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 サンドリンはセライアを非難する (パート1)  


 パー ト2 - 本当の聖書的プレテリストは立ち上がってください!



 パー ト3 - 先生方、救われるためには何をしなければなりませんか?







J. E. Gautier Jr.



先日、プレテリスト・アーカイブをサーフィンしていた時、 カルケドン財団のリンクを見つけました。そのサイトで、「事実関係を明確にする:カルケドンが本当に信じていること( The Chalcedon Foundation)」 というタイトルの記事を見つけました。この記事は聖書の過去派解釈の反対者の最も大きな声を上げている人々のひとりアンドリュー・サンドリン師によって書 かれました。その記事の「使い捨て終末論」という見出しの中で、サンドリン師は次のように記 しました。



「私たち、カルケドンはキ リストの初臨の時に神の国は建設され(マタイ3:2)、キリストの教会は現在、神の王国を拡大するために力が与えられる(マタイ28:18~20)と信じ ているために、またある異端的な人々がキリストの再臨と義人と悪人の最後の復活と審判は紀元70年に起こったと提案するので、私たちはキリスト教の偉大な (未来の)終末的出来事を大切にしていないと時々批判されます。この批判は全く間違っています。」



そして彼は続けて自分の意 見である、キリストの私たちにとってまだ未来の再臨を確信する聖書の箇所のいくつかを提供しています。



「・・・さらに、イエスキ リストの再臨と最後の復活と審判が紀元70年に起こったとする(異端的な)人々は聖書と信仰を攻撃しているのです。使徒行伝1章11節はイエスの再臨は彼 が天に上げられたのと同じように、肉体を伴い、弟子たちが見つめていたように目に見えるように起こると教えています。そして私たちはこのことがまだ歴史の 中で起こっていないことを知っています。キリストは『神を認めない者、主イエスキリストの福音に聞き従わない者に、罰を与えるために燃え盛る火の中を来ら れるのです』(2テサロニケ1:8)。」

そうですか。それでは、 サンドリン牧師は2テサロニケ1章8節を「私たちが歴史の中でこれがまだ起こっていないと知っている」ので、私たちにとってまだ未来のこととして理解し、 またそれが起こったと信じているなら、その人は「異端」であるに違いないというのですね。私の質問はこれです。それでは、サンドリン師はどうしてC・ジョ ナサ ン・セライアの本、「すべてのことがらの終わり:未来を擁護する?」(The End of All Things, A Defense of the Future ?  )を支持したのですか?その本の裏表紙でサンドリン師は以 下のように書いています。

「著者は(プレテリスト が)彼らの立場を支持するために採用する主要な聖書箇所が実際はそれを支持していないこと、その他の箇所ははっきりとそれを論駁していることを示していま す。」

私はサンドリン師が本当に この本を読んだかどうか不思議でなりません。なぜなら、サンドリン師が異端だと考えられるべき人々の定義として選んだ聖書箇所、2テサロニケ1章8節をセ ライアは紀元70年のこととしているのです!

セライアの本の14ページ で、セライアは2テサロニケ1章を紀元70年のことと断定しています。

「この認識は近づいてい る、一世紀のキリストの再臨の預言を区別するために助けになります(マタイ10:23、16:28、24:30、26:64、1テサロニケ5:2、2テサ ロニケ1:7、ヤコブ5:7~9、1ペテロ4:7、黙示録1:3,7他)。それゆえこれらは紀元70年に成就しました。」

もちろんサンドリン師は決して(今のところは)セライア氏を異端だと言ってないことを私は知っています。しかし私のポ イントは妥当であり、証明されていると思います。サンドリン師が出す異端の訴状にふさわしくなるまでに、サンドリン師のリストのいくつの聖書箇所をパー シャル・プレテリストは紀元70年のこととすることができるのでしょうか?私はセライア氏が2テサロニケ1章を紀元70年のこととしたのは100%正しい と信じています。なぜでしょうか?それは、それが新約聖書で最も過去派的な箇所だからです。同時に、私はサンドリン師がそれをなぜ未来のこととしなければ ならないかを理解することができます。なぜなら、それは(もしあなたが未来派であるなら)同様に新約聖書で最も未来派的な箇所のひとつだからです。みなさ んは私の議論をこのリンク先で読むことができます。- Too Much Information.    

