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Preterism and the Lord's Supper

過去派解釈と主の晩餐

by デイヴィッド・カーティス(ベレアン 聖書教会牧師


1 Corinthians 11:26



主の晩餐を守ることは過去派的終末論として首尾一貫していないのでしょうか?

私が過去派解釈を受け入れて以来、「プレテリストとして私たちは主の晩餐をなぜ今でも守るのでしょうか?イエスは『私が来るときまで』守るべきです と言われなかったでしょうか?イエスはすでに来られたのですから、なぜ続けて主の晩餐を守る必要があるのでしょうか?」というような質問を何十回と尋ねら れました。

まず、聖書は「私が来るまでこれをしなさい。」とは言ってないことを述べておきます。どれほど多くの人たちが聖書がこのように言っていると考えてい ることは私にとっては驚きです。実際に聖書が言っていることを見ましょう。

1 コリント 11:23-26 私は主から受けたことを、あなたがたに伝えたのです。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンを取り、感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。 「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」夕食の後、杯をも同じようにして言われました。「この杯は、わた しの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えてこれを行いなさい。」ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が 来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。 

ほとんどのクリスチャンはいつか主の晩餐は終わりを迎えると信じています。私はこれをある間違った前提を土台にした間違った考えであると思います。 未来派的な終末論を信じている人々は主の晩餐はキリストの再臨のときに終わると信じています。これはかつて私も信じていたことなのでよく分ります。再臨の と きには物質的な地球は崩壊するという未来派の考えを土台とするなら、彼らがそのとき物質的な儀式も終わるだろうと考えるのは理解できます。

過去派の終末論を信じる私たちは再臨のときに終わりを迎えるのはこの「世界」ではなく、ユダヤ人の「時代」であったと理解しています。

プレテリストがキリストの再臨に伴ってその時代は紀元70年に終わったという考えを土台とした新しい解釈を用いて、聖書を学びまた考えるとき、その 人は今日の自分にどのように当てはめることができるのだろうと悩みます。このように1コリント11章26節に来るときに、主の晩餐は再臨のときに終わった と教えられているのかどうかという疑問を持ちます。「ですか ら、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。」これは主の晩餐の終わりを意味しているのでしょうか? こ の箇所だけが聖書で主の晩餐の存続期間を議論するために用いられている箇所です。そしてそれが誤解されたときにこの意味でこの箇所は用いられます。

この箇所が言っていないことに注意してください。この箇所は「イエスが戻って来られるまで、主の晩餐を守りなさい」とは言っていません。この箇所は そのようには言っていないのです!この箇所が教えていることは、主の晩餐を遵守することを通して、コリントの人々は彼の再臨まで主の死を告げ知らせ続ける ということです。ここまであなたは同意してくださるでしょうか?

「主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです」 さて、「まで」ということばのことで問題が提起されます。もし「まで」とい うことばの意味がその時点で何かが終わるものであったなら、終わるものは主の晩餐のみならず、主の晩餐を通して主の死を告げ知らせることにもなってしまい ま す。主の死を告げ知らせることだけが主の晩餐の目的だったのでしょうか?そうではありません。主ははっきりと「私を覚えるためにこれを行いなさい」と言わ れました。主は「これを私の死を告げ知らせるために行いなさい」とは言われませんでした。さて、これを行うことによって私たちは主の死を示しますが、この ことが私たちが主の晩餐を行うようにと命じられている理由ではありません。「まで」ということばはその時点で何かが止まる、終わるということを意味してい るのではなくて、もしそうであったとしても、そのことばは主の晩餐の遵守が終わったという意味にはなりません。

それでは、「まで」ということばの意味は何でしょうか?ここで使われているギリシャ語の熟語は「ヒュー アクリス」です。これは新約聖書中に4回だ け使われています。そしてその意味は「ある地点に至ってさえ」という意味です。セイヤーは「それは実際に起こったこと、何か継続することがらの始まりまで を表すこととして用いられています。」と述べています。それは言及のポイントであって、終焉のポイントではありません。新約聖書の他の使用例を見て見ま しょう。このギリシャ語の熟語を理解する助けとなるでしょう。

