ローマ 9:6
バプテスマのヨハネがイスラエル国家の滅亡について教えたことに照らし合わせると、神の弁護が必要とされるます。このことを説明しましょう。旧 約全体はユダヤ人国家と神が結んだ約束が詰め込まれたものです。それはメシアの約束、救い主キリストに関するものでした。例えば、ユダヤ人に約束された新 しい契約の約束は以下のようなものです;
エレミヤ31:31〜34「見よ。その日が来る。−主の御告げ。−その日、わたしはイスラエルの家とユダの家と に、新しい契約を結ぶ。その契約は、わたしが彼らの先祖の手を握って、エジプトの国から連れ出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの 主であったのに、彼らはわたしの契約を破ってしまった。−主の御告げ。−彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。−主の御告げ。− わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。そのようにして、人々はもはや、 『主を知れ。』と言って、おのおの互いに教えない。それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ。−主の御告げ。−わたしは彼ら の咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。」
さて、ユダヤ人国家がヨハネが預言したように滅ぼされるべきだったとしたら、神がイスラエルと結ばれたすべての約束はどうなるのでしょうか?神の約 束は無効になったのでしょうか?いいえ、そうではありません。神は真実で、ご自身の約束を守られることを私たちは知っています。私たちが神を弁護すること を「神義論(セオドシー)」と言います。神義論は神を擁護し、弁明することです。このことばはセオス(神)とディコス(義)という2つのギリシャ語のこと ばがつながったものです。神義論の目的はすべての非難から神を弁護することです。神は完全に正しく、正義をなされることを主張します。
聖書のもっともすばらしい神義論はローマ9〜11章だと思います。これは神の正義と公正さをもっともよく弁護しています。その他の箇所では見出せま
せん。「旧約聖書全体は神がイスラエルにされた約束で満ちています。この国は祝福を受け、全世界を祝福する基となるために神によって特別に選ばれまし
た。」というのがローマ9章で取り扱われている問題です。
申命記7:6〜8「あなたは、あなたの神、主の聖なる民だからである。あなたの神、主は、地のすべての国々の民 のうちから、あなたを選んでご自分の宝の民とされた。主があなたを恋い慕って、あなたを選ばれたのは、あなたがたがどの民よりも数が多かったからではな い。事実、あなたがたは、すべての国々の民のうちで最も数が少なかった。しかし、主があなたがたを愛されたから、また、あなたがたの先祖たちに誓われた誓 いを守られたから、主は、力強い御手をもってあなたがたを連れ出し、奴隷の家から、エジプトの王パロの手からあなたを贖い出された。」
神がご自身を啓示されたのはイスラエルに対してでした。メシアの約束を受けたのはイスラエルでした。彼らは神の選民だったのです。
アモス3:1〜2「あなたがたに対して語られる主のこのことばを聞け、イスラエルの子たちよ、わたしがエジプト の地から連れ上った全種族たちよ。『わたしは地上の全種族の中であなたがただけを知った・・・』」
「知った」ということばは親密な関係を示しています。神はすべての人をご存知なのですが、イスラエルを特別な意味で知っておられます。彼らには特 別な地位が与えられたのです。
ローマ9:4〜5「彼らはイスラエル人です。子とされることも、栄光も、契約も、律法を与えられることも、礼拝 も、約束も彼らのものです。先祖たちも彼らのものです。またキリストも人としては彼らから出てこられたのです。このキリストは万物の上にあり、とこしえに ほめたたえられる神です。アーメン。」
さて、特権には責任が伴います。アモス3:2の後半部分を見てみましょう。