ところで、サンドリン師の「ある異端的な人々はキリストの再臨と最後の復活と審判が紀元70年に起こったと提案してい ます。」という意見に関してですが、あなたは使徒パウロをサンドリン師のリストのトップに置かなければならなくなるだろうと言わせていただいてもかまわな いでしょうか?2000年前、パウロは「まもなく」復活があると書きました。多くのギリシャ語の字義訳聖書(ヤング、グリーン、ウェイマウス、ダービー、 マーシャルなど)は以下の復活の箇所において「メロー」を「「まもなく(about to)」と訳しています。(訳注:残念ながら日本語の聖書は「メロー」をはっきりと訳していません。)

使徒行伝24:14-15
しかしこ こで、はっきり申し上げます。私は、彼らが『分派』と呼んでいるこの道に従って、先祖の神を礼拝し、また、律法に則したことと預言者の書に書いてあること を、ことごとく信じています。 更に、正しい者も正しくない者もやがて復活するという希望を、神に対して抱いています。この希望は、この人たち自身も同じように抱いております。」

これは使徒行伝28章6節 (パウロが毒蛇に噛まれた時)にあるのと全く同じ「メロー」の用法です。

使徒行伝28:5-6  
ところ が、パウロはその生き物を火の中に振り落とし、何の害も受けなかった。体がはれ上がるか、あるいは急に倒れて死ぬだろうと、彼らはパウロの様子をうかがっ ていた。しかし、いつまでたっても何も起こらないのを見て、考えを変え、「この人は神様だ」と言った。」
_____________________  

2テモテ4章1節で、使徒 パウロはもう一度復活が差し迫っていることとそれが人の子が自分たちの時代と結びついていることを伝えるために「メロー」を用いています。

神の御前 で、そして、生きている者と死んだ者を裁くために来られるキリスト・イエスの御前で、その出現とその御国とを思いつつ、厳かに命じます。」

2テモテ4章1節の「メ ロー」のこの用法は使徒行伝18章14節で見るのと全く同じ用法であり、今日の一般的な聖書のどの訳においても「メロー」を「まもなく~する」と訳してい ます。

「パウロが口を開こうとす ると・・・」(使徒行伝18:14)

メローと2テモテ4章1節 に関して、ジェームズ・スチュアート・ラッセル博士は以下のように述べています。

このことの成就が近づいて いることは はっきりと支持されています。欽定訳の「裁かれる方(‘who shall judge)」ではなく、「まもなく裁かれる方(who is about to judge)」です。このような一箇所でパルーシアの時が近かったということに関しての疑問に解決を与えることに十分で しょう。しかし、一箇所だけの代わりに、私たちはこの主題に関しての全新約聖書の首尾一貫した考えを持っています。この件にかんして使徒たちは間違ってい たと言う人々はどこが霊感されていないか、どこが霊感されているのかの区別をする明確な才能を持たなければなりません。もし聖パウロが霊感を受けて「裁 く」と書いたなら、どうして同じように「まもなく」と書いたことが霊感されていなかったということがあり得るでしょうか?」  (The Parousia, p.262)  

それでは、使徒行伝24章 15節と2テモテ4章1節が正しく訳されていなかったとしたら、どのようにこれらの節をパーシャル・プレテリストたちはキリストの再臨に合わせることがで きるのでしょうか?パーシャル・プレテリストたちが紀元70年に人の子がまもなく来ると教えているのは偶然なのでしょうか?これらの箇所はまさにそのこと を教えているのではないのでしょうか?パーシャル・プレテリストは未来派の人たちの意見に反対するために「メロー」の議論を用いながらも、なぜこれらの箇 所においてはそうではないのでしょうか?プレテリストではないギリシャ語の学者はこの復活が起こるという明確な時間設定された箇所において「メロー」を 「まもなく~する」と訳しています。これらの箇所はパーシャル・プレテリストが支持する紀元70年における新約聖書の著者から見ての未来のキリストの再臨 に完全に適合します。パーシャル・プレテリストはこれをどのように説明するのでしょうか?今のところどのような説明もありません。

