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マタイ24章過去派の解釈
アペンディックスC(「バビロン:黙示録の大きな都」より)
by:ジョセフ・バリート
この書(「バビロン:黙示録の大きな都」)は、イエスキリストがマタイ24章で語られた出来事は、紀元70年以前に起こった事実であるという主張を繰り返ししています。4章では、これらの出来事(戦争、地震、飢饉、偽キリストなど)の11の出来事の成就を詳しく取り上げました。この事実にもかかわらず、ある読者はマタイ24章のすべてが紀元1世紀について語っているということを認めるのは難しいと思われるかもしれません。特に、歴史の終わりを告げる再臨の描写についての箇所などは・・・。しかしながら、このように難解だと思われる箇所に関する過去派の解釈は実に無理なく理解されるのです。以下はマタイ24章の難解とされるいくつかの箇所に対する紀元1世紀に起こった出来事としての見解からの簡単な解釈です。さらに詳しくマタイ24章を学びたい人はデイヴィッド・チルトンの「The
Great Tribulation」をご一読ください。
マタイ24章を読むにあたって、重要なことは状況の把握ということです。すなわちそれはマタイ23章で明白に述べられていることです。イエスはパリサイ人たちを正そうとして、宮の中で彼らに語られました。なぜなら彼らは神に背を向け、他の人々をも同じ道に導いていたからです。
「忌まわしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは白く塗った墓のようなものです。・・・内側は死人の骨やあらゆる汚れたものがいっぱいなように・・・わたしが預言者・・・つかわすと、おまえたちはある者を殺し・・・地上で流されるすべての正しい血の報復があなたがたの上に来るためです。」
そして、イエスはかつての聖なる宮を離れる前に、最後にこう言われました。「見なさい。あなたがたの家は荒れ果てたまま残される。」その宮はもはや神の家ではなくあなたがたの家と呼ばれるようになりました。その時より主の御霊は離れ、今までの聖なる犠牲は主の忌み嫌われるものとなったのです。宮の外でイエスは「ここでは石が崩されずに積まれたまま残ることはけっしてありません。」と言われました。ですから、弟子たちはイエスに「あなたの来られるとき(裁きによって宮が破壊されるとき)や世の終わり(旧約の犠牲のシステムの終わり)にはどのような前兆があるのでしょう。」と尋ねたのです。
それにたいして旧約時代の終わりへとつながるいくつかの前兆についてイエスは長い話をされたのです。第4章においてすでに歴史の事実として、偽キリスト、戦争、地震、飢饉、疫病やペスト、迫害、背教、不法、分派、そして外国の軍隊によってエルサレムが破壊されたことを詳しく述べました。ですからのそのことは繰り返しません。
ところで、イエスはグローバルな終わりについても語っておられます。
「この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民に証しされて、それから終わりの日が来ます。」(マタイ24章14節)
どのようにして紀元70年以前に、全世界に福音が宣べ伝えられたということが起こり得たのでしょうか。まず、ギリシャ語の原文の「全世界」ということばは、ルカ2章1節のことば(「そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が・・・」)とまったく同じことばであるということを知らねばなりません。この事実により、このことばがより地域的な構造について述べているということは明らかです。すなわち、「すべての文明化された世界」・・・ローマ帝国のことなのです。
第2にパウロはコロサイ1章6節(コロサイは紀元70年以前に書かれました。)では、「この福音は・・・世界中で実を結びかつ広がり続けています。」と書かれています。さらにパウロは全世界的福音の宣言がそのときすでになされていることを表すのにコロサイ1章23節、ローマ1章8節、10章8節で語っています。ですから、14節は紀元70年以前に成就したというばかりでなく、みことばの裏づけがあるのです。そのとき福音がすべて受け入れられたというわけではありませんが、そのときすべての文明の届いた世界に確かに伝えられたというのが事実なのです。マタイ28章19節の「行ってあらゆる国の人々を弟子としなさい。」ということの成就は24章14節で表現されていることよりはもっと理解しやすいのです。しかし、マタイ28章19節の大宣教命令は「時代の終わり」の先駆けとして要求されるものではなく、現在新しい契約の教会に与えられた支配命令なのです。