「・・・それゆえ、わたしはあなたがたのすべての咎をあなたがたに報いる。」
大きな特権には、大きな義務が伴います。イスラエルは傲慢になり、彼らに与えられたすべてのことがらの本当の目的である、罪を贖うために主イエスキ リストが来られるということを見失ってしまいました。
ローマ9章の最初の数節で、パウロは同胞に対して感じる悲しみと彼らのためには苦しみをもいとわないことを言い表しています。このことは、「彼らは もはや神の民ではない」と言う意味を含んでいます。パウロはかつてはそうであったかもしれないけれど、もはやイスラエルは祝福されていない、それどころか 呪われていると言っています。できることなら、その呪いを自分が負いたいと言います。
もし神の選民が今は呪われているとしたら、神の約束は無効になったのでしょうか?神は選民を拒絶されたのでしょうか?イスラエルは本当に呪われてい るのでしょうか、それとも自分が受けたすべての迫害のために苦々しさを持っているだけなのでしょうか?イエスがイスラエルに対して言われたことを見てみま しょう。
マタイ21:18〜19「翌朝、イエスは都に帰る途中、空腹を覚えられた。道ばたのいちじくの木が見えたので、 近づいていかれたが、葉のほかは何もないのに気づかれた。それで、イエスはその木に、『おまえの実は、もういつまでも、ならないように。』と言われた。す ると、たちまちいちじくの木は枯れた。」
ここで用いられているいちじくの木はイスラエルを象徴していると思います。イスラエルの歴史を通して、神は継続して実を結ぶご自身の民を願ってこら れました。福音書の記者は神がその民が実を結ばせることを期待しておられることの象徴としてイエスキリストの物質的な飢えを語っています。イエスはイスラ エルに呪いを宣言されました。それは、実を結ぶことを拒否したためであるし、究極的には神を拒絶したからです。イエスの多くのたとえ話はイスラエルを拒絶 したこと、彼らの滅亡を語っています。
マタイ21:33「もうひとつのたとえを聞きなさい。ひとりの、家の主人がいた。彼はぶどう園を造って、垣を巡 らし、その中に酒ぶねを掘り、やぐらを建て、・・・」
ぶどう園とはだれでしょうか?
イザヤ5:1〜7「さあ、わが愛する者のためにわたしは歌おう。そのぶどう畑についてわが愛の歌を。わが愛する 者は、よく肥えた山腹に、ぶどう畑を持っていた。彼はそこを掘り起こし、石を取り除き、そこに良いぶどうを植え、その中にやぐらを立て、酒ぶねまでも掘っ て、甘いぶどうのなるのを待ち望んでいた。ところが、酸いぶどうができてしまった。そこで今、エルサレムの住民とユダの人よ、さあ、わたしとわがぶどう畑 との間をさばけ。わがぶどう畑になすべきことで、なお、何かわたしがしなかったことがあるのか。なぜ、甘いぶどうのなるのを待ち望んだのに、酸いぶどうが できたのか。さあ、今度はわたしが、あなたがたに知らせよう。わたしがわがぶどう畑にすることを。その垣を除いて、荒れすたれるに任せ、その石垣をくずして、踏みつけるまま にする。わたしは、これを滅びるままにしておく。枝はおろされず、草は刈られず、いばらとおどろが生い茂る。わたしは雲に命じて、この上に 雨を降らせない。まことに、万軍の主のぶどう畑はイスラエルの 家。ユダの人は、主が喜んで植えつけたもの。主は公 正を待ち望まれたのに、見よ、流血。正義を 待ち望まれたのに、見よ、泣き叫び。」
さて、ぶどう畑とはだれでしょう?それはイスラエルです。イスラエルは神のぶどう畑です。
ここで、マタイ21章に戻る前に、このことを心にとめておいてください。
マタイ21:33「・・・それを農夫たちに貸して、旅に出かけた。」34「さて、収穫の時が近づいたので、主人 は自分の分を受け取ろうとして、農夫たちのところへしもべたちを遣わした。」
神が期待された実というのは何でしょうか?ヒントを差し上げましょう。私たちは先ほど、イザヤ5:7で読みました。公正と正義です。みなさん、これ は変わることがありません。神は今も神の民の中にそれを求めておられるのです。これは聖書の揺るぎないテーマのひとつです。
詩篇33:5「主は正義と公正を愛される。地は主の恵みに満ちている。」
詩篇103:6「主はすべてしいたげられている人々のために、正義とさばきを行われる。」