大祭司の面前でステパノはイスラエルの歴史を詳しく述べています。

使徒行伝 7:17-18 神がアブラハムにお立てになった約束の時が近づくにしたがって、民はエジプトの中にふえ広がり、ヨセフ のことを知らない別の王がエジプトの王位につくときまで続きました。

これはヨセフを知らない王が王位に立ったとき人々は増え広がらなくなったことを意味するのでしょうか?いいえ、もちろんそんなことはありません。そ れは言及していることのポイントです。ここで使用されている「まで」は停止を意味しないことを証明することができます。一緒に出エジプト記を見ましょう。

出エジプト 1:6-7 そしてヨセフもその兄弟たちも、またその時代の人々もみな死んだ。イスラエル人は多産だったので、おびただしくふえ、すこぶる強くなり、その地は彼らで満 ちた。

これがステパノが使徒行伝7章で言ったことです。さて新しい王が王位に就いたとき何が起こったかを見ましょう。

出エジプト 1:8 さて、ヨセフのことを知らない新しい王がエジプトに起こった。

それでは、もし使徒行伝でステパノが用いた「まで(ヒュー アクリス)」がイスラエルの子孫たちがもはや増え広がらなくなったこと以上に終焉や停止 を意味するなら、づして実際に新しいエジプトの王は彼らの増え広がることを止めようとしたのでしょう。しかし、起こったことに注意してください。

出エジプト 1:12 しかし苦しめれば苦しめるほど、この民はますますふえ広がったので、人々はイスラエル人を恐れた。

王は助産婦たちに出産のときにイスラエル人の男子は殺せと命じました。しかし彼女たちはそれをせず、イスラエルの子どもたちは継続して増え続けたの です。

出エジプト 1:20 神はこの助産婦たちによくしてくださった。それで、イスラエルの民はふえ、非常に強くなった。

これがヨセフのことを知らない新しい王が彼らの増え広がることを止めようと自分の権力を持ってできるすべて のことをした後の出来事です。イスラエルの人々は力強く増え広がったのです。ですから、あなたは、ギリシャ語の「ヒュー アクリス」が終焉や停止を意味せ ず、言及のポイントを意味していることをはっきりと理解されたと思います。

それでは、別の「ヒュー アクリス」を見ましょう。

1 コリント 15:25 キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置くまで、と定められているからです。

キリストはご自身の支配をあきらめられたのでしょうか?イエスキリストが支配されないときがあるのでしょうか?いいえ、決してそんなことはありませ ん。

ルカ 1:31-33 ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主 は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤ コブの家を治め、その国は終わることがありません。

イエスはすべての敵がその足台となるポイントに至ってさえも支配されるのです。彼の支配は決して終わりません。

ダニエル 7:13-14 私がまた、夜の幻を見ていると、見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ、年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。この方に、主権と光栄と国が 与えられ、諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、彼に仕えることになった。その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることはなく、その国は滅び ることがない。

ミカ 4:7 わたしは足なえを、残りの者とし、遠くへ移された者を、強い国民とする。主はシオンの山で、今よりとこしえまで、彼らの王となる。

ヘブル 1:8 御子についてはこう言われます。「神よ。あなたの御座は世々限りなく、あなたの御国の杖こそ、まっす ぐな杖です

キリストの支配は決して終わりません。彼の王国は永遠の王国であり、彼の支配も永遠です。ですから、「ヒュー アクリス」は明らかに終焉ではありま せん。この他にもうひとつ「ヒュー アクリス」があります。

ガラテヤ 3:19 では、律法とは何でしょうか。それは約束をお受けになった、この子孫が来られるときまで、違反を示すためにつけ加えられたもので、御使いたちを 通して仲介者の手で定められたのです。

モーセの律法はキリストがお生まれになったときに終わったのでしょうか?いいえ、そうではありません!

