現代のディスペンセーション主義者もプレテリストも同様に、終焉理論(cessation
theory)として知られている、第一コリント12〜14章で約束されている賜物は終わったという理論を教えています。ディスペンセーション主義者は、
完全なものが現われた、すなわち(聖書の)聖典が完成したので、賜物は終わったと主張します。一方、多くのプレテリストは「完全なもの」とは紀元70年の
キリストの再臨であると主張します。「完全なもの」がこれらのどちらでもない可能性はあるのでしょうか?私の立場はこれです。この終焉理論の背後にある傾
向はおおむねエキュメニカルであると思います。(私も含めた)弁証家たちは説明しがたい霊的な現象を実際的に説明することに苦しんでいます。結局、非常に
神秘的で、言葉で表現できないことがらがどの程度失われたものに対する理解をもたらすことができるのでしょうか?
このことに関わらず、私たちはペンテコステ・カリスマの爆発的な運動は、霊的
な賜物と聖霊のバプテスマが世界的に理解されているだけでなく、求められているものとして、世界一速く成長する宗教的運動となっていることを知っていま
す。このことは私たちがこのようなことを経験する第一世代であるかどうかを考えさせるほどのことがらです。
歴史の証言
歴史がどのように語っているか見て行きましょう。アウグスチヌスが終焉主義を最初に理論化した人でしょう。しかし、それは、彼の教会で奇跡が起こ
り、考えを変えるようになるまでのことでした。そのような奇跡の中には盲人が見えるようになったり、癌がいやされたり、死人が生き返るということが含まれ
ていました。この証言は懐疑的な人々には悪くないことでしょう。
「Tryphoとの会話」の中でジャスティン・マーターは「今日まで、預言の賜物は私たちのそばにあります。神の 霊的な賜物を持つ男女の間 に、それを見ることができます。」と記しています。
テルトリアヌスは同じように賜物の効力についてマルキオンに挑戦しています。
イレナエウスは「Against Heresies」で、「他の人々はやがて起こることについての知識が与えられています。彼らは幻を見、預言的表現を口にしています。また別の人々は、手 をおいて人々をいやし、健康が与えられます。さらに、私がすでに語ったように、死人でさえ甦り、彼らは何年も私たちと過ごしました。」と記しています。
オリゲネスは「これが意味するのはこうです。人によっても、悪霊どもによってもいやされない、いたましい病や、こ ころの病気、精神的病、その他数え切れない 病から解放された人々を見てきました。」と証言しています。
サイプリアンは「夜の幻以外にも、昼間でさえも、私たちの無垢な子どもたちは聖霊に満たされて、主が警告し、指示 しておられることを彼らの目をもっ て見、聞き、話しました。」と記しました
大グレゴリーは死者が生き返ったこと、いやし、溺れている若者を水の上を歩いて助けた人のことについて記しまし た。
私はこれを延々と続けるつもりはありません。しかし、あなたも修道士たちの中にカリスマ的な賜物が働くのを見出す
でしょう。アッシジのフランシス、
クラーヴァックスのバーナード、ビンゲンのハイルデガード、ワルド派、マルチン・ルター(病人をいやし、悪霊を追い出した)、アナバプテスト、ウェスレー
や他にも数え切れない人々がいます。
完全なもの
使徒、預言者、伝道者、教師、牧師という五職は過ぎ去っていくものとして決して意図も意味もされていませんでした。聖霊の賜物も、聖霊に満たされる
こともそうです。終焉的なみことばとは「完全なものが現われたら、不完全なものはすたれます。「(1コリント13:10)です。私たちの霊的な先祖たちは
このみことばを誤解したのでしょうか?さらに大切なことは、私たちはこの箇所をどのように解釈するのかということです。「完全なもの」、「テレイオ」は一
箇所以外では、どの箇所でも「成熟」と言う意味です。この言葉が用いられている箇所はマタイ19:21、1コリント2:6、1コリント14:20などで
す。さらに重要なことは、これは一度たりともイエスや神の名として用いられたことがありません。ただ、父なる神が「完全な存在」として語られていますが、
イエスは戻って来られましたが、父なる神は紀元70年に戻っては来られませんでした。ヘブル5:14では、「しかし、堅い食物はおとなの(テレイオ、完
全)の物であって」と語っています。同じように、パウロはコリントの人々に警告を与えることで、手紙をスタートして次のように言います。「私はあなたがた