「メロー」とパーシャル・ プレテリストの首尾一貫しないこの用法に関してはさらにここをお読み下さい。Welcome to the Dance

「メロー」に関する他の聖書箇所と字義的翻訳はこちらをご覧下さい。mello







  本当の聖書的プレテリストは立ち上がってください?!?!
     (サンドリンはセライアを非難するの続き)                             

The Preterist ABCs

J. E. Gautier Jr.    

キリストの肉体を伴った、 文字通りの再臨をかつて支持していたすべての聖書箇所・・・キリストは「見られる」と実際に語っているすべての聖書箇所・・・人気のあるリファランス・バ イブルのほとんどすべての箇所はこの肉体を伴う、文字通りの目で見ることのできるキリストの再臨を証明する箇所として使徒行伝1章11節を参照しま す。・・・しかし現在パーシャル・プレテリストたちはこれらの箇所のすべてが紀元70年に起こったと言います。

マタイ 16:28 「はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、人の子がその国と共に来るのを見 るまでは、決して死なない者がいる。」

マタイ 24:30 「そのとき、人の子の徴が天に現れる。そして、そのとき、地上のすべての民族は悲しみ、人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る。」

マタイ 26:64 イエスは言われた。「それは、あなたが言ったことです。しかし、わたしは言っておく。あなたたちはやがて、/人の子が全能の神の右に座り、/天の雲に乗っ て来るのを見る。」

黙示録 1:7 見よ、その方が雲に乗って来られる。すべての人の目が彼を仰ぎ見る、 /ことに、彼を突き刺した者どもは。地上の諸民族は皆、彼のために嘆き悲しむ。然り、アーメン。

もし、キリストは「見られ る」とか、「雲に乗って来る」という、私たちにとっての未 来のキリストの肉体を伴った、文字通りの再臨という解釈を支えるための土台としてかつて用いられていた箇所のすべてが取り去られ、それらが紀元70年のこ とであるとされるなら、何が残されるのでしょうか?

パーシャル・プレテリスト にとって、キリストは紀元70年に雲に乗って来られました。しかし、使徒行伝1章11節を将来の再臨に残しています。sれは「私たちは歴史の中でこれがま だ起こっていないと知っている」からです。キリスト教の歴史を通じて(また今日の未来派の人々にとって)、使徒行伝1章11節と「見られる」とか「雲に 乗って来られる」という上記の聖書箇所はキリストの肉体的、文字通 りの再臨を支持する箇所とかつては考えられていました。しかし現在は、パーシャル・プレテリストさえも使徒行伝1章11節以外は紀元70年に成就した箇所 と理解しています。彼らはもはや「見ることのできる」未来の肉体を伴う、文字通りのキリストの再臨を支持する聖書箇所を持っていません。これらのすべての 箇所は紀元70年に当てはめられるのです。それでは、パーシャル・プレテリストにとって聖書は聖書によって解釈するを使徒行伝1章11節に当てはめるので しょうか?彼らはそうはしません。使徒行伝1章11節だけは例外なのです。

ウエストミンスター信仰告 白1章の「聖書について」のところには以下のようにあります。

九 聖書解釈の無謬の基準 は、聖書自身である。従って、どの聖句の(多様ではなくて、ひとつである)真の完全な意味について疑問のある場合も、もっと明らかに語る他の箇所によって 探究し、知らなければならない。 

プレテリストにとって、上 記の聖書箇所は同様に紀元70年に当てはまります。そして使徒行伝1章11節を解釈するために上記の聖書箇所は用いられるのです(聖書は聖書によって解釈 する)。「雲に乗って来られる」という上記の聖書箇所に注意してください。使徒行伝1章11節は雲に覆われて彼らの目から見えなくなりました(雲が彼らの 視界から見えなくなるようにキリストを受け取りました)。「同じ有様で」雲をもって(乗って)戻って来られるのでしょうか。

それでは、本当の聖書的プ レテリストとは誰でしょうか?プレテリストは答えを見つけるために聖書以外に行ったりはしません。そうです。歴史的文脈的解釈という解釈法のひとつはとて も有効です。エルサレム崩壊を取り巻く出来事の知識なしに、新約聖書の「主の日」の預言を解釈することは確かに難しいでしょう。しかし、たくさんの明白な ことばが用いられた箇所が存在します。キリストのことばを単純に信じるなら、私たちは理解するために聖書以外のものに行く必要はないでしょう。

例えば、マタイ24章 1~2節を例に挙げましょう。
イエスが 神殿の境内を出て行かれると、弟子たちが近寄って来て、イエスに神殿の建物を指さした。 そこで、イエスは言われた。『これらすべての物を見ないのか。はっきり言っておく。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない。』」

もう一度お尋ねしましょ う。プレテリストは聖書を解釈するために別の公言された「権威」(信条や信仰告白)という聖書とは別のところに行くべきでしょうか?それとも、プレテリス トがするように聖書自身に行くべきでしょうか?

