「死刑について考える」

 

 掲示板ではいろいろな話題が登場する。軽いノリの話しから重い話題に至まで多種多様だ。「子どもの教育」に関する話題からふと発言してしまった「死刑」の問題を掲示板の過ぎ去る話題としておくことができなかったので、私自身の考えを整理するためにもまとめてみたいと思う。

 論を進めていくのに色々なアプローチがあるだろうが、ここではみーむさんが勧めてくださったリンクの「死刑のレトリックと死刑廃止の論理」(1995年度冬学期 テーマ講義「殺生のレトリック」)http://plaza9.mbn.or.jp/~n2s/matui/genkou/sikei.txtという題の「死刑」反対意見に反論していくという形を取りたいと思う。

 さて、これから「死刑廃止論」に反論していくわけだから私は「死刑賛成」という立場に立っている。私の前提はクリスチャンであり、それも聖書を最高権威と認める信仰を持つ者としての視点から話しを進めていく。(クリスチャンと言っても多種多様な神学を持っているので、私の意見がすべてのクリスチャンを代表しているわけではない。)

 

 それでは始めたいと思う。「死刑のレトリックと死刑廃止の論理」の本文は平成明朝体(黒字)で、私の論はOsaka字体(青字)で記すことにする。

 

 

 

日本では一般的に人を殺すことは忌み嫌われる。15年戦争とその敗北の

経験、それに敗戦後に作られた日本国憲法の平和主義によって、外国では「

権利」である戦争すら人間が殺し殺されるものとして積極的には支持されな

い。人質をとった犯罪などでも、人質の人命尊重はもちろんのこと犯人をむ

やみに射殺するようなこともされない。こうした日本における不殺生の根拠

がどこからくるものであるかは定かではないが、ある種の文化として根ずい

ているのは確かである。

しかし、そうした日本であっても、人間を殺すことが、合法的に、人々に

支持されているものとしていくつか存在している。一つは中絶である。ただ

し、そもそも胎児を「殺す」ことができるのか、つまり胎児は生命を持った

「人間」なのか、という点で中絶を殺生と呼びうるか、という疑問の余地は

ある。もう一つは死刑である。死刑には先程のような疑問を挟む余地はない。

 

 

 合法的殺人のひとつに「中絶」を入れていただいて感謝である。「中絶」は殺人なのでこちらをぜひとも廃止してほしい。この方には胎児は生命を持った人間なのかという疑問が残るようであるが、私には疑問は残らない。聖書は胎児も人間だと語っているからである。

「詩篇 139:13 それはあなたが私の内臓を造り、母の胎のうちで私を組み立てられたからです。

詩篇 139:14 私は感謝します。あなたは私に、奇しいことをなさって恐ろしいほどです。私のたましいは、それをよく知っています。

詩篇 139:15 私がひそかに造られ、地の深い所で仕組まれたとき、私の骨組みはあなたに隠れてはいませんでした。

詩篇 139:16 あなたの目は胎児の私を見られ、あなたの書物にすべてが、書きしるされました。私のために作られた日々が、しかも、その一日もないうちに。」

 

 ところが、この方は死刑は疑問を挟む余地のない殺生であると言われる。私の持つ小学館の新選国語辞典で「殺生」を調べると、(一)いきものを殺すこと(二)ざんこくなこととある。

 

 

刑罰を課すという点で、明らかに責任を負った個人として認められた人間

を殺すのだ。どう考えても殺生である。しかし、日本には死刑制度があり、

そればかりかかなりの人々が死刑制度を支持している。逆に死刑制度の廃止

を主張しようとすると、理解を得られず猛反発されることが多い。

 

 

 死刑は人を殺すことであるから(一)の定義で使っているならば、死刑は確かに殺生ではあるが、死刑制度を考える上での問題は(二)の定義だ。本当に死刑は残酷な刑罰なのだろうか。