ガラテヤ 4:4 しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。

律法は主が十字架にかかられたときに終わったのでしょうか?いいえ、そうではありません!

2 コリント 3:6-11 神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格を下さいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者です。文字は殺し、御霊は生かすからです。もし石 に刻まれた文字による、死の務めにも栄光があって、モーセの顔の、やがて消え去る栄光のゆえにさえ、イスラエルの人々がモーセの顔を見つめることができな かったほどだとすれば、まして、御霊の務めには、どれほどの栄光があることでしょう。罪に定める務めに栄光があるのなら、義とする務めにはなおさら、栄光 にあふれるのです。そして、かつて栄光を受けたものは、このばあい、さらにすぐれた栄光のゆえに、栄光のないものになっているからです。もし消え去るべきものに栄光があったのなら、永続するものに は、なおさら栄光があるはずです。

パウロは旧約聖書のモーセ律法に言及しています。そして、「消え去る」と現在形で語っています。律法はイエスの死後30年経ってもまだ効力がありま した。しかしそれは消え去っていくのです。

ヘブル 8:13 神が新しい契約と言われたときには、初めのものを古いとされたのです。年を経て古びたものは、すぐに消えて行きます。

旧い契約は消え去る準備ができていました。それは主が紀元70年に再臨され、エルサレムと神殿が壊されたときに過ぎ去ったのです。

ギリシャ語の「ヒュー アクリス」は終焉のポイントではなく、言及のポイントをのために用いられるのです。これで「まで」に関する疑問は答えられた と思います。コリントの人々は主の晩餐を食するべきであり、主の再臨に至ってさえも主の死を告げ知らせるのです。

「主が来られるまで」という成句から離れる前に、コリントの人々の生涯の内に主の再臨があることが期待されていたことをこの成句は物語っていること を覚えてください。 「彼らは」主の来られるまでそれを食するべきだったのです。それは彼らが主の再臨のときにまだ地上にいることを意味しています。この概念はコリント人への 手紙を通じて見られるものです。

1 コリント 1:4-8 私は、キリスト・イエスによってあなたがたに与えられた神の恵みのゆえに、あなたがたのことをいつも神に感謝しています。というのは、あなたがたは、こと ばといい、知識といい、すべてにおいて、キリストにあって豊かな者とされたからです。それは、キリストについてのあかしが、あなたがたの中で確かになった からで、その結果、あなたがたはどんな賜物にも欠けるところがなく、また、熱心に私たちの主イエス・キリストの現われを待っています。主も、あなたが たを、私たちの主イエス・キリストの日に責められるところのない者として、最後まで堅く保ってくださいます。

1 コリント 7:29-31 兄弟たちよ。私は次のことを言いたいのです。時は縮まっています。今からは、妻のある者は妻のない者のよ うにしていなさい。泣く者は泣かない者のように、喜ぶ者は喜ばない者にように、買う者は買わない者にようにしていなさい。世の富を用いる者は用いすぎない ようにしなさい。この世の有様は過ぎ去るからです。

1 コリント 10:11 これらのことが彼らに起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。

人々は「なぜ今日、主の晩餐をするべきなのでしょうか?」と尋ねます。しかし、「まで」ということばの考察からすると、「なぜ今日、主の晩餐を守る べきではないのでしょうか?」という問いのほうが良い問いであると思います。私には主の晩餐が紀元70年に終わったとする何の理由も見出すことはできま せん。事実、主の晩餐が過越の祭りの対型と理解するならば、紀元70年も主の再臨も主の晩餐に終わりをもたらしたのではなく、完成をもたらしたということです。それでは、主の晩餐が過越の祭りとがどのよう につながっ ているのかを見て行きましょう。