箴言21:3「正義と公議を行うことは、いけにえにまさって主に喜ばれる。」
公正とは何でしょうか?公正には2つの主要な特徴があります。第一に、それは社会の義務を犯したときに課すペナ ルティーによって示される標準です。第二に、公正は物質的な物、何かに参加する権利や機会、自由の権利を含む社会生活の利益が分配されることによって現わ れる標準です。公正とは懲罰と利潤の両方の基準です。
それでは、正義とは何でしょうか?制定された規準を「遵守し、従う」という意味において正義とは、「高潔さ、実直さ」ということを意味しています。 聖書の用法としては、正義とは契約と関係に根ざしています。聖書の記者たちにとって、正義は神と人類の間、または人間関係のすべての範囲における人間どう しの間における契約条件を全うすることです。
マタイ21:35〜39「すると、農夫たちはそのしもべたちをつかまえて、ひとりは袋だたきにし、もうひとりは 殺し、もうひとりは石で打った。そこでもう一度、前よりもっと多くの別のしもべたちを遣わしたが、やはり同じような扱いをした。しかし、そのあと、その主 人は、『私の息子なら、敬ってくれるだろう。』と言って、息子を遣わした。すると、農夫たちは、その子を見て、こう話し合った、『あれはあと取りだ。さ あ、あれを殺して、あれのものになるはずの財産を手に入れようではないか。』そして、彼をつかまえて、ぶどう園の外に追い出し殺してしまった。」
イエスはユダヤ人たちがご自身にすることを預言しておられます。
マタイ21:40このばあい、ぶどう園の主人が帰って来たら、その農夫たちをどうするでしょう。41彼らはイエ スに言った。その悪党どもを情け容赦なく殺して、そのぶどう園を、季節にはきちんと収穫を納める別の農夫たちに貸すに違いありません。42イエスは彼らに 言われた。「あなたがたは、次の聖書の箇所を読んだことがないのですか。『家を建てる者たちの見捨てた石。それが礎の石になった。これは主のなさったこと だ。私たちの目には不思議なことである。』」43だから、わたしはあなたがたに言います。神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ国民に与え られます。
イエスは彼らに非常にはっきりと、神を拒絶したので、神の国は彼らから取り去られるだろうと言っておられます。
別のたとえ話を見ましょう。
マタイ22:1イエスはもう一度たとえをもって彼らに話された。2「天の御国は、王子のために結婚の披露宴を設 けた王にたとえることができます。」3「王は招待しておいたお客を呼びに、しもべたちを遣わしたが、彼らは来たがらなかった。」
王とは神です。息子はキリストで、イスラエルは招かれた人々です。
マタイ22:4「それで、もう一度、次のように言いつけて、別のしもべたちを遣わした。『お客に招いておいた人 にこう言いなさい「さあ、食事の用意ができました。雄牛も太った家畜もほふって、何もかも整いました。どうぞ宴会にお出かけください。」5「ところが、彼 らは気にもかけず、ある者は畑に、別の者は商売に出て行き、」6「その他の者たちは、王のしもべたちをつかまえて恥をかかせ、そして殺してしまった。」7 「王は怒って、兵隊を出して、その人殺しどもを滅ぼし、彼らの町を焼き払った。」
7節が語っていることは何でしょうか?エルサレムの崩壊という紀元70年の非常に明白な預言です。
マタイ22:8「そのとき、王はしもべたちに言った。『宴会の用意はできているが、招待しておいた人たちは、そ れにふさわしくなかった。』9『だから、大通りに出て行って、出会った者をみな宴会に招きなさい。』10「それで、しもべたちは、通りに出て行って、良い 人でも悪い人でも出会ったものをみな集めたので、宴会場は客でいっぱいになった。」
イスラエルはその特権を失いました。すべての国々が子羊の婚宴に来るように招かれています。キリストを拒絶したためにイスラエルの滅亡はバプテスマ のヨハネの始まりから預言されていました。I
