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聖書を用いた聖書解釈
By:ゲイリー・デマー
友人がクリスチャン・ジュー財団のニュースレター9/10月号を送ってくれた。その号は聖書預言の特集が組まれていた。友人がこのニュースレターを送ってくれたのは、過去派解釈(プレテリズム)を扱った記事があったからである。著者のゲイリー・ヘドリックがすすんでこの重要な課題に取り組んでくれたという事実には感謝している。なぜなら、ほとんどの未来派は過去派解釈を無視するか、誤って伝えるからである。
未来派解釈と過去派解釈の間のディベートをご存じない方々のために順を追って解説しよう。未来派というのは新約聖書の預言の大部分はまだ成就していないと信じている。過去派はもし時間を表す文脈の中で預言が語られているならば、その成就は時間の文脈によって支配されることを擁護する。「近い」、「間もなく」、「すぐに」、「しばらく」というようなことばは与えられた預言のタイムフレームを決定する上で重要なガイドラインとなる。もしこれらのことばが、新約聖書の他の箇所で使用されているのと同じ意味であるならば、新約聖書の預言のほとんどはすでに成就した、すなわち過去に起こったのである(過去派ということばの定義)。ディスペンセーショナリストであるヘドリックは、ディスペンセーショナリストと言えば文字通りの解釈をほどこす人々であるのに、時間を指し示すことばを文字通りに解釈しないのである。
ディスペンセーショナリストに加えて、やはり未来派であるアミレは、一般的に時間の文脈を潜在的な未来派解釈の枠の中に入れると言う同じパターンを踏んでいる。クリスチャニティー・トゥデーのライターであるVernard
Ellerはこの方法の代表者である。もし、(時間のテキストを)文字通りとるならば、「聖書の記者たちはみな偽りの証言をしていることになる。そうであるならば、彼らは単に間違ってしまったのだ。彼らは[すぐに]起こると言いながら、ほとんど2000年何も起こらなかった。」と彼は言った。Ellerは新約聖書の他の箇所がこのようなことばをどのように解釈しているのかという解釈方法に行く代わりに、それらのことばから以下のように確実な意味を取り去っている。
聖書の記者たちが言いたかったことは、「私たちは時間が短いことを知っている。」とか、「確実な知識はないけれども、時間が短いようにいつも考えるべきだ。」ということである。「はっきりとは分からないので、時間が短いという継続的な憶測の下に歩み続けたほうがよい。」 という継続的備えの説明が適切な解釈であろう。
同じように、いつ行われるかという時間の問題に関わらず、「すぐに」という性質を表すような出来事がいくつかある。その出来事があまりにも大きいことなので、自分の時間の概念の中に入れることができず、その出来事を現在のことのように夢を膨らませる。小さな子どもが「おばあちゃんが来る」のがいつ来るかに関係なく、「すぐに」と考えるのと同じことだと考えることができる。
上記した考えは「時は短い」という期待は客観的な理解と考えるよりも主観的な理解であると考えたほうが良いということを示している。(時間のテキストは)主観(信者たち)の姿勢を表しているのであって、客観(歴史的時間の枠)の現実性を表しているのではない。
これが典型的な未来派が用いる東洋の神秘主義のような響きのある言い回しである。これが前世紀を聖書的釈義よりもリベラルへと変えてしまった。聖書のどこにもEllerが願うような方法で解釈されている時間に関することばはない。Ellerの「主観的解釈」を他の時間に関係する他の箇所、たとえばイエスが言われた「時が近づいた」(マタイ26、18、参照ヨハネ7:6,8)、仮庵の祭というユダヤ人の祝いがちかづいていた。」(ヨハネ7:2)、「ユダヤ人の過越の祭りが間近であった。」(ヨハネ11:55)に当てはめてみよう。これらの箇所を読むすべての読者、はこれらの箇所の意味するところが小さな子どもにいたるまで正確に分かるだろう。あなたが「行く時期は来年かもしれないが、時は近いと考えるべきだから、いつも備えをしている状態でいるべきだ。」と考えながらで、あなたのお子さんにお友達のところに「すぐに」遊びに行ってもいいよと言えるだろうか?時間の枠を相対化したいEllerのような解釈者は私たちに時間が相対化された非歴史的な「永遠の今」に生きることができると信じ込ませたいのだ。これははっきり言って純然たるグノーシス主義である。グノーシス主義は今日のキリスト教会を握っている古代の異端である。