 私たちは明らかに責任を負った個人だからこそ刑罰が必要であり、故意にいのちを奪った犯罪者には、最高刑としての死刑が必要なのだ。犯罪にふさわしい刑罰という観点からは死刑はけっして残酷な刑罰ではない、だから(二)の定義において死刑制度は殺生ではない。明らかに責任を負えない乳幼児は、明らかに死刑を適用すべき犯罪も犯さない。

 

 

このレポートでは死刑制度のレトリックを暴き、死刑廃止の論理を主張し

ていきたい。

日本に死刑制度が存置されているのは国民がそれを支持しているからであ

る。それを根拠にした政府の死刑容認の当否は後述するとして、まず、どの

ようなレトリックに基づいて死刑が存置されているのかみてみたい。

 

 

 国民は日本が罪に満ちあふれる世界にならないためにも死刑制度存置を支持し続けなければならない。そのため死刑廃止の論理も死刑制度のレトリックと何ら変わらないことを主張したい。

 

 

死刑制度存置主義の人々(以下「賛成派」)は死刑制度の必要性について

いくつかの論拠を上げているが、おおきくわけて

一:死刑には犯罪抑止力がある

二:犯罪相当の責任は死刑でしか果たせない

三:被害者感情からみても死刑は当然

四:国民世論が死刑を支持している

という四点だろう。これらのほかにも幾つか論点はあるかもしれないし、

この四点の中でも重点の置きかたが時期によって若干違うだろうが、この四

つについて検討を加えて批判していくことにする。

 

 

 私の場合はもちろんこの4つを論拠として死刑制度存続を叫ぶわけではない。だから、この四点をつかれても痛くも痒くもないが、一応一緒に見ていくことにしよう。

 

 

まず死刑には犯罪抑止力があるから、死刑をすることで凶悪犯罪を抑える

ことができるという議論について考えてみる。こうした考えは一見納得はし

たくなるもので、広く知れ渡った説だが、実はその根拠は曖昧である。

犯罪に対する刑罰の恐ろしさを知らしめるために死刑を行うというのなら

、まず、現在の死刑の形態は誤っていると言わなければならない。なぜなら

、現在の死刑は秘密裏に執行されているからである。もし賛成派が「死刑制

度の威嚇力」を主張するのなら、市民のいる広場でギロチンでも行うのが一

番良いはずだが、そのようなことはされない。死刑執行自体が非公開である

というだけではない。死刑執行の事実、誰が処刑されたのかという情報すら

非公開なのだ。現在死刑執行が報道されているのは市民グループなどの調査

に基づいたもののみである。法務省をはじめ当局は一切沈黙している。この

ように死刑がなされたかどうかも国民に教えないで、どうして犯罪の抑止力

など期待できるのだろうか。

 

 

 死刑問題を扱う時にもちろん死刑という刑罰だけを取り上げて話題とすることは不可能だろう。死刑のやり方にも問題があるだろう。私はそれを否定するつもりはない。

 

 

これに対して、死刑制度の存在自体が威嚇力をうみ犯罪の抑止に役立つと

いう意見もある。しかし、これも根拠のない「俗説」の域を出ない。世界の

中では死刑制度の廃止や事実上の廃止、または復活ということがみられるが

、これらの様々な地域・歴史を比較検討しても、死刑制度の犯罪抑止力は今

まで証明されていないという。(菊田幸一『いま、なぜ死刑廃止か』「第4

章犯罪抑止力とならない死刑」より) もちろんこのことは死刑制度に犯罪

抑止力がないということの証明がなされたということを意味しないが、犯罪

抑止力があるということの証明が現在までないということはハッキリしてい

るのである。

 

 

 これに関しては抑止力があるとも証明されていないし、ないとも証明されていないということなので、どちらの論を支える論拠としては上げることができないだろう。諸刃の剣というところだ。

 

 

 