「人の子が来るのはいなずまが東から出て、西にひらめくように、ちょうどそのように来るのです。死体のあるところには、はげたかが集まります。」(マタイ24章27,28節)
イエスはこのしるしは、その時代のうちに成就されることがらのひとつであると言っておられるにも関わらず、未来派の人々は27節にある「人の子が来る」というのは歴史の終わりの再臨であると誤った結論付けをします。しかも来られるというのは大空をつんざいて、見える形で現れるというのです。しばらく「この時代」という問題点を忘れて、このことが最後のキリストの再臨を意味するとすれば、「はげたか」ということが何を意味するのかを考えてみましょう。再び来られるキリストははげたかなのでしょうか?このような考えははなはだキリストを軽蔑した考えであるといわなければなりません。また、キリストは終わりの時について話しているそのときに、まったく関係ないことを口にされたというのでしょうか。もしそうであるなら、やはりキリストを馬鹿にしているとしか言えません。
私はこのような考えを否定します。キリストは話しの間に無意味なことを口走るような方ではなく、キリストこそ旧約聖書の教師であり、象徴について教えてくださる先生なのです。キリストは事実この象徴を預言者エレミヤから引用されました。そしてこのエレミヤはイスラエルの背教のために外国軍の手のわざによりエルサレムが破壊されることを預言したのです。この預言を示すにあたってエレミヤははげたかの象徴を用いたのです。
「この民のしかばねは、そらの鳥、地の獣のえじきとなるが、これを追い払う者もない。わたしは、ユダの町々エルサレムのちまたから、楽しみの声と喜びの声、花婿の声と花嫁の声を絶やす。この国は廃墟となるからである。」(エレミヤ7章33、34節)
「言え。『ユダの王たちとエルサレムの住民よ。主の言葉を聞け。イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。見よ。わたしはこの所にわざわいをもたらす。だれでも、そのことを聞く者は、耳鳴りがする。また、わたしはこの所で、ユダとエルサレムのはかりごとをこぼち、彼らを敵の前で、剣で倒し、またいのちをねらう者の手によって倒し、そのしかばねを、空の鳥や地の獣のえじきとして与える。」(エレミヤ19章3,7節)
エルサレムは死体であり、外国の軍隊ははげたかなのです。イエスはパリサイ人たちに彼らは死人の骨に満ちていると語られたばかりでした。イエスは彼らに「あなたがたはすでに死んでおり、ただそれを知らないだけだ。エルサレムは死体であり、外国のはげたかがやって来て、きれいにつまんでいく。」ということを話されたのです。マタイ24章27、28節でイエスが言われた「来る」というのは再臨のことではありません。それはむしろ背教のエルサレムに対して、その時代の内に裁きに来られるということなのです。このことはマタイ16章27,28節においても明らかです。「人の子は栄光を帯びて、み使いたちとともに、やがて来ようとしているのです。その時には、おのおのがその行いに応じて報いをします。まことに、あなたがたに告げます。ここに立っている人の中には、人の子が御国ととおに来るのを見るまでは、決して死を味わわない人がいます。」
いなずまが東から出て西にひらめくというイエスのコメントは、弟子たちに軍隊が(東から)近づいて来るということを示したにすぎません。彼らはいなずまを見たなら、まもなく西で嵐が起こるのを知るのです。(エルサレムの天候は東から変化していきます。)イエスが語った時代にこれらのことが起こったという最も明白なことばです。言うならば、「東でいなずまを見るなら、間もなく西に嵐を見る。ちょうどそのように、エルサレムに対して私が裁きにやって来るなら、あなたがたは東から軍隊がやって来るのを見るだろう。その時、それらの外国のはげたかたちはエルサレムの死体をきれいに食いつくすだろう。」ということなのです。
マタイ24章29節「これらの日の苦難に続いてすぐに、太陽は暗くなり、日は光を放たず、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます。」(イザヤ13章10、34章4節)
上記の箇所の詩的、黙示的象徴はグローバルな意味での破滅のように思われます。しかし、イエスはイザヤ書から引用しておられるという事実を知らなければなりません。また、これは全く同じ象徴が、神が旧約時代においてある特定の神に反逆する文化、または国家に対して滅びを預言されるときはいつも使われているという事実を知らなければなりません。