パーシャル・プレテリスト は私たちにとっての未来の再臨を理解するために聖書の中に留まっているでしょうか?ケネス・ジェントリー博士はこのように言います。「『来る』ということ ばに付随する時間設定がある場合のみ、その時のみ、それは紀元70年の再臨に当てはめられる。それ以外の他のすべての『来る』という箇所は私たちにとって まだ将来のことと考えられるべきです。」

なぜジェントリー博士はこ のように言うのでしょうか?私たちは信条を拒むべきなのでしょうか?このやり方はソーラ・スクリプトゥラなのでしょうか?

質問:一世紀の聴衆、また は2000年後の未来の読者のだれかが時間設定に関連した再臨以外に他の再臨があるという考えをどこで見出すことができるでしょうか?どこにもありませ ん。聖書のどこにもキリストや使徒たちが彼らに近づいているひとつの再臨以外の別の再臨を教えている箇所を見つけられません。聖書以外のところでのみ別の 再臨を見つけられます。パーシャル・プレテリストたちが言うようにキリストが2つの異なった再臨を教えられたなら、なぜ新約聖書の一箇所においてでさえ、 イエスがどちらの再臨を言っておられるのかを問いただす弟子たちの質問が見当たらないのでしょうか?どこにも弟子が手を挙げて、「待ってください、イエス 様。分からなくなりました。今はどちらの再臨を言っておられるのですか?」と尋ねている箇所を読むことができません。または、キリストご自身が「それで は、私はもうあなたがたに直接関連する人の子の再臨の話しはしません。今からは何千年か未来の再臨について話します。」と言われた箇所も見出せません。そ してジェントリー博士が言うような私たちにとって未来の再臨を実際に預言された明白な時間設定の箇所も見出せないのです。私たちにとって未来の再臨のため の時間設定は聖書にはありません。

(フル)プレテリストが異 端だと考えられるのは、時間設定が付随している「人の子の再臨」の箇所をもって、おそらく時間設定を持たないと考えられる箇所を解釈するからです。それで は、誰が本当の聖書的プレテリストであり、誰がそうではないのでしょうか?誰が聖書の範囲内に、外部の影響ではなく聖書のみに留まっているのでしょうか?

誰がいったい本当の聖書的 プレテリストなのでしょうか?




  「先生方、救われるためには何をし なければなりませんか?」                
 (「サンドリ ンはセライアを非難する」と「本当の聖書的プレテリストは立ち上がってください?」の続き)       

The Preterist ABCs

J. E. Gautier Jr.                                        

問題はキリストが救 われるのか、教義が救うのかではありません。何が分かち合われた信仰の宣教の土台となるべき福音なのかです。・・・そしてさらに重要なのは福音に背くとい う問題です。 (Dr. R.C. Sproul, from Faith Alone)

プレテリストに対するアナ セマの中で、カルケドン財団の責任者のひとりウェイン・ジョンソンは以下のように書きました。

「ハイパー・プレテリスト たち(フル・プレテリストたち)」は偽者の福音を宣教しています。キリストと神の王国の敵たちに「「アナセマ マラナタであるように。

ハイパー・プレテリストは 聖書はキリストの再臨を過去のことだと教えていると信じている人々のためにケネス・ジェントリー博士が作り出した特別な用語です。

ジェントリー博士に質問し たいことはこれです。カルヴィンはハイパー・カルヴィニストでしたか?5ポイントカルヴィニストたちを見る3ポイント、または4ポイントカルヴィニストた ちは「ハイパー」と叫びますか?