論理的に考えても、殺人のような犯罪を犯すことは、激情にかられてだと

したら死刑について思いを巡らせる余裕などないし、計画的犯罪だとしたら

そもそも自分が逮捕されて死刑に処されることなど考えないのであるから、

死刑に犯罪抑止力があるとはとても言えない。逆に、犯罪を犯した者は、犯

行後に死刑を想起することがおおく、犯罪が発覚し死刑になるのを恐れて、

逃亡や目撃者を口封じするための殺人など更なる犯罪をする恐れがある。つ

まり死刑は犯罪を抑止するどころか犯罪を助長するかもしれないということ

だ。 それでも「いや、死刑制度があるから犯罪を思いとどまっている人が

実はおおぜいいて、そうした人たちは死刑制度と凶悪犯罪の相関関係を調べ

る統計をとってみても暗数として表れないだけなんだ」という反論もあるか

もしれない。しかし、仮にも人間の生命を奪う死刑制度を支持する根拠に、

「暗数」といった曖昧で証明しようもない、先入観かもしれない事柄を提示

するべきではない。

 

 

 「暗数」といった曖昧で証明しようもない、先入観かもしれない事柄を提示すべきでないと言いつつ、ご自身が犯罪を助長するかもしれないという「暗数」を述べておられるではないか。結局は両者とも証明され得ないということではないか。

 

 

では、死をもって責任を取るしかない、という議論はどうか。これには論

理として粗雑であるという批判が成り立つ。というのは、最初のほうでも触

れた通り、犯罪の責任を取らせるということ自体がその人を一つの人格とし

て認めていることを意味する。(もしそうでなければ、年少者や精神障害者

のように刑法によって罰せられることはないはずだ。)

 

 

 年少者や精神障害者は人格ができていないので、犯罪を犯しても人格ができている大人のようには責任を取らせないという論理であるが、この論の方が粗雑過ぎないだろうか。  

 現在、少年法の改正の議論があったり、凶悪犯罪者が精神鑑定を受け、精神障害と認められれば刑が軽減されるということの問題点を考える時に、決して死刑廃止の根拠とはならないだろう。

 

 

そして、その人は

日本国憲法で明記されている基本的人権は当然有している。しかし、死刑は

基本的人権、というより人間の根源的要件である生命を奪い、責任主体の存

在を抹消してしまうのだから、死刑は、基本的人権に反し、責任主体という

概念を想定した刑法理論と矛盾する。

 

 

 死刑廃止論が語られる時、必ず加害者の人権が強調される。被害者はやはり人権を有した存在だったのであり、殺されて、存在しなくなれば死者の人権をとやかく言っても仕方がないということだろうか。感情論ではなく、基本的人権を用いて死刑廃止を訴えるならば、もう一度基本的人権の定義を考え直す必要があるのではないだろうか。ここにおいても死刑廃止論は決定的な根拠を賛成派に突き付けることはできない。

 さて、死刑を語る時に忘れてはならないのはどのような犯罪を犯したかである。もちろん、死刑に値しない犯罪者を死刑にするのは殺生である。基本的人権に反しているだろう。聖書は「目には目。歯には歯。手には手。足には足。」(出エジプト記21章24節)と書かれている刑罰は犯罪に見合ったものでなければならないという聖書の神の義とあわれみが満ちた規定なのだ。そして前節23節には「しかし、殺傷自己があれば、いのちにはいのちを与えなければならない。」と書かれている。責任主体ということならば、いのちを奪った犯罪は主体自らが存在を抹消してしまうほどの責任あることを犯してしまったのであり、主体はその責任を取らなければならないということだ。

 

 

また日本国憲法との関係でいえば、第

三十六条で「拷問及び残虐刑の禁止」を掲げており、死刑が「残虐な刑罰」

に該当しないというのにはやや無理があるように思える。

 

 

 聖書の観点からもう一度言うが、拷問とか残虐刑というのは犯罪に見合わない刑罰を課するということだ。人間の勝手な定義や、この方が後程扱う感情論で拷問や残虐刑を決めてしまってはそれこそやや無理があるのではないだろうか?