マタイ3:9〜10「われわれの先祖はアブラハムだ。」と心の中で言うような考えではいけません。あなたがたに 言っておくが、神は、この石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです。斧もすでに木に根元に置かれています。だから、良い実を結 ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。
ルカ13:6〜9イエスはこのようなたとえを話された。「ある人が、ぶどう園にいちじくの木を植えておいた。実 を取りに来たが、何も見つからなかった。そこで、ぶどう園の番人に言った。『見なさい。三年もの間、やって来ては、このいちじくの実のなるのを待っている のに、なっていたためしがない。これを切り倒してしまいなさい。何のために土地をふさいでいるのですか。』番人は答えて言った、『ご主人。どうか、ことし 一年そのままにしてやってください。木の回りを掘って、肥やしをやってみますから。もしそれで来年、実を結べばよし、それでもだめなら、切り倒してくださ い。』」
最後の年に実を結ぶ代わりに、その国はメシアを十字架につけることによって、それまでのすべての罪に勝ることを行いました。
このことを考えながら、神の計画は変更されたのかという質問をしましょう。国家としてのイスラエルの拒絶は、神の約束を無効にするのでしょうか?神 はイスラエルと結んだ約束を破られたのでしょうか?
ユダヤ人は「神の民を呪い、拒絶したイエスは本当のメシアではなかったか、神のことばが間違っていることが証明されたかのどちらかだ。」と言うかも 知れません。それは、神の公正と正義に疑問を持つことです。
ここで、次のことを考えて見ましょう。それはあなたや私にとってとても実際的なことです。もし神がイスラエルを拒絶されたなら、彼らに与えられた約 束を受けなかったなら、私たちに与えられた約束を神が守られるという確信を何によって持つことができるでしょうか?どのような保証があるのでしょうか?神 がイスラエルを退けられたなら、私たちをも退けられるのでしょうか?霊的な保証なしには、私たちは死の恐怖を生き、あなたに対して訪れる罪と神の怒りの恐 怖の中に生きるのです。神がイスラエルとの約束を破られるなら、どのようにして私たちは安心感を持つことができるのでしょうか?
それでは、6節を読みましょう。パウロは彼の神義論を始めています。パウロは読者たち、すなわち第一世紀のローマ人たちと今日の私たちに、イスラエ ルを拒絶したことは神の約束が一貫していないことではないことを示そうとしています。これは、その国が非難されているのは神の約束は無効になったというこ とではないということを意味しています。
ローマ9:6「しかし、神のみことばが無効になったわけではありません。なぜなら、イスラエルから出るものがみ な、イスラエルなのではなく、」
「神のことば」とは神が語られたすべてのことを意味します。ここで、そのつながりから、それがより特別な意味で理解されるべきです。それは4節で暗 示されている契約における約束のことばです。神がその子孫に祝福を贈ると言われ、イスラエルの神としてご自身を宣言されたアブラハム、イサク、ヤコブと結 ばれた偉大な約束を示しています。
「無効になった」とはギリシャ語の「ekpipto」、「やめる、倒れる、失敗する、無効になる」という意味のことばから来てい ます。パウロは自身の船旅に関連して、使徒行伝27章で数回この動詞を使用しています。それは辿るべきコースからはずれている帆船に関して用いられていま す。またこのことばは花が枯れていくというときも使われます。神の約束はコースをそれてしまうようなものではありませんと言い換えることができるでしょ う。
神の約束はコースをそれたり、無効になることはありません。ただ、誤解されるだけです。だれかが神の約束を誤解することがあるとあなたは思います か?今日誤解されているイエスの約束をいくつか思い出すことができるでしょう。イエスのたくさんの約束は神の民によってずっと誤解され続けてきました。パ ウロは主権的選びの原則に従って、神は働いておられるし、いつも働いてこられたことを私たちに教えています。
「イスラエルから出るものがみな、イスラエルなのではない」