最近、私はジェントリー博 士に電子メールを送り、彼に質問しました。

もしある人がイエスキリス トがその人の罪のために十字架で死なれたと信じているけれども、聖書は物質の身体の復活を伴った物質的な、目に見えるキリストの再臨が私たちの将来のこと であると教えていることを信じていなければ、その人は救われていませんか?

ジェントリー博士の返信は こうでした。

私は聖書が「主イエスキリ ストと未来の再臨を信じなさい。そうすればあなたは救われます。」ではなく、「主イエスキリストを信じなさい。そうすれば救われます。」と聖書が教えてい ることを支持しています。

「イエスはすでに再臨され た」ということは多くの人々にとって困惑することでしょう。ある人々は未来の再臨を信じた方がいいですよ、そうでなければあなたは救われませんと教えるで しょう。しかしこれは初耳です。私のクリスチャン生活において一度もこのように聞いたことがありません。しかし今、「プレテリズムはその醜い頭を持ち上げ て来た」ので、福音にこの新しい仕掛けがつけられ、新しい要求が付け加えられたというのは不思議なことではないでしょうか?

すべてのプレテリストは ジェントリー博士が救われるために必要なことに同意します。何が救いの信仰の本質であり、何がそうではないかに同意します。福音のメッセージに関してプレ テリストたちとジェントリー博士は同じページにいます。「先生方、救われるためには何をしなければなりませんか?」という質問に対しての大切なことはこれ であり、終末論ではありません。
この基本的なことがら、し かしもっとも大切な問題に関しては、ジェントリー博士は彼と同じ陣営の多くの人々とは対立しています。

この新しい福音の多くの教 師たちは著名な改革派であり、パーシャル・プレテリストの著者や牧師たちです。思い浮かべるのは、スプロール・ジュニアやキース・マシソンといったリゴニ ア・ミニストリーノ人々です。

この記事を書いた目的はこ のようなナンセンスを終わりにしたいからです。その上、カルケドンのアナセマにおいて、私たちはプレテリズムが偽の福音と呼ばれていることを見ました。も しそうであるなら、ジェントリー博士が同意するように、それは救いの信仰には将来の再臨を信じるということが付け加えられるときのみ、偽りの福音です。 ジェントリー博士はたった一方が真実であるときのみ、必然的に他方が偽りであるに違いないことに同意されるに違いありません。 このハイパー救済論を取り入れない教会や人々はどうなのでしょうか?これらの人々に同意しない人は救われないのでしょうか?彼らが教えることのすべてを信 じる人だけが救われるんでしょうか?もし彼らがあるひとつの本質的なことに同意しないならその人は救われないのでしょうか?

これは終末論よりも大きな 問題です。これは本当の福音のメッセージに対する戦いです。この文章はジェントリー博士、またすべてのこれらの人々に同意しない他の牧師たちや聖書教師た ちを公の場に招くためのものです。
今こそ、カルケドンの用語 を用いるなら、ハイパー救済論者たちにI「偽りの福音の宣教者たち」と宣言すべき時なのです。

「信仰のみ」という著書に おいてR・C・スプロール博士は以下のように言いました。

確かに16世紀のカトリッ ク教会は自覚的に、また意図的に福音を攻撃(condemn)しませんでした。私はローマの聖職者たちが 彼らが信じていたことは異端であったことをとがめたcondemn)と信じます。事実、信仰の みは福音の本質です。そしてその間違った熱心さによってローマは福音を攻撃したのです。もし本当の福音が注意深い考慮の後に攻撃されたのなら、その攻撃は 意図的であってもなくても、背信の行為です。そのような教義が誰かを救うと支持する人がいるでしょうか?信仰のみの唯一のポイントは、それはローマがきっ ぱりと拒絶したものですが、私たちはイエスキリストにある信仰によってのみ救われるということです。問題はキリストが救われるのか、教義が救うのかではあ りません。大切なことは何が分かち合われた信仰の宣教の土台となるべきものなのかちうことです。・・・しかしさらに大切なことは福音に背くということで す。私にとっては宗教改革を理想化するという罠にはまることは容易なことです。私は宗教改革の本質は信仰のみの福音の回復と堂々とした擁護であったと信じ ています。・・・ (pp.179-191)

スプロール博士のことを考 えてみましょう。またもや同じことが起こっているのです。