 

 

死には死をもって報いよ、というのは理にかなったようにみえてその実不

合理である。こうした感情はアニミズムに端を発する原始的なものであって

理性的であるとはいえない。なぜなら死刑にされたからといって殺された被

害者が生き返るわけではないし、責任が取れるわけではない。無駄な殺生を

一つ増やすだけである。

 

 

 死刑が殺生であると決定されたわけではないので、無駄な殺生ということは成り立たない。「死には死をもって報いよ」という感情がアニミズムに端を発しているそうである。原始的だそうだ。理性的ではないそうである。ここまで書かれると科学的で、現代的で、理性的な人たちは納得するのかもしれない。しかし、証明されていない以上、このことばだけで納得させようというのは如何なものか。

 

 

しかし、こうした「理性」を重視した論議をすると必ず次のような反発が

予想される。「被害者感情を無視していいのか」という被害者感情論である

。もちろん無視していいわけはない。だが、被害者感情について考える前に

、確認しておかなくてはいけないことがある。まず、死刑になるような犯罪

の場合、直接の被害者は殺されているので、実際の被害者の無念さは遺族が

代弁しているということ。そして、マスコミも含めた遺族以外の人々は被害

者感情を代弁できるかどうかも怪しい第三者に過ぎないということ。

 

 

 今の所、私にはそれほど理性を重視した議論のように思えない。先程からどれも証明されていないことがらの上に論を進めておられるようにしか思えないからである。

 人の感情の上に死刑制度を築き上げているのならば問題であるかもしれないが、根本は法(律)とは、被害者感情でも、その遺族の感情でもないところで定められたものでなければならない。もし刑罰がただ人の感情の上に築かれるならば、死刑は残酷だという感情が多数派を占めれば、逆の感情の上に法が定められたということになる。

 

 

単なる第三者に過ぎない、という指摘は被害者感情を代弁しているつもり

になっている「正義感」溢れる人々を怒らせるかもしれない。しかしそれは

やはり事実なのだ。日本においては、マスコミを中心に「かわいそう」とか

「許せない」といった感情が、理性的に判断されることなく煽り立てられて

いるように思われる。こうしたヒステリックな扇動の中では、容易に被害者

と自分を同一視しがちなのである。以下に一部を引用するのは新聞の投書欄

にのった典型的な第三者の被害者感情論である。

 

「被害者の無念考えて欲しい」

(前略)女子高校生コンクリート詰め殺人事件の一審で、求刑の余りの

  軽さに驚いた私は、被害者やそのご 両親の無念さを思うと居ても立

  ってもいられず、検察庁あてに極刑を求める手紙を一晩がかりで書いた

  ことがある。これが逆に寛刑を要望する手紙であったら、どんなに気楽

  だろうなと思いながら。(後略) (朝日新聞1993.3.30朝刊)

 

私はこの投書を読むと背筋が寒くなる。感情移入すること自体が悪いと言

っているのではない。度が過ぎるのだ。被害者や遺族に頼まれたわけでもな

いのに極刑を要望する。自分の要望書のせいで被告が死刑にでもされたら、

そして実際に処刑されたら、仮にそれが被害者や遺族の希望だとしても、私

なら、関わるべきではなかった、と後悔するだろう。ここでみられるとおり

、第三者の被害者感情論の恐ろしさは、正義が自分に在ると信じ込み、直接

自分とは利害関係の無い人間を死刑に追込むことが義務であるかのように錯

覚されることである。人権感覚の無い週刊誌が、かつて、死刑廃止運動に対

して「ヒステリックだ」という批判をしたが、その記事自体が死刑囚の犯行

の「凶悪さ」を煽り立てることに終始していたことからもわかる通り、死刑

存続の言動のほうが実際にはヒステリックなのだ。遺族が感情的になるのは

仕方ないにしても、それに便乗したマスコミや第三者が感情的に騒ぎ立てる

のは許されることではない。

 

 

