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超信条主義者の独断的原則

By デーヴィッド・グリーン - The Preterist Cosmos



この小論はキース・マシソンが数名の著者とともに出版した
When Shall These Things Be? というタイトルの本のケン・ジェントリーが担当した章に対する反論です。彼はこの本の最初の章を受け持っており、その章のタイトルをThe Historical Problem with Hyper-Preterism(ハイパー・プレテリズムの歴史的問題)としています。ジェントリーが受け持つ章の中心的目的は、(フル)プレテリズムは歴史的教会 のエキュメニカルな信条(世界信条)から逸脱しているので、(フル)プレテリズムがキリスト教の腐敗した形を教えていると結論付けなければならな いと示すことです。

しかしジェントリーがプレテリストに対して提議していることや批判のほとんどは、私にも、他の多くのプレテリストにも当てはまりません。それは、ジェント リーの章のほとんどの部分は以下のような議論の方法をとっているからです。

 

1. プレテリストたちがしてきた説得力にとぼしい議論や極端な表現を論駁する。ある場合にはリフォームド・プレテリストがしたこともないつまらない意見を論駁 す る。

2. 説得力のない意見や極端な表現をプレテリズムの決定的な考えとして特徴付ける。

3. プレテリストがしている重要な意見には注意を向けない。

4. それによって、情報を十分に与えられていない読者たちにプレテリストのグループは愚かな人たちで構成されていると思わせる。

(ジェントリーが説得力のない意見をプレテリストの最も強い意見であると特徴 付け、最もはっきりとした意見を避けることは、この議論において彼の信頼性にとって傷がつくことです。)

さて、私(や他の多くのリフォームド・プレテリストたち)はすでに以下のこと においてジェントリーに同意しています。

 

私は「反信条主義」ではない。私はエキュメニカル信条(世界信条)が単な る「意見」であるとは信じていません。信条の必要性、有益性、利点を否定しません。「人のことば」を用いただけのものだというような批判はしません。

信条を用いて正統性を決定することは反改革派的であり、反ソーラ・スクリプトゥラ(聖書のみ)であるとは信じていません。(ジェントリーは文脈から切り離 した私のことばを用いて、私がそう信じているという印象を与えていますが。).(1)

私はジェントリーのような人がエキュメニカル信条が霊感されていると考えているというようには信条主義者を非難しません。(彼らがプレテリズムに答えると きに、彼らは知らず知らずのうちに、しかし事実上は聖書と同等か、それ以上に見なしていますが。)

私は「制度的教会」に反対したり、退けたりしません。

私は「チャーチ・オブ・クライスト」のようなキャンベライト主義の教会のメンバーであったことは一度もありません。

私は真理を確かなものとすることは不可能であると考えていません。私は歴史的な福音にその初期において本質的な欠陥があったと信じていません。私は教会 の中のすべての教えに寛容であるべきだとは思いません。(10〜12ページにおいて、ジェントリーはすべてのプレテリストはこの相対的な立場を取っている というようなはっきりとした印象を与えています。もしリフォームド・プレテリストでそのような立場を取っている人が少しでもいるなら、驚くべきことで す。)

私は今日における聖霊の内住を否定しません。(この教えを否定するリフォームド・プレテリストがいたら驚くべきことです。)

 

ジェントリーと私が一致しない 教えの分野はすでに私のPreterism and the Ecumenical Creeds. (1999) という論文で述べました。ジェントリーはこの論文を読み、彼の章で5回も引用していながら、私の意見に注意を向けませんでした。ですから、ジェントリーに 対するこの応答において、彼からの応答があることに期待してPreterism and the Ecumenical Creeds からの中心的議論を短く繰り返して、述べてみたいと思います。


世界信条: 最初で、最終的ことば

ジェントリーはなぜ
When Shall These Things Be? の自分の担当する章を世界信条の議論で始めるかという短い擁護をもって始めています。ジェントリーは以下の理由のためになぜこの本が信条をもって始めているのかを語りま す。

...このディベー トの重大性を確立するために。私たちは歴史的、共同的、公的、普遍的、組織的キリスト教信仰を擁護しています。(2ページ)

しかし現実には、この本が信条 をもって始まっている理由は以下のことによります。

ケン・ジェントリーと編集者であり、共著者であるキース・マシソンは(フル)プレテリズムの分析における「第一ステップ」は信条的未来主義を前提とするこ とだと信じています。「第一ステップ」をとった後でのみ、私たちは(フル)プレテリズムを考慮し始めても良いと言います。

また別のことばで言い表すと、

彼らは私たちが先ず、信条を土台とし、プレテリズムを考慮する前にプレテリズムは拒絶しなければならないと信じています。

ジェントリーは戦略的に自らの章を以下のように締めくくっています。

 

自分が正統的クリス チャンであることを確かめるために、私たちは問題の信条による分析が必要です。そのような神学的方向性を持ってからのみ、私たちは釈義的、神学的問題に取 り組む方向へと進んでもよいのです。(60ページ)

 

ジェントリーは信条的未来主義 が「誤りなく確かである」(44ページ) との前提を第一ステップとして取ってからだけ、聖書の光に照らして(フル)プレテリ ズムを「考慮する」方向に進んでも良いと言います(2ページ)。そして彼がプレテリズムを考慮しても良いというとき、それは私たちがプレテリズムは聖書的かもしれないという可能性を考慮する自由があるという意味ではありません。ジェントリーが意味して いるのは、プレテリズムは聖書的ではないという信条の理解の中でのみ、私たちにはプレテリズムを「考慮する」許可が与えられているという意味です。

ですから、信条主義者にとっては(究極的権威である)聖書が未来主義を教えているかどうかという疑問に関しては最初から信条によってはっきりと解決してい るのです。この意味において信条主義者にとって世界信条はプレテリズムに関して最初から、最終的な(決定的な)ことばなのです。

超信条主義の苦い果実

ケン・ジェントリーや他の信条主義者たちにとって、(フル)プレテリズムを取り扱うときの「第一ステップ」は信条なのでしょうか?プレテリズムを考えると きに、私たちは信条による分析をした後にのみ聖書に行かなければならないとなぜ彼らは言うのでしょうか?またなぜ信条主義者たちは聖書に行くことなしに、 世界信条の終末論は「誤りなく確か」であり、それゆえプレテリズムは反聖書的教えであるに違いないと仮定しなければならないのでしょうか?

