
幸運な人
聖書箇所 創世記39章1〜10節
イントロ:
★ 幸運な人とはどのような人でしょうか?幸運というと、運がいいとか、ラッキーだとか、そのように考えるかもしれません。たとえば、「くじ運がいい」と言いますが、それはまるで世界や人生は偶然が支配しているように信じている考えです。しかし、聖書を読み、聖書の神イエスキリストを信じる人々は、偶然を信じませんし、全知・全能の神がすべてを支配しておられると信じるのです。
★ それでは、聖書が教える幸運とはどのようなものでしょうか?創世記39章1〜10節を読みましょう。
★ 2節に「彼(ヨセフ)は幸運な人となった。」とあります。どうしても私たちは日頃使っていることばの定義で理解をしようとしますが、英語の聖書では「成功している人」とか「繁栄している人」と訳されています。ヘブル語の辞書で見るといろいろな意味があります。「繁栄する、有益になる、よくなる(be
good)」という意味と、面白いことに「渡る、越える、脱出する、(力強く)来る」という意味もあります。その語源が「前に押す(push forward)」と言う意味なのです。
★ 聖書のことばの意味から見ても、2節に書かれている「幸運な人」とはラッキーな人という意味ではないことが分かります。しかし、彼の状況を見ると本当に幸運な人なのかという疑問が起こってきます。
★ 1節には、ヨセフがカナンの地から兄弟たちの憎しみをかってイシュマエル人の商人たちに売られ、エジプトに連れて行かれ、エジプト王ファラオの護衛隊のリーダーであるポティファルに売られた奴隷であることが書かれています。1節だけを見るとヨセフのどこが幸運な人だろうかと思います。
★ しかし、2節には幸運な人になった究極の理由が書かれています。それは、「主がヨセフとともにおられた」ということです。3節にも「主が彼とともにおられた」と書かれています。そして彼が普通ではないことを主人のポティファルも見たと書かれています。
★ しかし、神がともにいてくださることが幸運の理由ならば、人間の側には何もできないのだと考えてはいけません。人の側の理由があります。神はすべてを支配しておられますが、決して人はロボットではないということを知らなければいけません。それでは、ヨセフの幸運な人になった理由は何でしょうか?
本論
(1)苦難を通った(問題のない人はいない)
★ ヨセフの人生は苦難の人生でした。ヨセフは子どものころ神から人々の上に立つ者となることを夢で教えられていたのです。しかし、その夢は逆に兄弟たちを怒らせる原因となってしまい、実際にヨセフは兄弟たちによって奴隷に売られました。夢とはまったく逆の方向へと人生が向き始める出来事が起こってしまったのです。
★ しかし、これが神の計画だったのです。聖書は人生の勝利のためのトレーニング場として「牢獄につながれる」というテーマを繰り返しています。ヨセフがそうですし、ライオンの檻に入れられた預言者ダニエルがいます。新約聖書ではパウロがそうですし、究極的には墓という牢獄につながれたイエス様を見ることができます。しかし、その苦難は目的ではありません。苦難がゴールではないのです。勝利がゴールであり、苦難が勝利へと私たちを連れて行くというのが聖書のメッセージなのです。
★ 苦しみ、苦難の中で私たちは責任を負うこと、危険(リスク)を負っていくということを学びます。それによって私たちの心は強くされ、人格が形成されていくのです。責任を負わない人、リスクから逃げ出す人は決して人生の勝利者になることはできません。逃げ出す人に勝利はないのです。ユース・ハーベストにつながる私たちひとりひとりが苦難から逃げないひとりひとりになりたいものです。エドウィン・コールという人が「17歳でも成熟した人になれるし、70歳でも成熟していないことがある。」と言いました。歳をとったら大人になれると考えないようにしましょう。若くても成熟した者になれるようにイエスさまに期待していきたいと思います。
★ ヨセフは苦難の中で人格が形成されていきました。相手の気持ちも考えずに夢の話をしたときのヨセフとは違った人へと変えられてきていたのです。
(2)満足する
★ 幸運な人になった第二の理由は何でしょうか?それは、彼が「満足する人」であったということです。人にはふたつの姿勢が必要です。現状を満足する姿勢と現状を満足せずにさらに進んでいく姿勢です。多くの人々がこのふたつの姿勢は相容れないと考えていますが、そうではありません。このふたつの姿勢に生きる人こそ幸運な人となっていくのです。
★ 神からの召命(コーリング)に生きるために自由はさらにすばらしい状況でしょう。しかし、その前に人は自分が置かれた場所で満足するということを学ばなければなりません。1テモテ6章6〜8節に、「しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また何一つ持って出ることもできません。衣食があれば、それで満足すべきです。」とあります。
★ ヨセフにとって奴隷であることや牢獄につながれていることが一番良い状態であったはずはありません。しかし、そのような状態になってしまったのなら、そこで満足することを学ばなければ人生は不平と不満の連続の毎日となってしまいます。人は全知ではありません。すべてのことを把握できません。限りのある造られた存在です。ですから自分の限界を認めなければなりません。そしてその中で満足しベストを尽くして生きることが大事なのです。
★ ヨセフは奴隷としての現状に満足し、自分のできるかぎりのことをしました。それによって彼はポティファルの家の財産を管理する者として抜擢されました。後に牢獄に入れられたときも、彼は囚人としてベストを尽くしました。そこで監獄の責任者に認められ、そこでのすべてを管理する者として抜擢されたのです。(創世記39:21〜23)彼はその中で成功する者とされました。
(3)主に信頼して善を行う
★ 現代は「善」とか「善行」ということばは人気がありません。特にギャングエイジである十代の頃は、人から「まじめ」なんて言われるのがいやな時期かもしれません。しかし、面白い人、ユニークな人であることと「不真面目」であることは違うということをしっかりと区別しておかなければなりません。
★ ヨセフはポティファルの奥さんに関係を持つようにと言い寄られました。この奥さんの様子からポティファルが奥さんを始め、家族を省みていなかったと思えます。家族のことに無関心な主人ですから、その家でうまくやっていくためには彼女の申し出を受け入れるという方法もあったでしょう。しかし、ヨセフはそのような人ではなかったのです。
★ 詩篇37篇3節に「主に信頼して善を行え。」とあります。不正をした方がうまくいくと考えてしまうこともあるでしょうし、不正をしている人たちがうまくやっている、成功している、繁栄していると思えるようなことがたくさんあるでしょう。しかし、聖書の方法はそうではありません。1節でも詩篇の記者は「悪を行う者に腹を立てるな。不正を行う者に対してねたみを起こすな。」と言います。
★ あなたは幸運な人になりたいでしょうか?その究極原因はイエスキリストです。しかし、この方を信じつつ私たちは幸運な人になる道を選び取っていく必要があります。第一に「苦難を通る。その中で責任を、またリスクを負っていくこと。」です。第二に、「満足すること」です。現状に不平不満だけで暮らしている人は決して幸運な人になることはできません。最後に、「主に信頼して善を行うこと。」です。
★ 私たちが聖書の原則に生きていくときに、神は聖霊の力を豊かに与えて、私たちを幸運な人、勝利者とならせてくださるのです。