グノーシス主義はキリスト教の歴史的事実を哲学的概念に置き換える傾向を持つ。キリスト教信仰を非歴史化、非物質化する傾向を持つ。歴史を概念に変え、事実を哲学に変える。グノーシス主義は宗教を、人間に対する神ご自身とそのおことばの啓示としてではなく、人間が神と現実の概念を投影したものと見る。グノーシス主義はこのように、いつも教会に害を及ぼしてきたし、今日もなお「リベラル神学」という形で明確に、またより隠された形では「福音主義」の中で生きている。・・・新約聖書の記者たちは「近い」、「すぐに」(来る)、「この時代に」と、近づいている出来事について頻繁に語る。これらの時間の枠を表すことばはかつて真剣に受け止められていた。イエスの昇天の後すぐ多くの人々の回心、多くの人々の背教、ユダヤ人、背教者たち、ローマによる近づく大迫害、紀元70年のエルサレム崩壊は一世紀に起こる出来事として啓示されたのだと理解されていた。ところが、20世紀の福音派、特にカルヴァン主義者たちの著書は、これらの時間の枠に関することばを永遠化、普遍化してきた。神はいつも「そば近く」におられるので、出来事もいつも「近い」とか、「この時代」とはいつも裁きに会う「時代」であるとかのように。「まもなく、すぐに」起こる出来事は同時に「はるかに離れた」ことであり、一世紀についての預言は同時に、未来における人間の歴史の終焉の出来事へと移し変えられる。
皮肉にもアミレ(無千年王国)であるEllerは時間に関するテキストにおいて、非常にディスペンセーショナリストのようである。未来派の人々は巨大なジレンマを抱えている。時間に関するテキストが正確な時間を示していると認めれば、未来派の解釈を捨てなければならない。時間を相対化するならば、聖書の信憑性に疑いがかけられ、預言は信頼できなくなる。
これから述べることは、一般的には過去派解釈、また特に私の著書「Last DaysMadness」への批評に対するGary
Hedrickに送った手紙の改定版である。彼の記事から明らかなことは、しっかりとLast Days Madnessを読んでいないし、(Kenneth
Gentry やR.C.Sproulなどの)現代の過去派の著書を読んでいないということだ。HedrickはLDMに対しての実際的な議論に失敗しているので、抜け目のない読者ならば私の返答の中で同じことが繰り返されているのが分かるだろう。このことは預言の意味を簡潔に知りたい人には有益であるだろう。以下に述べることはGary
Hedrickへの直接の応答であり、そのため二人称で書かれていることを心にとめていただきたい。
(1)字義的/象徴的という議論
あなたもご存知のように(また、認めておられるように)、聖書のすべての箇所が字義通り解釈されるべきではない。ハル・リンゼイのようながんこなディスペンセーショナリストでさえ、「前千年王国説は字義的に、また寓話的に解釈する。自分たちの神学的前提にとらわれずに、テキストの文脈そのものによって、いつ寓話的に解釈すべきかを示されることが大切な点である。」と認めている。だから、過去派が聖書を字義的に解釈しないという主張は、聖書解釈学の方法とその複雑さを簡素化しすぎているし、はなはだしい虚偽でもある。
私たちはディスペンセーショナリストと同じように、ほとんどのテキストを文字通り解釈し、あるテキストを「霊的」に解釈する。なぜなら、はっきりした説明がなされないなら聖書は「霊的解釈」を要求するというゆるぎない聖書解釈学の原則を信じているからである。私は多数の例を引用することがでる。事実、私は、この容易に立証可能で、受けいれられてきた主張をサポートするためにディスペンセーショナリストの著者たちからの多数の例を引用することができる。
イエスはご自身の体を神殿と呼ばれた(ヨハネ2:21)。イエスの敵対者たちはそれを文字通りに理解した(マタイ26:61)。私たちはそれを弟子たちがどのように理解したかは定かではない。「新しく生まれる」とは、イスラエルの教師であるニコデモが理解したように母の胎にもう一度入るというのではなく(ヨハネ3:10)、霊的誕生を表している(ヨハネ3:3)。あなたもご存知のように、輪廻転生を信じる人たちは、この点に関してイエスの言われたことを文字通りとっている。そして、井戸のそばの女性が文字通りの水と思った「生ける水」の会話がある(ヨハネ4:15)。「私は天からくだってきたパンである。」とのイエスのことば(ヨハネ6:41)はどのように取り扱うのか?どのように「くだって来られた」のか?イエスは肉体を持って荒野におられたのか?イスラエル人は肉体の姿を持ったイエスを見たのか?このように言うのは文字通りではないだろうか?イエスは6:62でご自身の肉体の昇天に関するヒントをくださった。私たちはイエスが肉体のまま、弟子たちの目の前で昇天された(使徒1:11)ことを知っている。それらは同じ章に登場するのだから、どうして6:51のイエスが「くだって来る」は同じように文字通りでないのでしょうか?あなたはイエスが「まことに、まことに、あなたがたに言っておく。人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなたがたのうちにいのちはありません。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。」(ヨハネ6:53〜55)と言われる時に、化体説をとる人々にどのように答えるでしょう。ユダヤ人たちはイエスのことばを文字通りにとった。そして、「この人はどのようにしてその肉を私たちに与えて食べさせることができるのか。」(6:52)と尋ねた。事実、イエスの弟子たちでさえ、これはひどいことばだと言った(6:60)。彼らはイエスが文字通りのことを言っておられると考えたからだ。イエスは、「いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。わたしがあなたがたに話したことばは、霊であり、またいのちです。」(6:63)と弟子たちに話された。