 両サイドがお互いに「ヒステリック」であると叫び合うのだから、死刑は残酷だという感情派も、被害者感情派も死刑の「法(律)」としてのあるべき姿を無視しているとしか言いようがない。

 

 

 

では遺族が感情的に極刑を叫んでいるような場合は死刑は許容されるのだ

ろうか。この場合も、遺族の気持ちは無視されていいわけはないが、死刑が

なんの解決にもならないことを説いていくしかないだろう。たとえ相手が殺

人者であっても、それを殺せば自分も殺人者になってしまうのである。

 

 

 法(律)によると死刑にふさわしい犯罪を犯して死刑となっても、その刑を執行した人は殺人者にはならないのだ。警察がスピード違反の車をスピードを出して捕まえても、その行為をスピード違反としないのと同じである。

 

 

たしかに現実には被害者側も、あるいは求刑する検察・判決を言い渡す裁

判官・執行に同意する法相も、自分たちでの手で死刑を執行するわけではな

い。しかしそのことは、「死刑」の持つ重大さを隠蔽しているのではないか

。つまり、現実には死刑の執行官は存在しており、彼らは職務とはいえ、人

を殺すことに悩みを感じているのである。いわば彼らは代理として殺人者に

なってしまっているのだ。現在の死刑制度がこうした執行官の苦しみの上に

成り立っていることを無視することはできない。また、このことから、「殺

したいほど憎い」と主張するような人に、では処刑してください、と処刑の

自由を与えても、実際に彼らが殺すかどうかは疑わしい、ということが考え

られる。たとえそれが「凶悪犯罪者」であったとしても、人を殺すというこ

とは簡単にはできないだろう。つまりこのことから言えるのは、死刑を求刑

する人は、たとえ当事者であっても、死刑を何か遠くの世界のことのように

抽象的に考えており、実際に死刑囚が死刑に処せられて死んでいくかどうか

にはほとんど関心が無いということである。

 

 

 この意見こそ、感情論である。さきにも述べたように、刑罰執行は感情でするものではない。法としての死刑を論じているのであって「私刑」を論じているのではないので、執行人がどのような感情を持つかは別問題である。何度も言うがこれは「法(律)」の問題なのだ。

 

 

さらに、死刑制度が感情の問題を解決しないから「死刑がなんの解決にも

ならない」というだけでなく、実際社会的にみても、死刑は役に立たない。

というのは、日本の場合、死刑制度が被害者感情をくみとっているという論

理のせいで、被害者救済がぼやかされてしまうのだ。日本の被害者補償は貧

弱である。安田好弘氏によれば被害者救済のための国民一人あたりの負担額

は、日本が4円50銭であるのに対して欧米平均60から70円である。(

講義レジュメより)死刑が執行されるより、被害者補償で金銭的に援助して

もらうほうが、遺族にとって大事なことだといえるのではないだろうか。つ

まり、被害者感情を尊重するなら、加害者に極刑を求めるよりも、被害者補

償を重要視するべきである。

 

 

 これも話題のすり替えである。被害者賠償は被害者賠償で考えられなければならない別の問題である。切り離して考えなければ何がなんだか分からなくなるではないか。死刑を養護している人たちも被害者補償や賠償を十分なものだと納得しているというのではない。また、死刑のゆえに補償が十分になされていないというつながりもない。もしあるなら、それこそ法改正をしなければならない。

 

 

そして以上見てきたことを踏まえて、最後に、国民の世論に依拠した死刑

存置論を検討していく。最近の賛成派の論調も、他の論拠が成り立たなくな

ってきたせいか、この世論に頼った時期尚早論が多いように感じられる。

まず指摘できるのは、世論を根拠にするのは「論理」として意味を成さな

いこと、つまり消極的に死刑制度の存続を主張するに留まり、死刑制度が無

くてはならないという「理論」を欠いているということだ。

 

 

 国民世論に立脚した制度は問題である。結局は感情論に終わってしまう。その通り「理論」に欠けている。

 

 