この同じ象徴はイザヤ書、アモス書、エゼキエル書などに出てきます。しかし、どのひとつをとっても全世界の終わりについて語っているのではないのです。それよりも、エドム、サマリヤ、エジプト、ソドムなどの地域の裁きを表しています。同じことがマタイ24章29節でも言えるわけで、それは単にエルサレムの火が消えるという意味なのです。このことに関する研究と議論が聖書的に続けられてきましたが、この象徴は特別な意味を持っているのです。「太陽が暗くなり」とは政治的機構は滅びるということ、「月は光を放たず」とは宗教的機構の無力化を意味するのです。さらに、「星は天から落ち」は社会の指導者たちの死を象徴するのです。ヨセフスによるとクリスチャンたちが皆、町を出たその夜、大祭司を含む8,500人の人々がエドムの軍隊に殺されたというのです。
とにかく、この箇所に特別な意味があるかどうかに関係なく、この箇所は全世界の滅びではなく、紀元70年の背信のエルサレムへの裁きであるという事実に変わりはないのです。
「そのとき、人の子のしるしが天に現われます。すると、地上のあらゆる種族は悲しみながら、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来られるのを見るのです。」(マタイ24章30節)
あなたはこう思われるでしょう。「どうしてこの説が紀元1世紀の時間の枠におさまりきるのだろうか。」と。「これはきっと歴史の終わりにおけるキリストの再臨について語っているに違いない。」と。マタイ24章34節、すなわち、この3節後に言われたイエスのことばを信じないのでしょうか。「まことにあなたがたに告げます。これらのことが全部起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません。」この時代の人々はイエスが雲に乗って来られるのを見たのです。マルコ14章62節において大祭司カヤパに、人の子が力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見るはずです。」と仰いました。この雲に乗って来るというのは1世紀に起こった事実なのです。
チルトンは「旧約全体を通じて神が雲に乗って来るというのは、神を愛する人々への救い、敵に対する裁きを意味しています。詩篇104篇3節では、『水の中にご自分の高殿の梁を置き、雲をご自分の車とし、月の翼に乗って歩かれます。』とあります。」と言っています。ですから、イザヤは神が雲に乗ってエジプトを裁きに来たといい、ナホムはニネベに神が雲に乗って来たと言っています。チルトンは結論としてこのように述べています。「天の雲に乗って神が来られるということは、神の臨在、裁き、救いを表す聖書的象徴としてほとんど決り文句になっています。」
しかし、まだこの30節に関して、「第1世紀に人の子のしるしが天に現われた」のかと疑いをもたれるでしょう。この出来事の証人であるユダヤ人の歴史学者ヨセフスはエルサレムの崩壊の前に現われたいくつかの超自然的なしるしを記録しています。また、これらの不思議な出来事はローマ人の歴史家タキトゥスもクリスチャンの歴史家エウセビウスも記しています。ユダヤ人のタルムードにさえもこれらの出来事が書かれています。
ヨセフスはこのように記しています。「エルサレムが取り囲まれる前、不可避の崩壊を予兆するしるしが現われました。しかし、ユダヤ人たちはそれらの警告に無関心でした。自分たちのまさに差し迫った破滅を明白に示すしるしに対して何の関心も払いませんでした。町の上には剣のような星が上がり、1年間彗星は現われ続けました。暴動の少し前、すなわち種なしパンの祭りのとき、夜になると祭壇のまわりに明るい星が輝き、30分間聖所を照らしました。人々はこれを良い前兆だと考えました。しかし、学者たちは悪い前兆であると語りました。牛が犠牲として捧げられているとき、その牛が神殿において子羊を生みました。内庭の東の門は鉄の棒で閉められているので、普通それを動かすのに20人の男の力が必要ですが、夜になると門は勝手に開きました。知恵のある男たちは、そのことが聖所が消滅することのしるしであり、門が開かれたのは敵のためであり、彼らに臨む破滅の影であることを理解しました。」
続けてヨセフスは「2,3日後の日没の少し前、ある不思議な信じ難い出来事が起こりました。軍備をした軍の戦車と軍隊が雲の間を駆け巡っているのが見えました。そしてそれは町々を行き巡っていました。さらにペンテコステの祭りの時に、祭司たちが神殿の中に入っていくと地震が起こり、大声が発せられ、多くの人々の声で、『我々はこの場所から出て行こう』というのを聞きました。」と記しています。
ですから、先ほどの質問の簡単な答えは、このヨセフスからの引用によって与えられます。しかし、私としてはこの単純な声を選ぶわけではありません。実際には30節の翻訳はギリシャ語の訳としてはとてもひどいものなのです。翻訳者たちが、これは未来的世界的規模の出来事と決め込んで訳しているからです。チルトンは「ギリシャ語からひとことひとこと照らし合わせて読んでみると、この箇所は『そしてそれから天に(in