以上のような例だけでも、字義的/象徴的という問題はあなたの主張のようには型にはめることはできない。どの解釈者もこの関係と格闘する。預言も例外ではない。私は黙示録全体を通して、字義主義の主張に対してあなたにチャレンジできる。しかし、ひとつだけ取り扱おう。聖書は使徒行伝1:11で、「あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」と語っている。黙示録19章では、再臨の時は「白い馬」に乗ってイエスが戻るとある。また、「その方は血に染まった衣を着て」いる。その上、「文字通り」の剣がイエスの口から出ている。John
Walvoordは「この箇所は聖書の他の箇所にも見出せるキリストの再臨の最もグラフィックな描写のひとつである。」と記した。どうしてこのように言うことができるのか?イエスは天に上げられたと「同じ有様」で戻って来られるのではないか?イエスは血に染まった衣を着、口から剣を出し、白い馬に乗って天に上げられたのだろうか?Walvoord博士は字義的解釈を主張して、この箇所の明らかな違いを調和させようと試みない。私の蔵書の中のどのディスペンセーショナリストの註解書も同じである。もちろん、この箇所はすべての箇所が字義通りに解釈されるのではないという立場に立てば、調和できるのだ。黙示録19章の詳細を文字通りに解釈してなお、使徒行伝1:11と黙示録19:11〜16は同じ出来事を描写していると支持し続ける註解者はひとりもいない。
だからと言ってすでに持っている終末論のシステムにある箇所を合わせるさめに霊的解釈をするという権利もない。だからあなたは「どこに線引きをするのか?」と言うとても良い質問をされた。しかし質問は良いが、正しい質問ではない。例を上げよう。
「見よ。主は速い雲に乗ってエジプトに来る。
エジプトの偽りの神々はその前にわななき、
エジプト人の心も心底からしなえる。」(イザヤ19:1)
この箇所に関して「文字通り」の解釈はどのようなものだろうか?エジプト人たちが文字通り(主の顕現)を見ることができるように、「文字通りの」雲に乗ってエホバがエジプトに来られたのだろうか?この表現はイエスが「稲妻のように」、また「天の雲に乗って」来られることを語っているような終末的箇所と何ら違いはない。また、私がチェックしたどのディスペンセーショナリストの注解書も、ここをエホバがエジプトに肉体を持って来られたというように「文字通り」に解釈していない。以下、2つの解説を見よう。
・主からの裁きがエジプトに対して来た。ここで神が速い雲に乗ってやって来られたように描かれている。(John Martin,The
Bible Knowledge Commentary:An Exposition of the Scriptures by Dallas Seminary
faculty)
・イザヤは主の介入の結果として、エチオピア王朝とリビア王朝との間での内乱を描写している。(Ed Hindson,Liberty
Bible commentary)
どちらの著者もエホバが「文字通り」雲に乗ってエジプトに、「文字通り」来たと主張していない。Martinは「神が描かれている」と言っている。この箇所は、エホバが裁きに来られるという他の多くの箇所と同じように、肉体的/物質的顕在を要求していないことを述べている。
この同じ箇所を新約聖書の文脈の中に読み込むとこのように読めるのではないだろうか「見よ。(イエス)は速い雲に乗ってエジプトに来ようとしておられる。偽りの神々はその前にわななき、エジプト人の心も心底からしなえる。」あなたも私も大多数のディスペンセーショナリストはこの箇所を文字通り解釈することを知っている。議論の余地はないだろう。
字義主義だけの解釈学に照らし合わせるなら、黙示録2:2、16、3:3といったイエスの恐るべき来臨はどのように解釈できるのだろうか。もう一度Walvoordを引用してみよう。「エペソのクリスチャンたちは、もし訓戒を聞かなければ、突然の裁きが臨み、燭台が取り除かれるというはっきりした警告を与えられた。(Henry)Alfordが言うように、これは最後の裁きではなく、特別な裁きとしてキリストが来られることを示している。」黙示録は三度キリストの「来臨」を述べている。Walvoordはこれらの箇所は「すべての人の肉の目は来るべきイエスの来臨において彼を見る」ことを表してはいないと言う。これらの箇所で用いられているギリシャ語はerchomaiであり、parousiaではないことは私も認める。しかし、これで問題が解決した訳ではない。なぜなら、マタイ24:30で「人の子が天の雲に乗って来る」という箇所ではerchomaiが用いられているからである。また、黙示録3:20は字義主義だけの解釈に従うなら、どのように理解すべきなのだろうか?