ルカ 22:14-20 さて時間になって、イエスは食卓に着かれ、使徒たちもいっしょに席に着いた。イエスは言われた。「わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたといっしょ に、この過越の食事をすることをどんなに望んでいたことか。あなたがたに言いますが、過越が神の国において成就するまでは、わたしはもはや二度と過越の食 事をすることはありません。」そしてイエスは、杯を取り、感謝をささげて後、言われた。「これを取って、互いに分けて飲みなさい。あなたがたに言います が、今から、神の国が来る時までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。それから、パンを取り、感謝をささげてから、裂いて、 弟子たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。わたしを覚えてこれを行いなさい。」食事の後、杯も同じようにして 言われた。「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。」

17節の「杯」は過越の杯です。ですから、イエスが「あなたがたに言いますが、過越が神の国において成就するまでは、わたしはもはや二度と過越の食 事をすることはありません。」(16節)と言われたことは、過越と関係しているのです。キリストはこれを杯と取って繰り返されました(17節)。1618 節は過越の成就に関してキリストが終末論的に言われたことばです。さてここで、キリストが新しいことをされたことに注意しましょう。しかし、新しいことで すが、過越の成就に切り離せないほど関連しています。

Luke 22:19-20 それから、パンを取り、感謝をささげてから、裂いて、弟子たち に与えて言われた。「これは、あなたがたのために与える、わたし のからだで す。わたしを覚えてこれを行いなさい。」食事の後、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約で す。

キリストは過越の祭りに使用する同じパンとぶどう酒を使ってパンを食べ、ぶどう酒を飲むことの新しいやり方を紹介されました。違いと言えばその意味 の変化でした。今、それはキリストのからだと新しい契約を象徴するものとなったのです。これはキリストが裏切られた夜、すなわち十字架にかかられる前の日 に起こりました。過越の祭りはすでに始まっており、主は弟子たちとともに二階座敷におられました。過越の祝宴の間に、主は主の晩餐を制定されました。主の 晩餐は過越の祭りのただ中で制定されました。これはまさに相応しいことでした。なぜなら、これらのどちらもが記念だからです。過越は小羊の血によって神の 子どもたちが神によってエジプトの束縛から実質的に解放されたことの記念です。主の晩餐は罪と死の束縛から神の民が霊的に解放されることの記念です。その 解放は小羊、主イエスキリストの血によるのです。このように、どちらも記念なのです。主の晩餐はキリストの記念としてなされるべきです。過越は型であり、 主の晩餐はその対型です。

キリストの弟子たちは、もはや歴史的な過越を覚えるために過越のパンを食べ、ぶどう酒を飲むのではありません。パンとぶどう酒は今やさらに偉大な捧 げ物とキリストの解放を象徴するべきものとなったのです。

1 コリント 5:7 新しい粉のかたまりのままでいるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたはパン種のないものだからです。私たちの過越の小羊キリストが、すでにほふられたからです。

イスラエルにとっての過越の小羊は、私たちにとってのイエスキリストです。小羊がほふられ、その血が家の門柱に塗られたとき、それは神の裁きからそ の家に住んでいる人たちを守るための覆いを提供し、神の救いがその家に訪れたのです。イエスキリストの血がカルバリーの十字架の上で流されたので、信仰に よってそれを個人個人が受け入れるとき、私たちの上に下されるはずの神の裁きから救われます。イスラエルにとっての小羊は私たちにとってのキリストなので す。過越の小羊はイスラエルのために死にました。キリストは私たちのために死んでくださいました。それは身代わりの死だったのです。

ヨハネ 1:29 その翌日、ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」

イエスが過越に関連して用いられた同じことばを主の晩餐の成就に関して使用されたことをマタイから知ることができます。過越の成就(旧い契約の終 焉)が示すことは、その時代の終わりに主の晩餐の完成をもたらすことでもあります。

マタイ26:29 ただ、言っておきます。わたしの父の 御国で、あなたがたと新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。 

