2,4 |
| 10. 差し迫った裁きに気づかない | マタイ 24:37-39 | I テサ 5:3 |
| 11. 産みの苦しみのように来る裁き | マタイ 24:8 | I テサ 5:3 |
| 12. 目をさましている信者たち | マタイ 24:42 | I テサ 5:4 |
| 13. 酩酊への警告 | マタイ 24:49 | I テサ 5:7 |
マタイ24章で、イエスはその時代に聖徒たちを集めるために来ると預言されました。第一テサロニケ4、5章では、パウロは聖徒たちを集めに主が同じように
来られることを語っています。新約聖書には主が天使と伴い、力と栄光を帯びて、聖徒たちを集めに来られる主の再臨は何回あるのでしょうか?たった一度で
す!結論は避けられないものです。第一テサロニケ4、5章はマタイ24章と全く同じ再臨、裁き、聖徒を集めることが扱われているのです。
1 テサロニケ 4:16 主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうち に、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、
パウロは紀元70年に起こったエルサレムの裁きのためにキリストが来られたことについてテサロニケの人々に語っています。これが起こったとき、旧約 の聖徒たちはハデスからよみがえり、主の臨在のもとへ携え上げられました。
1 テサロニケ 4:17 次に生き残っている私たち が、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。
ここが物理的携挙説が導き出される箇所です。この箇所をギリシャ語で少し見るだけで、多くの誤った考えはすぐに払拭されます。
それでは、この節の最初のことば「次に」から始めましょう。これはギリシャ語で「エペイタ」です。一般的には連続する出来事を描写するときに用いら れ、「次に」という単純なことばは「エイタ」が使われます。エイタのもっとも正しい訳は「そのとき」とか、「次に」です。エイタはすぐに続くことを示すた めに用いられます。以下を見ましょう。
ヨハネ 19:26-27 イエスは、母と、そばに立っている愛する弟子とを見て、母に「女の方。そこに、あなたの息子がいます。」と言われた。それから(eita)そ の弟子に「そこに、あなたの母がいます。」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分の家に引き取った。
これは一連の出来事です。ひとつの出来事のあとにすぐ次が来ます。
しかし私たちが見ているテキストで使われているギリシャ語はエイタではなくて、エペイタです。本質的には同じいみですが、接頭語のエピが付いていま す。これは「後」(after)ということばに「それから」(then)ということばを付ける効果があります。一番よい訳は「そしてその後」とか、「その 後に」となり、すぐ後に続くという考えを含みません。
以上の意味する考えをさらに明らかにするために、エペイタが使われている他の箇所を見ましょう。
ガラテヤ 1:18 それから (epeita) 三年後に、私はケパをたずねてエルサレムに上り、彼のもとに15日間滞在しました。
この場合、「それから」ということばは少なくとも3年を含んでいることを意味しています。
ガラテヤ 1:21 それから (epeita) 、私はシリヤおよびキリキヤの地方に行きました。
パウロはたぶん始めに中心的な港であるカイザリヤに行き、そこから彼の生まれ故郷タルソ(使徒9:30)に船で行きました。次に彼はたぶんキリキヤ 地域のタルソからシリヤに行きました。それは彼がエルサレムを離れた後、シリヤとキリキヤに着きました。
ガラテヤ 2:1 それから (epeita) 14年たって、私は、バルナバといっしょに、テトスも連れて、再びエルサレムに上りました。
ここでのエペイタは14年たった後です。
1 コリント 15:23 しかし、おのおのにその順番があります。まず初穂であるキリスト、次に(epeita) キリストの再臨のときにキリストに属している者です。
ここのエペイタは40年の期間を表しています。その概念は、「その後すぐではなく、その後のあるときに起こること」というもので す。
さて、第一コリント15章5〜8節を見ましょう。
1 コリント 15:5-8 また、ケパに現われ、それから(eita) 12弟子に現われたことです。その後(epeita) 、キリストは500人以上の兄弟たちに同時に現われました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すで に眠った者もいくらかいます。その後(epeita) 、 キリストはヤコブに現われ、それから(eita) 使徒たち全部に現われました。そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも、現われてくださいました。
この箇所では、エイタとエペイタの両方が使われていることが分ります。15章5節で、ペテロが見たすぐ後、同じ日に12弟子たちがイエスに出会った ことを示しているエイタであることが分ります。15章6節では、エペイタが「その時の後」という意味で使われています。なぜなら、500人はしばらく後ま でイエスに出会わなかったからです。15章7節では、再びエペイタが使われていて、500人がイエスに出会ったしばらく後、イエスはヤコブに現われたとい う意味です。次に、言及されているのはヤコブに現われた後すぐにいえすはすべての弟子たちに現われたということです。
ですから重要なポイントは、第一テサロニケ4章17節で使われている「次に」ということばは「すぐ後に」を意味するエイタではなく、「その時の後」 を意味するエペイタです。
1 テサロニケ 4:17 次に (after that time) 生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げ られ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。
もし生きている人たちもほとんど同時に携え上げられ、変えられるはずだったとしたら、「キリストにある死者が、まず始めによみがえり」ということば のポイントは何なのでしょうか?パウロはキリストが戻られるとき、キリストにある死者はよみがえり、そのときの後生きている人々は彼らの肉体の死のとき に、彼らと一緒に雲の中へ「引き上げられる」だろうと言っています。