これはどのような意味なのでしょうか?神は決して無条件でアブラハムの契約的祝福の子孫たちに約束を与えられたのではありませんでした。神は決して イスラエル国家のすべてが贖われるというつもりをしておられませんでした。国家としてのイスラエルの中に「真のイスラエル」、「霊的イスラエル」がいるの です。国家は世界に祝福を運ぶための器として選ばれたのです。国家の中のすべての人が救われるように選ばれたというのではありません。ほとんどのユダヤ人 はユダヤ人の血筋として生まれたすべての人は生まれながらに救われると信じていました。彼らは安心感を持っていました。なぜなら、彼らはアブラハムの子孫 であり、約束の契約の中にいるからでした。
ヨハネ8:30〜33イエスがこれらのことを話しておられると、多くの者がイエスを信じた。そこでイエスは、そ の信じたユダヤ人たちに言われた。「もしあ なたがたが、わたしのことばにとどまっているなら、あなたがたはほんとうにわたしの弟子です。そして、あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由に します。」彼らはイエスに答えた。「私たちはアブラハムの子孫であって、決してだれの奴隷になったこともありません。あなたはどうして、『あなたがたは自 由になる。』と言われるのですか。」
罪はその人が自分の本当の状態が見えない盲人を作ります。彼らは自分たちが決して奴隷になったことがないと言いました。もしあなたがイスラエルの歴 史を理解しておられるなら、これがどれほどの冗談であるかお分かりになるでしょう。彼らはその当時ローマの奴隷となっていました。その前はギリシャの奴 隷、その前がメド・ペルシャ、そしてバビロン、その前がエジプトの奴隷でした。彼らの存在のほとんどの期間が奴隷状態だったのです。神がアブラハムに与え られた約束はその子孫が奴隷となり、ある時期苦しみを通るということが含まれていました。
創世記15:13〜14そこで、アブラムに仰せがあった。「あなたはこの事をよく知っていなさい。あなたの子孫 は、自分たちのものでない国で寄留者となり、彼らは奴隷とされ、400年の間、苦しめられよう。しかし、彼らの仕えるその国民を、わたしがさばき、その 後、彼らは多くの財産を持って、そこから出て来るようになる。」
彼らが言ったことに注意してください。彼らは「私たちはアブラハムの子孫だ。」と言いました。彼らは身体的な子孫に言及しました。彼らは自分たちを 救ってくれる民族性に信頼していたのです。
ヨハネ8:34〜36イエスは彼らに答えられた。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。罪を行っている 者はみな、罪の奴隷です。奴隷はいつまでも家にいるのではありません。しかし、息子はいつまでもいます。ですから、もし子があなたがたを自由にするなら、 あなたがたはほんとうに自由なのです。」
イエスはご自分だけが本当の自由を与えることができると言っておられます。救うことができるのは霊的誕生であって、肉体的な誕生ではありません。 (ヨハネ3:3)
ヨハネ8:37〜39わたしは、あなたがたがアブラハムの子孫であることを知っています。しかしあなたがたはわ たしを殺そうとしています。わたしのことばが、あなたがたのうちにはいっていないからです。わたしの父のもとで見たことを話しています。ところが、あなた がたは、あなたがたの父から示されたことを行うのです。彼らは答えて言った。「私たちの父はアブラハムです。」イエスは彼らに言われた。「あなたがたがア ブラハムの子どもなら、アブラハムのわざを行いなさい。」
彼らは身体的なアブラハムの子孫でしたが、アブラハムは彼らの霊的な父ではありませんでした。これは大切なことです。