に乳を与えて、堅い食物を与えませんでした。あなたがたには、まだ無理だったからです。」1コリント13:10を理解する鍵は、パウロが苦労して彼らの未
熟さと賜物の乱用が終わるように、教会を成熟へと導く試みをしていたということです。
正典でも再臨でもなく、成 熟に向かうこと
「現われ」、また「エルコマイ」(1コリント13:10)ということばは何か建て上げられるものを描写します。パウロは聖典ではなくて、またキリス
トの再臨では全くない、成熟へと建て上げられていくことについて話しています。私たちはコリント教会が混乱していたことを理解しなければなりません。その
とき、パウロは彼らが喧嘩好きで(1コリント1:11)、キリストにある幼子で(1コリント3:1)、肉的で、妬みがあり、争いに満ちて(3:3)、傲慢
で(4:19)、はなはだしく不品行で(5:1)、おろかで(6:5)、敗北していて(6:7)、人をだますもので(6:8)、自制心に欠け(7:5)、
分裂して(11:18)いたと書いています。同じように、パウロは彼らの集会が益にならないで、害になっている(11:17)こと、教会で酔っ払っている
(11:21)こと、忍耐がない(11:33)ことを明らかにしています。手紙の最初の11章でパウロは信じられないような未熟な教会を取り扱っていま
す。エペソのクリスチャンたちに対しては、パウロは成熟という同じ目標について語っています。「こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言
者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるため
であり、ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけまでに達するためで
す。」(エペソ4:11〜13)「まで」(英語の聖書にはっきり出てくる)や「大人になって」ということばに注意しましょう。これは1コリント13:10
と同じような響
きがありませんか?「聖書は聖書によって」と「聴衆の適用性」という解釈学の原則を用いるなら、私たちは終焉が契約や分割期間に関係するのではなくて、教
会の完全な成熟に関係することをはっきりと見ることができます。
「エイテ プロフェテイア イ・・・エイテ グロッサイ・・・エイテ ノーシス」
続いて1コリント13:8を見る必要があります。「愛は決して絶えることがありません。預言の賜物ならばすたれます。異言ならばやみます。知識なら
ばすたれます。」ここで、パウロは霊的賜物と愛の実とを比較しています。ここでの忠告は預言と知識の賜物は明滅するが、愛は永続的に続くということです。
ここで再び翻訳者はこの節に妥協する前提的バイアスを用いていると思います。これは文字通りには、「『愛は』『決して〜ない』『すたれる』『しかし、
or〜でさえ』『もし』『預言』『過ぎ去る』『もし』『異言』『終わる、or控える』『もし』『知識』『過ぎ去る』」と読みます。ですから、もし私たちが
バイアスを取り除くなら、「預言でさえ過ぎ去り、異言でさえ控えられ、知識でさえ過ぎ去ります。愛は決して絶えません。」と読むことができます。ここには
大きな「もし(仮定)」があるのです。「エイテ」ということばは出来事が過ぎ去らない余地を残します。14章27節で「もし異言を話すのならば、ふたり
か、多くても三人で順番に話すべきで、ひとりは解き明かしをしなさい。」と書かれています。ここでの「もし」は起こるかもしれないし、起こらないかもしれ
ないことについて語っています。
私は今までに求めに応じて預言ができる人と出会ったことがありません。求めに応じて知識のことばを聞くことのでき る人に出会ったことがありません。 ここでパウロが言っていることは、これらの賜物は主権的に与えられるものであり、私たちの霊性を証明するために信頼できるものではないということです。し かし、もし私 たちが愛するなら、世界はキリストと私たちの関係を認識するのです。彼は異言はすたれるだろうと言います。
実際、私の教会では、異言の賜物はまれで、時々現われるだけです。預言や知識のことばと同じように、異言には頼る
ことができません。愛と比べるなら
まったく劣るものです。私は賜物は弱いものであると言っているのでしょうか?そうではありません。正しく用いるなら、賜物は力強いものであり、キリスト教
のワクワクする分野です。神のみ声を聞くという訓練と、どのように信仰を建て上げるかを教えるのに有益です。パウロは公の場で適切に賜物を用いることを教
えています。無分別な賜物の使用はコリント教会の問題でした。自制がない人の生活を述べるのに、パウロは「やかましいどら」とか、「うるさいシンバル」と