「引き上げられる」ということばのギリシャ語は「ハルパゾー」であり、「さらう、パッと持っていく」という意味です。これが「携挙」ということばの 元です。しかし、「引き上げられる」の確実な意味は地上から空に肉体が空中浮遊するというものとは異なるものです。この「引き上げられる」ことは再臨の後 のいつか起こることを忘れないでください。
「ハルパゾー」は肉体が「引き上げられる」ことに使われることもありますが、肉体を持たずにクリスチャンが「引き上げられる」こ とにも使われることもあります。たとえば以下のような使われ方です。
ひとりの人を知っています。この人は14年前にー肉体のままであったか、私は知りません。肉体を離れてであった か、それも知りません。 神がご存知です。−第三の天にまで引き上げられ(harpazo)ま した。私はこの人が、−それが肉体のままであったか、肉体を離れてであったかは知りません。神がご存知です。−パラダイスに引き上げられ(harpazo) て、人間には語ることを許されていない、口に出すことのできないことばを聞いたことを知っています。
パウロはこの男が「引き上げられた」のは肉体のままであったかどうか知りません。「ハルパゾー」のできごとに肉体は必要ありません。そうでなければ パウロはこの出来事をはっきりしないこととして表現しなかったでしょう。パウロは生きているクリスチャンがキリストの再臨のときに、生きた肉体を持って引 き上げられるだろうことを意味していなかったことが私たちには分かります。なぜなら、それは決して起こらなかったからです。歴史がはっきりと教えるよう に、再臨後もクリスチャンたちがまだいました。
ケネス・ジェントリー著の「BEFORE JERUSALEM FELL: Dating the Book of Revelation -- An Exegetical and Historical Argument for a Pre-A.D. 70 Composition」の中で、90年代にポリュカリポスはヨ ハネを見たという証拠を上げています。ですから、パルーシアの後、約20年経ったころ、ヨハネはまだ生きていました。
1 テサロニケ 4:17 次に生 き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにい ることになります。
パウロは再臨のとき生きている者たちが後で、空中で主に会うために、よみがえった死者とともに引き上げられるだろうと言います。
たぶん「聖書が空中で主とお会いするために私たちは引き上げられますという意味は何でしょうか?」と尋ねるかもしれません。これは私たちは空に肉体 を持って吸い込まれるということを意味するのでしょうか?「空中」の意味は何でしょうか?それは私たちの環境を言うのでしょうか、それとも私たちが呼吸を する空気でしょうか?私はエペソ2章がこの空中の意味が何であるかを教えてくれると考えます。
エペソ2:2 そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。
この「空中」ということばは天的、また霊的領域の別の言い回しです。聖書を通して分るように、サタンはいつも贖いの計画の反対者でした。サタンは空 中の権威を持つ君でした。ローマ16章20節でパウロはサタンは「すみやかに(すぐに)」彼ら(読者の妥当性を忘れないように)の足で踏み砕かれると言い ます。エルサレムの崩壊以来、イエスは現在その領域を奪い、聖徒たちとともに「空中」で支配しておられます。これが聖徒たちが主と出会うのと同じ「空中」 なら、携挙は物理的な領域であるべきだということを信じる必然性はなくなるわけです
パウロは彼の生きている間に戻って来られるだろうと信じていました。彼は力強く再臨、復活、裁きについて語りましたが、生きているクリスチャンの肉 体を持った携挙については語りませんでした。
携挙されるのは肉体ではありません。携挙されるのは肉体の死が訪れたとき、その肉体を離れ、霊的な領域へと移るクリスチャン自身です。キリストが 戻って来られるとき、死んだクリスチャンは復活し、他のすべてのクリスチャンは肉体の死が訪れたとき引き上げられたのです。
2 コリント 5:1 私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。
携挙は死ぬとき、私たちが地上の家を離れて天の家に移されるときに起こります。
パルーシアにすぐに続くことがらに関連した箇所を見ると、次のような箇所を見つけることができます。「四方からその選びの民を集めます」(マタイ 24:31)、「おのおのにその順番があります」(1コリント15:23)、「次に生 き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにい ることになります。」(1テサロニケ4:17)、「今から後主にあって死ぬ者は幸いである」(黙示録14:13)。こ れらはみな今日の私たちのためでもあります。死とハデスから「引き上げられ」、まっすぐ天国に行って「集められる」という過程は紀元70年に始まりまし た。「携挙」は天的領域に対する箇所を扱ったものです。すべての信者はみなその人の死のときに引き上げられます。黙示録11章18節は紀元70年に始まっ た新しい時代における継続的な状態をはっきりと示しています。「今から後、主にあって死んだ者は幸いです。」ハデスから死んだ聖徒たちが復活した後、この 集められることは王国の完成とともに始まり、この時代を通して継続しています。
「肉体を伴った携挙」という考えは聖書のどこにも見出されませんし、教えられていません。それに関するみことばの裏づけはありません。この逃避的哲 学は単純な作り話です。聖書には現実逃避は教えられていません。神がすべてのことを働かせて益としてくださることを知っている(ローマ8:28〜30)の ですから、現実に直面するように教えられているのです。
へブル書の記者はこのように書きました。
ヘブル 9:27 そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、
私たちは肉体の死から逃れられません。すべての人にそれが定められています。しかし、肉体的に死ぬとき、私たちは天の領域に「携挙」されます。そし て、「いつまでも主とともにあるのです。」
1 テサロニケ 4:18 こういうわけですから、このことばをもって、 互いに慰め合いなさい。
私たちの望みは死ぬ前に地の表から肉体が取り去られることではありません。私たちの望みは肉体に死が訪れるとき、主の臨在に永遠に住むために天の領
域に「携挙」されることです。「こういうわけですから、このことばをもって、互いに慰め合いなさい。」