聖書から見たマトリックス

谷口 明法

聖書箇所 2コリント10章3〜6節

● 一度ティーンズでお泊り会をして一緒に見たいと考えていた映画に「マトリックス」があります。別にクリスチャンの映画というわけではありませんが、いろいろなことを教え、また考えさせてくれる映画なのです。

● 一般の映画ファンにとっては、主人公を演じるキアヌ・リーブスの格好良さはもちろん、スローモーションを取り入れた画像、また製作者であるワコースキー兄弟が日本のアニメファンで、技法をふんだんに取り入れているということは周知の事実かもしれません。

● さて、マトリックスを知っている人にも、知らない人にもあらすじをお話ししたいと思います。

● 1999年、人々が現実の世界だと思い、信じている世界は実は「マトリックス」と呼ばれるコンピュータに制御された世界でした。「マトリックス」は機械によって創造された世界であり、その考える力を持つ人工知能である機械は21世紀初頭に人間に反旗を翻すのでした。人間は応戦します。そしてソーラパワーの機械をダメにするために人類は環境破壊までするのです。しかし機械は人間という新しいエネルギー源を開発します。

● 大きなロボットによって人間は複製され、野菜のように収穫され、20世紀の普通の生活だと思っていますが、事実は22世紀の機械の箱の中に捉えられ、肉体の熱を機械に供給するためにプラグを差し込まれているというのが現実なのです。しかし、マトリックスは何十億人という捕らわれの人々にリアルな世界だと確信させているのです。

● マトリックスを叩き潰すことを目的とした自由人たちの最後のコロニーのリーダーのひとりであるモーフィアスとその仲間たちがネオを機械の束縛から人類を解放する「メシア(救世主)」として信じ、そのため機械の箱の中からネオを助け出し、訓練し、ネオ自身もメシアへと変化していくのです。そして最後の戦いの時に、彼はメシアとしての資質を得、マトリックスを変化させることができるのです。

● マトリックスといえ映画にはいろいろな暗示が使われています。仏教の悟りの思想(それは、モーフィアスがネオを預言者の所に案内するときに、「自分でドアを開けろ。私ができるのは君をガイドすることだけだ。」と言います。)、またキリスト教の暗示はネオを助ける女性戦士の名前は「トリニティー(三位一体)」、人類最後のコロニーの名前は「ザイオン(エルサレムの別名)」、また彼らが乗る船の名は「ネブカデネザル(聖書に出てくるバビロンという国の王様の名前)」、また「モーフィアス」という名前はギリシャの夢の神の名前などです。

● しかし、何よりも根底を貫いて流れているのがニーチェという19世紀後半のドイツの哲学者のニヒリズム(虚無主義・・・真理に対するあらゆる客観的な根拠の否定。存在は根本的には無意味であり、無用のものであるとする信仰。しばしば社会や個人を破壊的な方向へと導く。)です。彼はキリスト教を嫌い、「神は死んだ。」と叫びました。これは何を意味するのでしょうか?それはもしキリスト教の神が死んでしまったならば、その時代の伝統的な道徳も死んでしまったのです。そこで道徳を新しく作り変えることによって、人間が神の座にすわることになるのです。しかし、それができるのは人間を超えた人間、スーパーマンであり、マトリックスではメシア(救世主)と呼ばれています。

● このようにマトリックスはただのエンターテイメントではなく、根底に哲学思想をおいたエンターテイメントと言えます。

● それでは、教会につながる私たちがマトリックスから何を学ぶことができるのでしょうか?いえ、聖書からマトリックスを見るとどうなるのでしょうか?

(1) あなたの現実は本当に現実なのか?