ヨハネ8:40〜44「ところが今あなたがたは、神から聞いた真理をあなたがたに話しているこのわたしを、殺そ うとしています。アブラハムはそのようなことはしなかったのです。あなたがたは、あなたがたの父のわざを行っています。」彼らは言った。「私たちは不品行 によって生まれた者ではありません。私たちにはひとりの父、神があります。」イエスは言われた。「神がもしあなたがたの父であるなら、あなたがたはわたし を愛するはずです。なぜなら、わたしは神から出て来てここにいるからです。わたしは自分で来たのではなく、神がわたしを遣わしたのです。あなたがたは、な ぜわたしの話していることが分らないのでしょう。それは、あなたがたがわたしのことばに耳を傾けることができないからです。あなたがたは、あなたがたの父 である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです。悪魔はj初めから人殺しであり、真理に立っていません。彼のうち には真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。」
彼らの父はユダヤ人の時代の神である悪魔でした。サタンは律法を通して彼らを束縛していました。彼らはアブラハムの身体的な子孫でしたが、アブラハ ムの本当の子孫ではありませんでした。
マタイ3:7〜9しかし、パリサイ人やサドカイ人が大ぜいバプテスマを受けに来るのを見たとき、ヨハネは彼らに 言った。「まむしのすえたち。だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか。それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。『われわれの先祖はアブ ラハムだ。』と心の中で言うような考えではいけません。あなたがたに言っておくが、神は、この石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできにな るのです。」
ヨハネは彼らに身体的な続き柄は大切ではないと言いました。本当のイスラエルは誕生によるのではなく、信仰によるイスラエルなのです。イスラエルの 歴史を通して、必ず忠実なユダヤ人がいました。
ローマ11:3〜5「主よ。彼らはあなたがたの預言者たちを殺し、あなたの祭壇をこわし、私だけが残されまし た。彼らはいま私のいのちを取ろうとしています。」ところが、彼に対して何とお答えになりましたか。「バアルにひざをかがめていない男子七千人が、わたし のために残してある。」それと同じように、今も、恵みの選びによって残された者がいます。
ほとんどのイスラエル人は不忠実でしたが、レムナントだけは贖われました。信仰の人々がレムナントを形成しました。
ヨハネ1:47イエスはナタナエルが自分のほうに来るのを見て、彼について言われた。「これこそ、ほんとうのイ スラエル人だ。彼のうちには偽りがない。」
イエスはナタナエルが単に外見だけのものではなく、本当のイスラエルだと言っておられます。
イスラエルはアンモン、モアブ、ギリシャやローマといったことばと同じではありません。イスラエルは肉体的なつ ながりという意味においての定義はできませし、人間の側のことで理解されるものではありません。血や土によって造られるのではなく、神の約束によるので す。ローマ9章6節ははっきりと2つのイスラエルがあることを教えています。民族として、肉体的、また国家としてのイスラエルと神の選民、真の、霊的イス ラエルです。
ガラテヤ3:6〜7アブラハムは神を信じ、それが彼の義とみなされました。それと同じことです。ですから、信仰 による人々こそアブラハムの子孫だと知りなさい。
アブラハムの本当の子どもたちとはだれでしょうか?肉体的つながりではなく、信仰の人々です。
ガラテヤ3:9そういうわけで、信仰による人々が、信仰の人アブラハムとともに、祝福を受けるのです。
祝福は肉体的つながりから来るのではなく、信仰から来るのです。
ガラテヤ3:16ところで、約束は、アブラハムとそのひとりの子孫に告げらました。神は「子孫たちに」と言っ て、多数をさすことはせず、ひとりをさして、「あなたの子孫に」と言っておられます。その方はキリストです。
約束はだれへのものか注意しましょう。それはアブラハムとその子孫へのものです。それは単数であり、キリストです。私たちはキリストとの関係によっ てだけ祝福の中に入ることができるのです。
ガラテヤ3:29もしあなたがたがキリストのものであれば、それによってアブラハムの子孫であり、約束による相 続人なのです。