最後にもう一点上げておこう。Charles Ryrieは「キリストの初臨に関する旧約聖書の預言はすべて文字通りに成就した。」、「新約聖書には旧約の預言の文字通りではない成就はひとつもない」と主張した。しかし、実際に聖書からはこの主張をサポートすることはできない。たとえば、ゼカリヤ13:7は次のようなメシア預言である。「牧者を打ち殺せ。そうすれば、羊は散って行き、わたしは、この手を子どもたちに向ける。」イエスは羊飼いではなく、大工であったからこれは最も明白な例外として成就したのか。散らされた羊は弟子たちであった(マタイ26:31)。マタイ2:16での幼子たちの殺戮の後で、マタイ2:18はエレミヤ31:15を引用している。大昔に死んだラケルが子供たちのために泣き叫ぶというのはどのような字義的解釈が成り立つのだろう。赤ちゃんを殺されたお母さんたちが嘆いた人たちなのである。ラマと殺戮が起こったベツレヘムとはどんな関係があるのか?この預言は成就したのだろうか?もちろんだ。しかし、一般的なことばの定義としての字義通りという意味において成就したと言うことができるだろうか?次の質問は適切であろう。エレミヤ書の預言を最初に聞いた人々は、メシアの誕生の時の幼子たちの殺戮をこの預言と関連付けただろうか?私はそうは思わない。
新約聖書は文字通りでないメシア的箇所がイエスのうちに成就したこと(ルカ24:27、44)を理解するためのガイドである。あなたは「後の時代に生きる者の特権として、今私たちはメシアの初臨は文字通りの意味としての預言的真理であることが分かる。」と書かれた。しかし、同じことがどの預言は文字通りとるべきでないかを決定することに関しても言うことができる。イエスはその時代に戻って来ると、また最後の弟子が死ぬ前にそれが起こる(マタイ16:27,28、ヨハネ21:22)と言われたことを私たちは知っているのだから、イエスが裁きのためにやって来られることは文字通りにとるべきではない。紀元70年にイエスが裁きに来られたことは、エホバがエジプトを裁くために来られた(イザヤ19:1)ことと文字通り同じなのだ。
(2)健全な聖書解釈は字義主義でも、霊的解釈でもない
健全な聖書解釈はMilton Terryが高く評価されている「聖書的解釈学」に述べた「文法的、歴史的」方法を土台としたテキストの比較研究から始まる。Terryに馴染みのある方は、彼がディスペンセーション神学者のお気に入りであることをご存知だろう。Robert
Thomasは「プログレッシブ・ディスペンセーショナリズム」の批評文の中で、Terryを好意的に引用している。しかし、Thomasも他のディスペンセーション神学者もTerryが過去派(プレテリスト)であることを見落としている。Terryが過去派であることは、著書の「聖書的解釈学」と「聖書的黙示」から明らかである。Thomasが「プログレッシブ・ディスペンセーショナリズム」を論駁するために用いているMilton
Terryの論証は、Thomas自身のディスペンセーショナリズムにも適用される。ディスペンセーションの文献を出版する最も大きな出版社のひとつであるZondervan社(例えば、ハル・リンゼイの地球最後の日やJohn
Walvoordのたくさんの預言書)が、ディスペンセーション神学者によって非常に好意的に引用される「聖書的解釈学」を再版したというのは皮肉なことである。Terryのマタイ24章の解釈(P438−53)は全く過去派解釈である。全体の釈義は黙示録の過去派解釈とともに「聖書的黙示」の中にある。
それでは、Terryの解釈法の適用を説明しよう。マタイ24章34節でイエスは「これらのことが全部起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません。」と言われた。ギリシャ語のgeneaは「民族」(genos,例:「選ばれた種族」(1ペテロ2:9))と翻訳することはできない。Geneaとは「時代」という意味だ。どのように「この時代」ということばの意味を理解できるだろうか?聖書の他の「この時代」ということが使われているすべての箇所を比較することによってである。あなたはマタイ23章36節の「この時代」はイエスの話しを聞いた一世紀のユダヤ人を指していることを認めるだろう。新約聖書の「この時代」が出てくるすべての箇所も同じである。新約聖書では15回「この時代」が出てくるが、3回はオリーブ山での説教(マタイ24:34、ルカ21:32、マルコ13:30)で用いられている。「この時代」が使われている他の12回はイエスが話された人々を表している。ご自身で調べていただきたい。しかし、あなたはオリーブ山での説教で使われた「この時代」だけは未来の時代を表していると固持してこられた。残念だが、それは健全な釈義とは言えない。あなたは聖書は文字通り解釈することを主張し、その方法を保持することはできない。この箇所に関して私はあなたよりずっと文字通り解釈している。聖書こそ最高の聖書解釈者である。あなたがそのことばや成句の意味を知りたければ、聖書に向かいなさい。12度その句が用いられているところはひとつの意味で、たった一度だけ用いられているその句はまた別の意味であると主張する人々にはそれを証明する責任がある。オリーブ山での説教でイエスが用いた二人称は複数形であることに気づいて欲しい。再びここでも私の方があなたより字義的である。もしイエスが未来の時代を考えておられたなら、「あなた」や「この」を用いるより、「彼ら」や「あの時代」を用いておられただろう。