● マトリックスにおいて人々はみな現実の世界に生きていると考えていました。しかし、それが実はバーチャルな世界だったのです。現実とは人々は機械に捕らわれ、機械の箱の中に入れられ、奴隷としてマトリックスにエネルギーを供給するエネルギー源として生きていたのです。事実を、現実を知っているのは一握りの自由人だけだったのです。

● ローマ書7章14節の後半には、「しかし、私たちは罪ある人間であり、売られて罪の下にある者です。」とあり、イエスさまもヨハネ8章で「罪の奴隷です。」と言われました。

● みんな同じようにしているじゃないか?自分が幸せだと思えばそれで十分じゃないか?と考えるかもしれません。しかし、それでも聖書はあなたに語るのです、キリストなしではあなたは罪の奴隷なのです。大多数の人々があなたと同じように生活をしていたとしても。

(2) こころがなければ肉体は生きられない

● モーフィアスは言います。「The body cannot live without the mind.」(こころがなければ肉体は生きられない。)と。

● 2コリント10章3節を読むと、「私たちは肉にあって歩んでいても、肉に従って戦ってはいません。」とあります。「私」という存在は何でしょうか?肉体でしょうか?聖書は「私」とは「魂(こころ)」であると言います。肉体はそれを入れる器でしかありません。ですからこころがなければ肉体は生きられないのです。

● 映画では、ネオの仲間たちがマトリックスの中で殺されていきました。マトリックスはバーチャルな世界なのです。しかし、こころはそのバーチャルな世界に存在しました。そしてこころが(魂)がやられてしまったので、現実のネビカデネザル号の中の肉体も死んでしまいました。

● またこの私(こころ)は枠組みを持っています。善悪を判断する基準、価値観、世界観というものを持っています。この肉体はその枠組みの中で、価値観の中で「私」を運び、行動を起こしているのです。ですから、こころの中がおかしければ、外側の現われ、ことばや行動がおかしくなるのは当然のことなのです。そして、聖書は罪の奴隷の枠組み、世界観の中であなたは生き、動き、存在しているというのです。

● それと同時に、2コリント10章5節でパウロが言うように、「私たちは、さまざまな思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させる」生き方こそ、最も本来的な、真実な生き方であると語ります。

(3) スーパーマンは人を救えない、キリストこそ本当に人を自由にする

● さきほど、マトリックスという映画にはドイツの哲学者ニーチェの虚無主義の哲学思想が流れていると言いました。キリスト教の神は死んだのです。スーパーマンが出てきて新しい道徳、基準を作らなければいけません。ネオはスーパーマンになりました。しかし、実際、彼は人々を助けることができませんでした。どうしてでしょうか?マトリックスを破壊するとその中に存在するこころが破壊されるからです。こころがなければ肉体は生きられないのですから、ネオはマトリックス破壊ができなかったのです。スーパーマンが誕生しました。救世主が誕生したのです。しかし、虚無主義の中ではスーパーマンも人を救うことはできないのです。ネオは明らかにキリストを暗示したメシアとして描かれています。スミスとの最後の戦いの時に、ネオは一度戦いに破れ死にました。ところが彼はよみがえった、復活したのです。

● 聖書は語ります。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」

● イエスキリストは罪のマトリックスの中にいる私やあなたのために天から下って来てくださいました。当たり前、普通だと思っている生き方が正しいものではなく、間違っていることを知らせ、そこからあなたを自由にするためです。キリストは悪魔の攻撃を受け、十字架で死なれましたが、それはあなたや私の罪を背負うためでした。悪魔がキリストに、メシアに勝利したかに見えました、しかしキリストは三日目に復活し、勝利を宣言し、私たちの救いの保証をしてくださったのです。

● 最後に1ヨハネ5章18〜20節を読んで終わりましょう。「神によって生まれた者はだれも罪の中に生きないことを、私たちは知っています。神から生まれた方が彼を守ってくださるので、悪い者は彼に触れることはできないのです。私たちが神からのものであり、全世界は悪い者の支配下にあることを知っています。しかし、神の子が来て、真実な方を知る理解力を私たちに与えてくださったことを知っています。それで、私たちは、真実な方のうちに、すなわち御子イエスキリストのうちにいるのです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。」


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