私たちはキリストを通してアブラハムに与えられた約束のすべてを相続するのです。私たちの存在のすべて、持つもののすべてはキリストとの結合のおか げであり、その結合は信仰によってのみ与えられるのです。注意して聞いてください。アブラハム契約はアブラハムとアブラハムの子孫であるイエスキリストと に与えられた約束です。その約束は彼が偉大になり、多くの国の父となり、彼にあって地上のすべての国々は祝福されるというものです。この約束はアブラハム において物質的に成就し、キリストにおいて霊的に、そして究極的に成就したのです。
パウロは宣べ伝えたことは神の約束に反対することではありません。イスラエルは信仰による神の民なのです。キリストを信じるすべての人は神がイスラ エルに与えられた約束を受けます。キリストに信頼する者たちである教会は神のイスラエルです。クリスチャンだけが「本当のユダヤ人」なのです。
ガラテヤ6:15〜16割礼を受けているか受けていないかは、大事なことではありません。大事なのは新しい創造 です。どうか、この基準に従って進む人々、すなわち神のイスラエルの上に、平安とあわれみがありますように。
神がその契約と約束を守られることを理解するために、すべてのイスラエルが本当のイスラエルではなく、すべてのユダヤ人が本当のユダヤ人ではないこ とを理解しなければなりません。
ローマ2:28〜29外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではありませ ん。かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るもので す。
ここで使われているユダヤ人ということばは神の選民の手法的な表現方法です。また割礼とは身体的なイスラエル人を意味するものでした。身体的なユダ ヤ人は「割礼の者」と同義語的に呼ばれていました。しかし、ピリピ書でパウロは異邦人クリスチャンを「本当の割礼」と呼んでいます。
ピリピ3:3神の御霊によって礼拝をし、キリストイエスを誇り、人間的なものを頼みとしない私たちのほうこそ、 割礼の者なのです。
私たちとはキリストを信頼するユダヤ人と異邦人のクリスチャンです。この論点は信仰であり、誕生ではありません。クリスチャンが本当のイスラエル、 ほんとうのユダヤ人、本当の割礼の者です。クリスチャンは神の選民、約束の相続人です。民族的なユダヤ人は重要ではありません。血統ではなく、信仰が問題 なのです。約束は信じるレムナントに与えられたのであり、全イスラエルに与えられたのではありません。
シオニズムとは、ユダヤ民族はパレスチナの土地を自分たちのものとして当然受けるに値するという信念の上に築か れた政治的な運動です。彼らはふさわしいのでしょうか?現代の不信仰なユダヤ人はまったく、神学的権利を持ちません。ですから、歴史的にも、法律的にもパ レスチナの土地に関する権利はありません。現代のユダヤ教はカルトであり、彼らは契約不履行者、キリストを拒絶する者、神ののろいの下にある者なのです。 今日の教会の多くが保持しているクリスチャンシオニズムは冒涜です。それは異端です。クリスチャンは現代の国家としてのイスラエルのうちにどのような神学 的意義も持たないのです。イスラエルは神に反対している国、キリストに反対している国です。
1ヨハネ2:22〜23偽り者とは、イエスがキリストであることを否定する者でなくてだれでしょう。御父と御子 を否認する者、それが反キリストです。だれでも御子を否認する者 は、御父を持たず、御子を告白する 者は、御父を持っているのです。
ユダヤ教は御子を否定するのでカルトです。ユダヤ人がイエスキリストに立ち返るまで、彼らは神の呪いの下に留まるのです。
黙示録2:9わたしは、あなたの苦しみと貧しさとを知っている。−しかしあなたは実際は富んでいる。−またユダ ヤ人だと自称しているが、実はそうではなく、かえってサタンの会衆である人たちから、ののしられていることも知っている。
黙示録3:9見よ。サタンの会衆に属する者、すなわち、ユダヤ人だと自称しながら実はそうではなくて、うそを 言っている者たちに、わたしはこうする。見よ。彼らをあなたがたの足もとに来てひれ伏させ、わたしがあなたを愛していることを知らせる。