私は「Last Days Madness」で、マタイ24から25章の一節ずつの釈義を行った。私の方法論はとてもシンプルなものだ。イエスが「これらのことが全部起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません。」と言われた時、それをイエスのことばのまま受け取る。なぜなら、イエスは他の箇所で「この時代」をどのように使っておられるかを見るからだ。するとイエスが述べられたすべての出来事やしるしが、聖書は聖書によって解釈することによって、紀元70年のエルサレム崩壊を含んで、それより前に成就したことを理解出来るのだ。「この時代」を文字通りとるなら、この箇所は紀元70年以前の成就を要求することになる。
あなたも、「マタイ24章にある主の預言のある部分は紀元70年に成就した。偽キリスト、宗教的虚偽、ユダヤ人たちが高台に逃避したこと、神殿の崩壊は紀元70年にすべて起こったことだ。」と認めておられる。「この時代」ということばを文字通りに受け取るなら、私はそれに、地震(使徒行伝16:26)、飢饉(11:28)、神の国の福音が全世界(マタイ24:14はギリシャ語「oikoumene」、「kosmos」ではない。ルカ2:1参照)にすべての国々(コロサイ1:6、23、ローマ16:25、26)への証しとして宣べ伝えられること、その他すべてのことが起こったことを付け加えたい。
マタイ24章29節に注目しよう。「これらの日の苦難に続いてすぐに、」。解釈者は「29節に続く出来事は『続いてすぐに』起こることなので、主の預言のあることは成就し、あることはまだ成就していないという説を保持することはできない。34節のゆえに、これは「オール・オア・ナッシング」なのだ。もしあなたがパーシャル・プレテリストの立場を正しく表現したいなら、みことばとみことばを対照させなさい。聖書はそのことばと同じような言い回し、語法を用いていないだろうか。これが、預言を理解する解釈法の鍵である。
(3)地上のあらゆる種族は、悲しむ
あなたは「地上のすべての種族は紀元70年に悲しんでいない(マタイ24:30)。」と言っておられる。しかし、ヨセフスはローマがイスラエルを征服したことで喜んだと報告している。このテキストは実際は、「土地の種族たちは悲しむだろう。」と読むのだ。「種族」に対するギリシャ語のことばは、あなたもご存知のように、ethnosである。マタイ24章30節では、ethnosは使われていない。「種族」のギリシャ語はphuleである。マタイはそれを2度用いている。一度はマタイ24章30節、もう一度は19章28節の、「イスラエルの12の部族を裁くのです。」で用いられている。ギリシャ語gesは「地上、土地、土壌、また地」と訳すことができる。「部族(種族)」ということばが用いられ、gesは「(イスラエルの)土地」と正しく訳されるのだ。これは第一世紀、紀元70年までの成就にぴったりと当てはまるのだ。事実、Christian
Jew Foundationの9/10月号の14ページにある「聖書質問箱」には、ヘブル語のeretsは「地上」または、「土地」と訳されるべきだという議論があるが、あなたも編集者も「文脈は後者を支持する」ようだと結論付けておられるが、私もそれに同意する。
先月のBiblical Worldview誌(デマーの主催するAmerican Visionが発行する雑誌)に、The
Message of The Christian Jew誌の1999年9/10月号のGary Hedrickの記事に対して書いた私の応答文を掲載した。今回はその最終部分を掲載する。
Hedrickが預言について語る時、「主が預言的に語られるとき、主が言われた通りのことを意味しておられ、主が意味される通りのことを言われた。」と書いている。私もそれに同意する。しかし、どのようにして私たちは主が意味しておられることを決定するのだろうか?ダラス神学校の前教授であったS.Lewis
Johnsonが主張するように、聖書こそ聖書の最高の翻訳者である。
「聖書の著者たちは聖書的教理の信頼できる教師なのだから、聖書解釈の手順においても信頼できる教師である。今日の聖書解釈にたいへん欠けている点はこれである。聖書の著者たちの方法論を注意深く研究することに失敗し、人間の理性を前提とする有限な方法や原則をあわれなほどかたくなに踏襲することによって、私たちは聖書を理解する方法において躓き、また道に迷ってしまっている。『聖書こそ、その解釈者』というのは聖書解釈学の基本的原則である。」