いうことばを用いています(1節)。パウロの彼らに対する忠告は愛とは違い、霊的賜物は自動販売機のようには働かないという現実を教えました。賜物は主権
的に神によって与えられるるものであり、決して私たちが作り出せないものであり、節度をもって取り扱うべきものなのです。
神の国とさらに偉大な業に 関する最終考察
プレテリストは聖書が「封印された」とは考えていません。もしそうであるなら、今日私たちは救いを経験することも、私たちの時代に神は特別なご計画
を持っておられることを信じることもできないでしょう。大切なことは、キリストの預言が成就したけれども、キリストの教えは永続するものだということで
す。プレテリストだけが、今日私たちは神の王国に生きているという一貫した信仰を持つことができるのです。超自然的賜物が神の王国を建設するための貴重な
ものだと信じないのでしょうか?地上でのイエスの生涯はすべての賜物を行使した超自然働きに満ちていることを私たちは知っています。そしてイエスは私たち
をも任命し、支配するようにと言われました。イエスは私たちがさらに偉大な働きをすると約束されました。
次のことを考えてください。私のホームタウンのワシントン州スポーケンは世界一とは言わないまでも、かつて合衆国 一健康な都市として認められていま した。どうしてそのようになったのでしょうか?ジョン・G・レークという人が病気の人に対して特別な重荷を持ち、祈り始めました。彼のミニストリーを通し て人々が癒され始め、彼らのいやしの証拠書類の作成のために人々を医者の所に送りました。後に数え切れないぐらいの証しと新聞記事があり、10万件の書類 が残されています。彼はおおぼら吹きでしょうか?証しをした人々によるとそうではありません。事実、かつて彼は億万長者でしたが、謙遜なライフスタイルを 送るために貧しい人々に与えました。そして彼のミニストリーが非難されないようにしたのです。私はどうしてこのことを知っているのでしょうか?それは、私 の姉妹がレークの曾曾孫と結婚し、私の牧師が彼の家のリフォームを終えたばかりだからです。私は彼の人生を研究しました。あなたも彼の生涯を研究し、自分 で見つけ出してください。あなたはいやしを信じますか?もし病気の家族や友だちのために祈ったことがないなら、祈りましょう。あなたは預言を信じますか? も し今までに神の声を聞いたことがないと主張するなら、聞きましょう。このようなことは気持ちの悪いことではなく、非常に実際的なことです。リリー・トムリ ンがかつて「あなたが神と話すとき、それは祈りであると言われるのに、どうして神があなたに話されるときは、精神分裂なのでしょうか?」と尋ねました。 まったくその通りです。
終わりに、聖霊に心を開くことによって、私たちの肉体や精神機能のコントロールを失い、そのために霊的な依存をし
なければならないという不幸な考えがあると私は思います。この心配は私も理解できます。私も私のような考えの他の人々もしっかりとした理性的分別を持ち、
霊的な見分けをしなければならないときは注意深くあるということを申し上げておきましょう。聖霊は私たちからそれを取り去ることを願っておられません。イ
エスは私たちが魚を求めるのに神はへびは与えない
ことを約束されました。ですから、私たちは大胆に神の前に行くことができて、聖霊に満たしてくださるように願うことができるのです。そのことに恥ずべきこ
とはありません。起こることで最悪のことは、何も起こらないことです。私は一度も話そうとしないで異言を話したことはありません。しかし、話すときは何を
話すべきか聖霊が導いてくださるのを感じます。私は聖霊が認めてくださっていることを、時々私には何を祈っているか分らなくても神が私の祈りを理解してく
ださっていることを感じるのです。友人の何人かが教会の中で奇跡や聖霊の賜物を見たことがないと議論していました。その理由は信仰がこれらのことがらへの
ドアを開くということです。神は強制をされません。私が経験してきたことはまったく私の理性を吹き飛ばします。それは私の牧師が教会の中に霊的な雰囲気を
作り出すようにつとめてきたからです。へりくだり、神の主権に信頼し、信仰の雰囲気を自分自身のうちに作り出しなさい。賜物は法則ではありません。それは
まったく聖書的です。神はあなたにそれを受けてほしいのです。
※この論文はダナ・ネイサン・サルスバリー氏の許可をいただいて、翻訳掲載しています。よって無断転載を禁止しま
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