だれが彼らはユダヤ人であってイスラエル民族ではないと言うのでしょうか?彼らはアブラハムの肉体的子孫ですが霊的には悪魔の子どもたちなのです。 本当のユダヤ人は、本当のイスラエルはイエスキリストに信頼し、心に割礼を受けた人です。
ユダヤ人の拒絶がなぜ神の約束という面において無効となっていないのかという理由は、神は決してアブラハムの血のつながった子孫に向けて約束を語ら れたのではないためです。約束はいつもアブラハムの霊的子孫である、教会に与えられているのです。教会はイスラエルのために神が預言されたプログラムの中 の一時的中断ではないのです。教会はそのプログラムの預言的成就です。なぜなら教会は本当のイスラエルだからです。民族ではなく、契約がいつも本当の神の イスラエルを定義するしるしなのです。
「イス ラエルから出るものがみな、イスラエルなのではない」・・・the この区別の目的は神の契約は肉によるイスラエルを特別視するのではなく、イエスキリストを本当に信じる、本当のイスラエルを特別視することを示すことで す。ですから、全体としての民族的イスラエルを拒絶することは決して神の契約の目的と約束の成就を妨げるものではありません。ですから、神の約束は破られ ていません。
神はイスラエルへの約束を守られるでしょうか?そうであると信じましょう。しかし、それは身体的な、肉体的なイスラエルに対してではなく、霊的イス ラエルへのものです。この祝福の約束を見て、だれに与えられたものか教えてください。
ゼカリヤ2:6〜13「さあ、さあ。北の国から逃げよ。−主の御告げ。−天の四方の風のように、わたしがあなた がたを散らしたからだ。−主の御告げ。−さあ、シオンに逃れよ。バビロンの娘とともに住む者よ。主の栄光が、あなたがたを略奪した国々に私を遣わして後、 万軍の主はこう仰せられる。「あなたがたに触れる者は、わたしの ひとみに触れる者だ。見よ、わたしは、こぶしを彼らに振り上げる。彼らは自分に仕えた者たちのとりことなる。」と。このとき、あなたがた は、万軍の主が私を遣わされたことを知ろう。シオンの娘よ。喜び歌え。楽しめ。見よ。わたしは来て、あなたがたの中に住む。−主の御告げ。−その日、多く の国々が主につき、彼らはわたしの民となり、わたしはあなたのただ中に住む。あなたは、万軍の主が私をあなたに遣わされたことを知ろう。主は聖なる地で、 ユダに割り当て地を分け与え、エルサレムを再び選ばれる。」すべての肉なる者よ。主の前で静まれ。主が立ち上がって、その聖なる住まいから来られるから だ。
これはしばしば目に見える国家としてのイスラエルに当てはめられ、イスラエルという国に良いことをしたほうがいいと言われてきました。これは霊的イ スラエル、教会について語られています。私たちに触れることは神の目に自分の指を入れることなのです。
神は真実で、公正です。神は義なるお方です。もし神が私たちと約束をされたならば、神のことばを大切に考えて良いのです。しかし、私たちは誤解した 神のことばではなく、神のことばそのものを理解すべきことをはっきりさせなければなりません。
神の約束は無効にはなりませんでしたし、今後も無効になりません。変わらない神のことばに大きな慰めがあります。神の約束にしがみつきましょう。彼 に信頼しましょう。神は真実です。
申命記7:9あなたは知っているのだ。あなたの神、主だけが神であり、誠実な神である。主を愛し、主の命令を守 る者には恵みの契約を千代までも守られる。
黙示録19:11また、私は開かれた天を見た。見よ。白い馬がいる。それに乗った方は、「忠実また真実。」と呼 ばれる方であり、義を持ってさばきをし、戦いをされる。
神はご自身の正当性を立証されます。神はご自身の約束を守られます。神が与えてくださった多くの変わることのない約束のうちに私たちは大きな慰めを
持つことができるとはなんてすばらしいのでしょうか。私たちに与えられた祝福の約束にあって私たちひとりひとりが安息できますように。神は真実な方です。
This message preached by David B. Curtis on July 13, 2003. Tape #274b.
| |