Hedrickはこの聖書的方法論を必死に避けようとしている。彼が時間の文脈に来たときに、彼は「主が預言的に語られるとき、主が言われた通りのことを意味しておられ、主が意味される通りのことを言われた。」という彼自身の基準を投げ捨てている。Hedrickは「過去派の兄弟たちが理解していないことは、ギリシャ語の『tachus』(近い)が相対的な用語であるということだ。」と言っている。これが字義主義者から出たことばである!このことをサポートするために、Hedrickは新約聖書を用いるのではなく、聖書以外の文献である第二クレメント20章3節を引用している。別のところで彼は、「イエスが『間もなく』、また『すぐに』来ると言われたとき、ご自身を特別な時間の枠に入れない用語を用いられた。」と言っている。信じがたいことである。もしそうなら、イエスが弟子たちに言われた「都に入って、これこれの人のところに行って、『先生が「わたしの時が近づいた。わたしの弟子といっしょに、あなたのところで過越を守ろう。」と言っておられる』と言いなさい。」(マタイ26:18)はどうなるのだろう。時間の用語をどのように解釈するかはとても簡単である。他の新約聖書の箇所でどのように用いられているかを見ればよいのである。コンコルダンスを取り出して、自分自身でそのことばを引いてみなさい。それは毎日の会話の中で用いている意味を意味している。
Gary Hedrickは私たちにイエスの再臨が「近い」ことを信じてほしいのである。彼だけではなく、預言本の著者たちは「イエスの再臨がまもなくである」ことの証拠として現代の出来事を示し続けている。例えば、クリスチャニティー・トゥデー(1999年12月6日号)への投書には、「キリスト再臨のしるしは急激に増加している。」とある。このようなことを以前どこで聞いただろうか。何世紀にも渡り、同じような主張が何百という預言本の著者によってなされてきたかを紹介する時間と紙面が私にはない。この投書をした人は続けて、「これらしるしのすべては地球の砂時計はまもなく止まり、神の最終預言書、イエスキリストの黙示は文字通り『すぐに』成就することを示している。」と断言している。
この投稿者は聖書に出てくる「間もなく」、「すぐに」、「近づく」という時間的用語を用いている。あなたは彼が用いているこれらのことばの意味をどう理解するだろう?これらのことばは一般的に用いられている意味なのだろうか?もちろんそうである。それならば、どうして聖書に用いられているときも同じ意味だとしないのだろう。Jack
Van Impeはその著書「千年王国:始まりか終わりか?」(1999年)で「イエスは間もなく来られる」と言っている。チャック・スミスも「終わりの時」(1978年)と「最後のカーテン」(1984年)で「あなたが考えているよりも近い。眠りから目覚め、主の再臨が近いことを理解する時である。」と同じ予言をしている。どうして彼らはこれらの時間の用語を用いているのだろうか?彼らは私たちにイエスの再臨が「近い」、「時が近づいている」ことを信じさせたいのだ。しかし、これは聖書が2000年前に言ったことである。
Hedrickもマタイ24章34節の「この時代」ということばに来ると、同じようなアプローチをする。彼はマタイ23章36節の「この時代」は「その出来事(特に、紀元一世紀のユダヤ人の迫害)が起きた時代に生きていたユダヤ人を表している。」と認めている。しかし、マタイ24章34節に来るとたんに、イエスは「紀元一世紀に生きていたクリスチャンたちの時代ではなく、『これらの出来事(マタイ24章にある預言的しるし)』が成就し始める時代に生きる人々のことを言っておられるのだ」と主張する。マタイ24章34節にこの意味を持たせるためにHedrickがしなければならないことを見てみよう。第一に、福音書のいたるところで用いられている「この時代」ということばの意味を無視しなければならない。しかし、それはいつもイエスが話しておられる人々の時代を意味している。第二に、彼が願う解釈をするために、「これらのことがすべて起こる時に生きる人々の時代」というように文脈にことばを付け加えなければならない。結果として、彼は聖書を解釈するために聖書を用いない。時間のことばが使われている文脈でしたように、Hedrickは周到にみことば(「この時代」)をみことば(「この時代」)で解釈することを避けるのである。イエスは弟子たちにこれらのことを見ると言われたのだから、Hedrickはイエスをウソつきとしなければならない。イエスが弟子たちにそう話されたので、その時代は「これらすべての出来事」をまさに見たのだ。
Hedrickは紀元一世紀以降の出来事にマタイ24章を未来化するのは、彼が「この時代は過ぎ去っていない」と信じるからである。それでは前月に扱えなかったことから反論を続けよう。
(4)いつ「世の終わり」は起こったのか?