つぎにこの考えが問題なのは世論にどこまで信頼を置けるかということで

ある。世論は、質問の仕方や時期によって結果が大きく異なる。誘導的に、

「凶悪犯罪」の起きた直後に、そうした犯罪に触れつつ「死刑は必要だと思

いますか」と質問したら、死刑の犯罪抑止論に疑問を呈するような情報を持

ってなければ、死刑制度に賛成するだろうことは目に見えている。こういう

誘導的な世論は信用できない。しかし、日本の総理府の調査はまさにこれを

やっているのだ。そしてこの世論が死刑存置の根拠となっているのである。

問題はそれだけでない。仮に「正確な」世論が測定されたとしても、それ

を死刑制度存置の理由、もっと突っ込んで言えば政府が死刑廃止を拒む理由

になりうるかのだろうか。死刑制度の問題点について情報を得ている人と、

日頃は死刑について何の関心もない人とでは死刑について意見が違い、今ま

で述べてきたような死刑制度の問題点について理解をしている人のほうが、

死刑廃止に傾きやすいだろうということは当然予想がつく。逆に言えば、何

も知らされていない人は死刑存続に傾きやすい。このように情報が与えられ

ていないが為の死刑制度存置の世論は、多数決では勝つかもしれないが全く

説得力はない。私は多数の声を無視するつもりはないが、論理的でない議論

を採用する必要性はないと思っている。なにより、日本政府にとって世論が

口実にすぎないのは、世論が賛成しなかった消費税やPKO法、そして現在

の住専問題などに対して、決して世論に耳を傾ける事無く「必要だからやる

のであり、国民も理解して欲しい」と強引に推進した過去があるからである

。この論理でいけば、死刑制度も世論とは関係無く議論できるはずだ。都合

の良いところだけ世論を引き合いに出すのではとても納得できない。

 

 

 その通りだろう。多数決の論理を用いてもことはうまく行かないし、世論を口実にする動きもある。また、世論がどうであれ政治的思惑や利権の問題で世論を押し切ってしまうこともあるからだ。有限で、罪人である人間がすることだからヒューマニズム的観点からは何の答えも、解決もないということだ。

 

 

このように死刑賛成派の主要な議論を検討した結果は、死刑存置の確たる

根拠はないということである。

 

 

 同様に反対派の議論にも十分な根拠はない。

 

 

繰り返しになるが、基本的人権のもっとも根

本的な生命の維持を侵害する死刑制度の根拠が曖昧であるようなことは許さ

れないのである。また、言うまでもないことだが、一度死刑で処刑されてし

まえば、後で誤判であることがわかってもとりかえしがつかない。問題を抱

えた死刑制度は即座に撤廃すべきである。

 

 

 誤判や冤罪の問題もまた別に論じなければならないことである。

 

 

死刑制度の廃止を主張すると、代替案を提示しろと言われる。私は法律の

専門家ではないし、死刑制度の問題点を主張するための議論に代替案を示す

必要性はないと考えるが、敢えて出すとすれば死刑の代わりに「無期懲役」

で十分なのではないかと思う。現在、同じような犯行でも、裁判官によって

死刑と無期懲役の判断が分かれ、法の下の平等に反してるのではないかとい

う問題提起もされている。このことは逆に言えば、死刑のところを無期懲役

にしても実質的には何も弊害はないということである。無期懲役にすると、

恩赦や仮出獄などで実質的には甘い判決になるという懸念があるようだが、

これは死刑以外の制度の話であって、不都合なところは改善すれば良いのだ

から死刑廃止に反対する理由にはならない。

 

 

 さて、ここまで一般に言うところの死刑賛成派と反対派の議論を見てきた。一般の議論による根拠はあくまでも人間を中心にした考えである。歴史が移り、時が流れる中で、人々は両論の間に揺れるであろう。