イエスは父の王国で杯を飲むことを約束しておられます。文脈の中の「飲む」は継続して繰り返される行動を表します。イエスは「私の父の王国であたた と一緒に飲み続けるだろう。」と言われます。私たちはマタイの学びから、神の国の到来はキリストの再臨とユダヤ人の時代の終わりと結びついていることを学 びました。

この「その日」ということばは主の終末的な日、キリストの再臨、ユダヤ人の時代の終わりを表しています。

「その日」キリストは杯を「新しく」飲むのです。「新しい」ということばは、カイノスです。それは質的に新しいことを意味します。Arndt- and Gingrichはカイノスというギリシャ語から来た「新しい」ということばは今までになかった本質においてとか、古いものと比べて優越性において新しい ことを意味しますと記しています。ヴァインはその意味は「古いものと比較して質的に異なったかたちでの新しさであると言います(Vol. III. p.109.)。セイヤーは317ページも参照してください。キットルはカイノスは「新しく、また区別されたこと、古いものよりも質において新しい、価値 において優れている」ことを強調すると言います (Vol. III. p.447.)。

このカイノスということばは「来るべき時代」における成就されることがらを示すために用いられています。旧約において預言者たちは神が新しいことを される日を期待していました。神がその民と新しい契約を結ばれることを期待していたのです(エレミヤ31:31)。その契約は新しい心と新しい霊を作り出 します(エゼキエル36:26)。新約において、すべてのことが新しくされるということが、新しい天と地において起こったのです。

黙示録 21:5 すると、御座に着いておられる方が言 われた。「見よ。わたしは、すべてのことを新しくする。」また言われた。「書きしるせ。これらのことばは、信ずべきものであり、真実である。」

旧い時代が終わってこの新しい時代が完全にやってきました。それは古い天と地であるエルサレムが崩壊した後でした。そして新しい天と地が建てられた のです。旧い契約の終焉と新しい契約の完成は神の国で弟子たちと新しいぶどう酒をキリストが飲むときを示します。

十字架から再臨までの移行期において主の晩餐は新しい意味を持っていましたが、完成はしていませんでした。それは移行期において神の国は現実であっ たのとちょうど同じことです。

コロサイ 1:13 神は、私たちを暗闇の圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。

しかし、彼らはその成就、完成を待たなければなりませんでした。

ルカ 21:29-32 それからイエスは、人々にたとえを話された。「いちじくの木や、すべての木を見なさい。木の芽が出ると、それを見て夏の近いことが分ります。そのように、 これらのことが起こるのを見たら、神の国は近いと知りなさい。まことに、あなたがたに告げます。すべてのことが起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去り ません。」

ここでイエスは神の国がその完成を現わすことを示しておられます。

彼らの救いにおいても同じことが言えます。彼らは救われていたのです。

エペソ 2:8-9 あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれ も誇ることのないためです。

しかし、彼らは救いの完成を待たなければまりませんでした。

ローマ 13:11 あなたがたは、今がどのような時か知っているのですから、このように行いなさい。あなたがたが眠りからさめるべき時刻がもう来ています。というのは、私た ちが信じたころよりも、今は救いが私たちにもっと 近づいているからです。

ヘブル 9:28 キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られ るのです。

教会が使徒行伝2章のペンテコステ以来主の晩餐を守ったとき、それは新しい方法で行いました。それは古い過越の祭りではなかったのです。まだその完 成には至っていませんでしたが、新しい意味を持っていました。紀元70年に主が戻って来られた時、主の晩餐は終わりを迎えるべきものではありませんでし た。それはただその完成に至っただけなのです。私たちは来るべき救いを期待するために主の晩餐を祝うのではありません。完成した救いが現実であることのた めに祝うのです。

タイプとアンチタイプ:

過越の解放は彼らが約束の地に入るまで完成しませんでした。過越はまだイスラエルは束縛の中にあった出エジプト12章での過越の小羊の犠牲をもって 始まりました。彼らはエジプトの奴隷でありながらも最初の過越の食事をしたのです。民数記9章5節で彼らは荒野をさまよっている間に再び過越の食事をして います。そしてヨシュア記で彼らは約束の地に入りました。

ヨシュア 5:9-10 すると、主はヨシュアに仰せられ た。「きょう、わたしはエジプトのそしりを、あなたがたから取り除いた。」それで、その所に名は、ギルガルと呼ばれた。今日もそうである。イスラエル人 が、ギルガルに宿営しているとき、その月の十四日の夕方、エリコの草原で彼らは過越のいけにえをささげた。 

イスラエルの歴史を通して、過越は過越の小羊の血を門柱にしるしとして塗るということを思い出させるだけではなく、それに続くエジプトの奴隷からの 解放を思い出させるものでした。そしてその解放は40年後ヨルダン川を渡ったときに完成しました。約束の地に到着したことによって贖いが完成したので、過 越は終わったでしょうか。それは今や、その完成に至ったのです。このときこそ、本当に彼らはエジプトの束縛から贖われたのです。

すでにヨシュア記を開いているので、他のことにも注意を向けたいと思います。

ヨシュア 5:11-12 過越のいけにえをささげた翌日、彼らはその地の産物、「種を入れないパン」と炒り麦を食べた。その日のうちであった。彼らがその地の産物を食べた翌日か ら、マナの降ることはやみ、イスラエル人には、もうマナはなかった。それで、彼らはその年のうちにカナンの地で収穫した物を食べた。

彼らが約束の地に到着したとき奇跡は止みました。ちょうどそれは教会が本当の約束の地である新しい天と地に到着したときに奇跡が止まったように。

彼らの恥辱が押し返されたとき、彼らは過越の食事をしました。過越は主の晩餐の象徴です。どちらも贖いの祭り(祝宴)なのです。過越はイスラエルが エジプトから自由にされたことの旧約における贖いの祭りです。主の晩餐は罪からの贖いの新約の祭りです。過越はエジプトと荒野において意味がありました が、彼らが約束の地に入ったときに、質的に新しいものとなりました。主の晩餐も同じように、神の国の到来の前に意味を持っていましたが、神の国の内に質的 に新しい意味を持つのです。その新しさは解放の期待ではなく、解放の祝宴なのです。

初代教会が主の晩餐の内に主と交わりをするとき(1コリント10:16〜21)、彼らは主の死と苦難を覚えました。祝宴は過去を覚えるだけではな く、完全に勝利した王国の完成を主と祝うときなので、彼らは再臨を熱望しました。紀元70年にイエスが再臨されたとき、晩餐は最終的に主が語られたその 「完全な新しさ」を持つことができたのです。

私たちが今日も主の晩餐を守るべき4つの理由を言いましょう。

1. 主の晩餐は記念:

1 コリント 11:24 感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」

「です」ということばは「描く、象徴する」ときに用います。たとえば、だれかに私の妻の写真を見せて、「これは私の妻です。」と言います。それは本 当は私の妻ではありません。それは彼女の姿を撮った一枚の紙切れでしかありません。イエスが「これは私のからだであり、血です。」と言われたとき、イエス はご自身のからだと血を象徴的に言われたのです。それは絵でしかありません。キリストのからだと血を象徴するだけです。主の晩餐は犠牲ではなく、記念で す。イエスの死、捧げられたからだと流された血の記念です。

この記念は「これを行いなさい」という主のことばによって制定されました。それはギリシャ語の現在時制であり、「これを続けて行いなさい」という命 令の意味をも持っています。

あなたも私も自分たちの人生を通していろいろな方法でいろいろな場合に主を覚えることができます。しかし、キリストがあなたのために死んでくださっ たことを思い出すことなしに主の晩餐を守ることは決してできません。