パウロは1コリント10章11節で「これらのことが彼ら(旧約時代のイスラエル)に起こったのは、戒めのためであり、それが書かれたのは、世の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです。」とコリントのクリスチャンに書いている。紀元一世紀の教会は旧約時代の終わりに生きていた。彼らは旧い契約の「終わりの時」(ヘブル1:2)に生きていたのだ。ヘブル9章26節でも同じようなことばが使用されている。「しかしキリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。」。ペテロは「この終わりの時」(1ペテロ1:20)、また「万物の終わり」(4:7)としての贖いの歴史のその時代のことをその出来事は「近い」こととして述べている。ヨハネは一世紀の読者たちに「小さい者たちよ、。今は終わりの時です。あなたがたが反キリストの来ることを聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現れています。それによって、今が終わりの時であることわかります。」(1ヨハネ2:18)と語った。新約聖書の著者たちにとってこのことはどれほど明らかなことだったのだろう?「世の終わり」は紀元一世紀の出来事だったのだ。
(5)マタイ24章29節の太陽、月、星とは何か?
私の著書「Last Days Madness」ではこの主題についての完全な議論がなされている。旧約聖書は太陽、月、星ということばで満ちている。創世記37章9〜11節と黙示録12章1、2節では、イスラエルという国は太陽(ヤコブ)、月(ラケル)、星々(イスラエルの息子たち)で描写されている。ディスペンセーショナリストの注解者でさえも、このような解釈学上のアプローチをとっている(LDM146,147頁参照)。イエスは「天の星、天のオリオン座」としての旧約のバビロンは「光を放たない」と描写したイザヤ書13章10節のみことばを引用しておられるのである。「太陽は日の出から暗く」、「月も光を放たない」と言われているが、これは実際に起こったことなのだろうか?注解者たちはみなこれはバビロンが神の裁きにあったときに起こったと言っている。そうでなければ、あなたは天に超自然的なしるしが現れていないのだから、これらのことは起こっていないと言わなければならないだろう。
Charkes L.Feinbergはディスペンセーショナルな注解書であるリバティー・バイブル・コメンタリーの黙示録の注解で以下のように結論付けている。「太陽、月、星というのは、完全な政治のシステムを示し、それによって読者に創世記37章9節を思い出させるのである。神はダビデの家系に、イスラエルに王位を置かれた。」Feinbergは太陽、月、星は実際に見えるそれであるとどの箇所でも言っていない。この裁きの下にある「完全な政治のシステム」が、天から落ち、光を放たなくなる太陽、月、星として描写されている。イエスは同じ言い回しを紀元70年のエルサレム崩壊に用いられてたのである。それは本当に起こったのだろうか?イエスは「太陽、月、星が暗くなり、天から落ちるという聖書の象徴を理解するなら、これらのことが全部起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません。」は実際に起こったと言われるのである。
(6)ゲイリー・ノースと偽預言
あなたがお書きになったように、ゲイリー・ノースと私は一緒に本を書いた。Y2K問題を含めてここ数年に渡って私たちはたくさんのトピックについて話し合ってきた。ノースは決してY2K問題を聖書のある箇所と結びつけて論じたことはない。ノースはトミー・アイスがディスペンセーショナルな再臨の時期を設定する人々を救うために、ノースも聖書預言の著者たちと同等だとする発言への応答を以下のように書いている。
私は前千年王国説に反対する者である。そして、何百万ドルも使って破滅的終末論に反対する書籍を出版してきた。そのため私はファンダメンタルなリーダーたちからは信頼されてこなかった。私はその核心部において反破滅的終末論に反対する立場の後千年王国主義者として知られている。であるから、Y2K問題における私の立場も多くのファンダメンタリストの批判によっては理解され得ない。彼らは私のY2K問題に対する観点が非常に黙示的であると言う。しかし、私の考えはいわゆるファンダメンタリストたちが言うところの世の終わりとは何ら関係がない。なぜなら、彼らが言う終わりの時は新約聖書が教えていることを間違って解釈しているからである。私はこのことを30年以上に渡って語ってきたので、ファンダメンタリストからは敵対者と見なされている。