 私は第3の道としての死刑賛成を上げたい。それは冒頭で述べた私のクリスチャンとしての、それも聖書を絶対権威とする立場である。

 現代人は科学的であると考えている。科学的とは実証的であるということだ。事実であることしか認めない、確認できることしか存在を認めないというものである。しかし、人間が有限な存在である以上、すべてを実証できるのではない、だから人間はだれしも信仰(前提)によって生きている。すなわち人間はみな信仰者なのである。人間という存在は信仰するか、信仰しないかという存在ではなく、何を信仰しているかという存在である。

 だから、前提や信仰が違えば違う考えや行動、生き方が出てくるのは必然的なものである。そしてそのような存在であるものたちが死刑を論じているのだから、共通項など見つかるはずはないのだ。

 いや、コモン・センスがあると言う人は人間が信仰者であるということを理解していない人だけである。

 それゆえ私は第3の道を主張することを躊躇しない。聖書は聖書の神がいのちの主、創造者であることを語る。旧約聖書のエゼキエル書18章4節には、「見よ。すべてのいのちはわたしのもの。」と神が宣言しておられる。いのちが大切なのは生きているからではなく、いのちの作者、いのちの所有者がおられるからであるというのが聖書の主張である。極論のようになるが、この事実を認めない社会は、神戸の須磨事件の少年Aの発言をする社会となる。すなわち「人の命はそんなに大事ですか。アリやゴキブリと一緒やないですか。」(「暗い森」より)という社会である。コモン・センスだけに頼るところには少年Aや彼のような犯罪者を牽制できる法は築き上げられない。

 聖書は神がいのちを作られたと同時に、いのちを大切にされるので、いのちを奪う殺人(聖書は故意の、計画的なもの)に対して死の刑罰を要求するという。また、死刑が抑止力を持たないという議論は人間が神を認めないからである。聖書は出エジプト記20章20節で、モーセを通して言われた神のことばを記している。「恐れてはなりません。神が来られたのはあなたがたを試みるためなのです。また、あなたがたに神への恐れが生じて、あなたがたが罪を犯さないためです。」

 

 また、聖書はすべての人々が神の裁きの座に立つことを語っている。ヘブル書9章27節「そして、人間には、一度死ぬことと死後に裁きを受けることが定まっている。」とある。聖書によるとこの人生は永遠のための準備期間なのである。永遠の死刑を受けないために人はまことの神を恐れて生きなければならない。神を恐れて生きるとは聖書に従って生きるということだ。そしてその聖書は故意の殺人などに関しては死刑を求めているのである。

 

 感情論や人間の理論で議論しても人間は結局恐れを持たない。無限の絶対者の存在が有限な人間の罪を抑止するのである。だから、まことの神から離れた論議はどこまでも多数決か、感情論で終わってしまうのだ。

 私は予言者ではないが、死刑を廃止した社会の将来を予言することができる。それは犯罪が満ち、常に弱者が搾取される社会である。ソドムやゴモラと言われる社会の再現である。箴言12章10節に「悪者のあわれみは残忍である。」と書かれている。

 私たち人間は自分の有限さを認め、謙遜になり、聖書の法に従って生きていく時こそ、個人から神のいのちがあふれ、その社会は平和と繁栄が来るのである。

 

 

以上見てきたように、死刑制度には多くの問題があるが、それを支えるレ

トリックは薄弱なものでしかない。この他にも、国連の死刑廃止条約との関

連や国際的死刑廃止状況、日本の死刑確定囚の扱いにみられる人権意識の低

さなど論点はまだあるが、今回は省略した。

 

最後に、死刑といえども殺生には変わらないということを確認したうえで

、一刻も早い死刑の廃止を再び主張してこのレポートを終わりにする。

 

 

 以上見てきたように人間が根拠とする死刑制度にも問題があるし、それを廃止しようと言う議論にも問題がある。聖書から語りたい論点はまだまだあるが、今回は省略しよう。

 

 そして、最後に正しい死刑制度と殺生は結びつかないということを確認した上で、人間の知恵ではなく、神の知恵、聖書の知恵に立脚すべきことを主張して反論を終わりたいと思う。

 

谷口明法

 


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