「わたしを覚えて」これは主の晩餐の主要な目的のひとつです。イエスキリストご自身とその御業を覚えさせるので す。主の晩餐は記念です。それは形態もしくは習慣、思い出を生きたものにすることなのです。記憶とか思い出ということばが同義語でしょう。私たちはたとえ それが自分たちにとって重要であり、影響のあることであっても忘れやすいのは残念なことです。ですから神は聖書を通して記念を与えられるのです

ヨシュア 4:5-7 ヨシュアは彼らに言った。「ヨルダン川の真中の、あなたがたの神、主の箱の前に渡って行って、イスラエルの子らの部族の数に合うように、各 自、石ひとつずつを背負って来なさい。それがあなたがたの間で、しるしとなるためである。後になって、あなたがたの子どもたちが、『これらの石はあなたが たにとってどういうものなのですか。』と聞いたなら、あなたがたは彼らに言わなければならない。『ヨルダン川の水は、主の契約の箱の前でせきとめられた。 箱がヨルダン川を渡るとき、ヨルダン川水がせきとめられた。これらの石は永久にイスラエルの記念なのだ。』」

社会として、私たちは忘れてほしくないことを覚えるように記念を設けます。ワシントンDCにはヴェトナム戦争で亡くなったアメリカ軍人を称えるため の記念碑があります。記念碑はワシントンモールにある大きな黒大理石の壁です。死んだ人々の名前がそこに掘り込まれています。

家族として、私たちは神が私たちの人生になしてくださったことを忘れないように記念を持つべきです。私は本棚にクリスマスの日に自分たちの乗ってい たチェロキー小型飛行機がクラッシュしたときの尾翼の一部を置いています。そのクラッシュから私たちが守られたことを覚えるためにそれはあります。私たち は忘れやすいので記念が必要なのです。

私たちがどれほど忘れやすいかを思い出させる箇所がエレミヤ書にあります。

エレミヤ 2:32 おとめが自分の飾り物を忘れ、花嫁が自分の飾り帯を忘れるだろうか。それなのに、わたしの民が、わたしを忘れた日数は数えきれない。

私たちは忘れてはいけないので、主イエスキリストご自身とその御業を覚えるために毎週の記念があるのです。私たちが毎週守る主の晩餐はイエスキリス トを私たちの公同の礼拝の中心とすることです。この記念はお葬式をするような不健全な記念ではありません。私たちが記念とすることは悲劇ではありません。 私たちが記念することは勝利なのです。それは病的で憂鬱な回想のときではありません。それは私たちのために死んでくださり、愛を現わしてくださった方への 感謝と喜びの時間なのです。主イエスキリストを覚える喜びの記念です。私たちの贖いのためにキリストがなしてくださったことを覚えるのを止めたいと思われ るでしょうか?いいえ、そんなことはありません。ですから、私たちは主の晩餐を祝うことを続けるのです。

それは単なる記念以上のものです。それは告白でもあるのです。あなたがパンを取り、ぶどう酒を飲むとき、「主の死は私のためであり、私は永遠の救い のために主に信頼し続けます。」と言うのです。

2. 主の晩餐は祝宴の儀 式であり、それゆえ感謝を表す時です。

24節には「感謝をささげて」、25節には「同じようにして」とあります。私たちはマタイとマルコの記事から、主はパンと杯を感謝してそれを渡され たという主の晩餐の出来事を知ります。主の晩餐は感謝のときなのです。主が来て下さったことと、私たちのためにご自身をささげてくださったことを心からの 感謝をもってお祝いするときです。

主の晩餐は神への感謝を現わすときです。「感謝をささげる」というギリシャ語のことばは「ユーカリステオー」であり、感謝していること、感謝を表現 するということです。ここから聖餐式(ユーカリスト)という名前がつきました。私たちの贖いのために主に感謝をささげるのを止めるべきでしょうか?そんな ことはありません。感謝をやめることがないのと同様に主の晩餐をやめるべきではないのです。主の晩餐は感謝のときなのです。