ゲイリー・ノースは彼のY2K問題の立場に関しては、過去派の仲間たちからさえも多くの批判を受けてきた。LDMは聖書の預言を扱っているので、ノースのY2Kの立場は含めなかった。なぜなら、彼のY2Kの予測はディスペンセーショナリストがするような聖書の解釈とは違っているからである。デイブ・ハントが「我々はどれほど近いのか?」というタイトルの本を書いたとき、近づくキリストの再臨の証拠を引き出すために、彼は聖書を用いている。ハントは聖書が近づく再臨を教えていると主張する。
ノースが行ってきた金や銀、エイズ、核戦争に関する予測は言い過ぎであったと思う。もしY2Kに関する彼の予測が間違っていたならば、それは彼の評価に関して疑問が持たれるべきである。しかし、もしだれかが聖書を用いてあることがらの預言をするならば、それは聖書の真実性に疑問が持ち込まれることになる。ゲイリー・ノースは一度も「主は言われる。」と言わなかった、ただ「ゲイリー・ノースや他のY2Kアナリストは言う」と言っただけである。
(7)人の子が来る
イエスが来ると言われたことのすべてが再臨を表しているというのではない。
・「悔い改めることをしないならば、私はあなた(エペソにある教会)のところに行って(英語ではcoming)・・・」(黙示録2章5節)
・「悔い改めなさい。もしそうしないなら、、わたしは、すぐにあなたのところに行き(英語でcoming)、わたしの口の剣をもって彼らと戦おう。」(黙示録2章16節)
・「もし、目をさまさなければ、わたしは盗人のように来る。あなたには、わたしがいつあなたのところに来るか、決してわからない。」(黙示録3章3節)
過去派の解釈をしない人々でさえ、黙示録3章3節では裁きは「盗人のように」(1テサロニケ5:2、2ペテロ3:10、黙示録16:15参照)来ると述べられているにも関わらず、上記の箇所がキリストの再臨を表していないことに同意している。
「エペソのクリスチャンはもし、訓戒を聞かなかったら、突如裁きが訪れ、燭台が取り除かれることをきびしく警告された。(Henry)Alfordが述べたように、これはキリストの再臨ではなく、特別な裁きの内に主が来られることをここでは指し示している。」(John
Walvoor、The Revelation of Jesus Christ:A Commentary)
「教会が悔い改めないなら、キリストが来られ、その場所から燭台が取り去られるだろう。これは再臨を表しているのではなく、前段階の裁きとしてすぐに来られることを表している。結局、キリストは教会の間を歩かれる(黙示録2:1)のである。」(Robert
H. Mounce, The Book of Revelation)
「『すぐにあなたのところに行き(英語でcoming)』(黙示録2:16)ということばは5節にもあるように、教会に対して裁きに来られるというように理解されなければならない。それは決して再臨について述べられているのではない。」(Alan
F. Johnson, Revelation:The Expositor's Bible Commentary)
「このキリストが来られるというのは再臨のことではない。裁きと戒規のための特別な主の訪れである。」(Steven
J. Lawson,Final Call)
旧約聖書にはいくつかのエホバの到来が書かれている。それらの箇所は実際に見えるかたちのものであっただろうか?私が調べた注解書ではひとりとしてエホバの物質的(肉体をもった)到来を表しているとの結論を出したものはいない。
・見よ。主は速い雲に乗ってエジプトに来る。エジプトの偽りの神々はその前にわなななき、エジプト人の心も真底からしなえる。」(イザヤ19:1)
・見よ。主はご自分の住まいから出て来て、地(その土地)に住む者の罪を罰せられるからだ。地(その土地)はその上に流された血を現わし、その上で殺された者たちを、む、おおうことをしない。」(イザヤ26:21)
・見よ。主は御住まいを出、降りて来て、地(その土地)の高い所を踏まれる。」(ミカ3:1)
マタイ24章30節の雲に乗ってイエスが来られるというのは、「人の子が年を経た方のもとにすすみ」というダニエル7章13節からの直接引用である。これは再臨のことではない。イエスがエホバの右の座に現在着いておられる(使徒行伝2:34)ということを私たちが理解するなら、ダニエルの描写が紀元一世紀の出来事として最もマッチしていることが分かる。ディスペンセーション神学は自分たちの神学を固辞するために聖書の明らかな教えから人々を引き離さなければならない。
この論文はAmerican Visionのゲイリー・デマー師の許可をいただいて翻訳・掲載しております。英文の著作権はデマー師に、日本語訳著作権は翻訳者の谷口明法にあります。オリジナルはUsing
the Bible to Interpret the Bible Part1,Part2です。