heaven)人の子のしるしを現わす』となります。」と言っています。さらに「ですから空に現われるしるしというのではなく、イエスご自身のことであり、イエスが空に現われるというのではなく、『天に』現われることなのです。」と語ります。ですから、しるしはどこにでも現われたであろうし、たぶん地上に最もはっきりと現わされたことでしょう。
さらに付け加えると、「地上のあらゆる種族が悲しむ」というところが、「その土地(約束の地)の種族のすべてが悲しむ」と正しく再翻訳されるならば、この節の世界的規模の適用は完全に排除されるのです。ですから、紀元70年以前に、この節は成就したというのは明白です。ところが、なおいくつかの質問がされます。たとえば、「キリストが天の御座に上げられたというしるしは何か。」、「イスラエルのあらゆる種族が悲しむ原因となるしるしは何か。」これらの疑問に対する答えは次の節、マタイ24章31節を再検討するなら理解できます。
人の子は大きなラッパの響きとともに、み使いたちをつかわします。するとみ使いたちは、天の果てから果てまで、四方からその選びの民を集めます。
きっとあなたは、「そうです、この節はキリストの再臨の時に空中で主とお会いするという聖徒の携挙について述べているのです。」と言われるでしょう。しかし、ちょうど2節後の「これらの事が全部終わってしまうまで、この時代は過ぎ去りません。」という箇所をもう一度思い起こすなら、その言葉は静かなつぶやきに変わってしまいます。
31節をギリシャ語で再検討すると、いくつかの誤りと理解のための糸口が見えてきます。初めに、「み使いたち」と言う言葉は実際「メッセンジャーたち」という意味です。この言葉を天的にまたは、黙示的に歪める理由はありません。単純に「メッセンジャーたち」なのです。そして、新約聖書の中で第1世紀の弟子たちを描写するのに何度か用いられています。・・・「福音のメッセンジャーたち(※メッセンジャー=み使い)
第2にチルトンが指摘していることですが、「集める」と訳されているギリシャ語は文字通りには「シナゴーグ」という意味だと言うのです。イエスがちょうどパリサイ人たちに語り終えられた言葉の中にもあります。「ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者。わたしは、めんどりがひなを翼の下に集めるように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。」
ですから、コンテキストの中においても31節というのはまったく携挙に言及していないのです。それは古い背信の宮が破壊された後に完成されるところの神の新しい契約の宮(シナゴーグ)を全世界規模で集められるということについて言及しているのです。それでは、いつ古い宮は破壊されるのでしょうか。30節までのところに、もちろんこのことが述べられています。かつての聖なる宮(神殿)の崩壊はイスラエルの不信の種族たちが悲しむという明白なしるしであり、彼らがイエスを拒み、十字架につけたということは過ちであったと理解させる出来事だったのです。神殿の崩壊はキリストによって預言されたすべてのことが完全に成就したということ、キリストは栄光の主であり、今はよみがえって天の御座から人間(人類)を治めておられるというおとを確信させるしるしなのです。
そのようなわけで、29〜31節の詳しい訳は以下のようになります。
29・エルサレムの大患難の後、背信の古い契約のイスラエルは光を放たなくなります。イスラエルの政治的、宗教的機構とその指導者たちはまったく滅びてしまいます。
30・その時、彼らがキリストを拒んだときに犯した過ちに対するしるしが現われます。このしるしはキリストが死からよみがえり、今は天の御座から地上を治めているということを証明するのです。このしるしは、イスラエルのかつての聖なる神殿が最終的に破壊されるというものであり、それによって約束の地のすべての種族が神に見捨てられた苦しみによって嘆き悲しみます。(ダニエル7章13,14節の成就)彼らは「人の子が王国を受けるために年を経た方のもとへ雲に乗って来られる」のを見るだろう。それに伴い彼らの悪に対する裁きのために力をもって象徴的に雲に乗って来られるのを見るだろう。
31・古い神殿の崩壊の後(ヨハネは黙示録で「サタンのシナゴーグ(会衆)」と呼んでいる)、キリストは福音のメッセンジャーとして弟子たちを遣わし、地の四隅から新しいシナゴーグを集めます。神はもはやある特別の国の特別な神殿にご自身の住まいを限定されません。しかし、神は新しい世界的な神殿ー神の新しい契約の民を所有されます。アーメン。