3. 主の晩餐は福音を告げ知らせることで す。

1 コリント 11:26 ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。

「告げ知らせる」ということばはギリシャ語で「カタッゲロー」です。その意味は宣べ伝える、宣言するということです。このことばは一般的に使徒行伝 とパウロの手紙の中で、人々に福音を宣言するために用いられています。新約聖書の他のどの箇所においても他の意味で用いられているところはありません。こ の節の最初の「ですから」ということばは先に語られたことと関連していることを示しています。それはキリストの死の記念であり、その事実の宣言がその本質 なのです。主の晩餐を祝うごとに私たちは主の死を告げ知らせます。新約教会のもっとも効果的な伝道集会のひとつは主の晩餐を行うことでした。それは教会が 見える形でキリストの死を示す実演説教のようなものです。私たちが捧げられたからだであるパンを取り、流された血であるぶどう酒を飲むことで、私たちは見 えるように主イエスキリストの死を描写するのです。

それは私たちの幼い子どもたちやまだ信じていない友達や親戚にとっても価値あるものです。彼らはパンとぶどう酒によって説明されるキリストの死の描 写に直面するでしょう。そしてその意味が示され、福音が告げ知らされるのです。

マルチン・ルターは聖餐式に関して以下のように述べました。「これは最も短い形の福音です。」主の晩餐を祝うときに私たちは主の死を告げ知らせま す。それは福音の根本的な事実です。イエスキリストは罪人のために死なれました。「それは完全な贖いでしょうか?ハレルヤ、何という救い主か!」

4. 主の晩餐は神の前における私の責任を 思い出させることです。

「主」ということばは20節、23、26節で2回、27,29節で2回用いられています。ギリシャ語では「キュリオス」です。その意味は権威におい て究極、支配者、主人ということです。イエスキリストは主であり、私たちが行くのは彼の食卓です。

初代教会は主の晩餐をサクラメントと呼びました。私たちプロテスタントは主の晩餐をサクラメントと呼びません。なぜなら、サクラメントということば は今日の神学界において人に恵みをもたらす器を意味するからです。私たちは主の晩餐が恵みの手段だと思いません。しかし、初代教会は主の晩餐をサクラメン トと呼んでいました。なぜなら(H・A・アイアンサイドによると)サクラメントということばはローマの兵士たちが皇帝に忠誠を誓うために用いられたことば だったからです。初代教会はサクラメントと主の晩餐を呼び始めました。それは彼らが私たちが今までに理解したことのない真理を理解したからでした。彼らは 主の晩餐を行うことは毎週行うイエスキリストの主権に対する忠誠の誓いであると理解したのです。

私たちが主の晩餐に行くとき、主イエスキリストへの献身を新たにします。それは主のからだ、主の血です。私は私の主である方を覚えるのです。私は主 の主権と彼に対する責任を認識するのです。

主の晩餐は理解しやすい儀式です。私たちはキリストが私たちのためにしてくださったことを覚え、感謝をささげ、福音を告げ知らせ、キリストに対する 献身を新たにするのです。

紀元70年の主の再臨は主の晩餐に終わりをもたらしませんでした。完成をもたらしたのです。贖いは完成しました。私たちは今や神の臨在の中、新しい 天と地に住んでいるのです。私たちが主の晩餐を行うとき、完全な贖いを祝うのです。




このメッセージはデイヴィッド・カーティス師によって1998年4月19日に語られました。

訳者注:このメッセージの途中に奇跡の終焉を肯定する箇所がありましたが、訳者はそれを指示しておりません。


デイヴィッド・カーティス師はアメリカはヴァージニア州の単立教会、ベレアン・バイブル・チャーチの牧師。

このメッセージはカーティス牧師の許可を得て翻訳掲載しております。無断転載を禁止します。


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