究極的には、この立場には筋の通った理由はありません。信条主義者たちはゆるぎない土台に立って始めるけれども、不意に理性から飛び出して主観主義をとり ます。それでは、信条主義者と(フル)プレテリストの間を分ける聖書的前提を短く見ていきましょう。

第一:歴史的教会は真理の柱であり、土台です。神は救いのために必要な聖書的真理の十分な理解を教会に与えられまし た。教会は神の声を聞くので、必ず本当の福音を所有し、それを宣べ伝えます。

第二:世界信条は歴史的教会が「いつでも、どこでも」教えてきたメッセージを反映し、適応した正確な記録です。ですから、歴史的教会の福音は必ず真理なの ですから、世界信条は必ず本当の福音を含んでいます。この意味において、少なくともキリストの福音の中心的真理は世界信条の中に含まれています。

第三:世界信条はそれゆえ致命的な誤りを含むことはありえません。信条の中に福音を覆したり、無効にする誤りを含むことはありえません。もしありえるので あれば、歴史的教会の福音はもはや福音ではなく、偽者となります。

(例えば、教会はいつもキリストの死と復活を教えてきました。これは福音です。しかしもし教会がイエスはたんに偉大な教師であり、イエスの死と復活の目的 はどれほどユダヤ人が悪い人々であったかを示すことであると教えるなら、教会がキリストの死と復活を教え続けてきたという事実にもかかわらず、教会にも、 信条にも福音は存在しなくなってしまいます。)

第四:信条は誤りを含んでいる可能性があります。なぜなら、信条は聖書ではないからです。信条は霊感されていません。信条は真の福音を確かに含ん でいますが、致命的ではない誤りも含んでいます。なぜなら、信条は人間の霊感されていない解釈の定理をも本質的に含んでいるからです。

すべての保守的なプロテスタントの信条主義者たちはこの4ポイントに同意します。そしてもし私が間違っていなければ、 改革派の背景を持つ(フル)プレテリストたちも同様に同意します。

この4ポイント以上を越えるときに、信条主義者たちとプレテリストたちは決別していまうのです。プレテリストは以下の ような方法をとります。

 

上記の第四のポイントは未来派解釈は致命的でない信条的誤りであるという可能性を提案することを許すものです。 なぜんあら、信条は致命的でない誤りを含みえるからです。また、信条的未来派解釈は致命的でない誤りであり、過去派の解釈が正しいかもしれないのです。

そして避けられないことは、私たちは聖書の解釈によって過去派解釈の正しさを証明したり、誤りを証明するしか選択の余地はありません。

この論理的な方法は慎重で、注意深いものですが、ジェントリーの特徴づけでは「極端」もしくは「ハイパー」以外の何 ものでもありません。ジェントリーや他の信条主義者たちはどのようにプレテリズムの可能性にドアを開くこの聖書を土台とした理論を論破するのでしょうか? それは全く単純です。論理的であることから逃避する他のすべての人々と同じ方法を取ります。彼らは独断的に新しい法則をでっち上げるのです。以下が信条主 義者の重要な法則です。
 

世界信条には小さな、致命的でない誤りが含まれるが、重大な(深刻な、主要な)致命的でない誤りは含まれえな い。

超信条主義者は何もないところからこの法則を導き出しました。その理由 が何であれ(信条に対する過度の崇拝とプレテリズムへの恐れ以外の)、超信条主義者はプレテリズムが真理かも知れな いというはっきりした可能性にさえも耳を閉じるために自分自身を正当化するための法則です。またそれは彼らが明確に信条を土台にしてプレテリストを非難す ることを正当化するための重大な原則です。

もしプレテリズムが正しいならば、未来派解釈は重大だけれども致命的でない信条の誤りとなります。しかし信条主義者はこのようなシナリオは絶対に不可能で あるという独断的な考えを保持します。

これがなぜジェントリーや他の信条主義者たちがプレテリストを福音に忠実であり、信条の中の致命的でないが、重大な終末論的間違いに異議を唱えるけれど も、信条の本質と精神を承認するキリストにある仲間、兄弟たちであるという可能性を認めない理由です。

その代わりに独断的で、主観的な信条主義者の法則を土台に、プレテリストは「歴史的キリスト教の錨」から全く離脱する
悪い人たち、「伝統的キリスト教の とても根本的なこと」に反対して立つ人たち、「キリスト教のシステムを急進的に改定しようとする」人たち、「キリスト教神学の土台」を取り除く人たち、 「キリスト教信仰を信条的に確信する」ことを覆そうと試みる人たちであると見なします。

信条は信条主義者たちがプレテリストたちをキリスト教の生き方に脅威を与えると非難するのは、信条が重大な致命的でない誤りを犯すことはありえないという 空虚な考えを土台にしてのことです。

ですから本質において、(プレテリストの)兄弟たちは独断的な人間の作り上げた法則を土台にアナセマされて
(呪われて)います。

これが超信条主義者たちの苦く、有毒な果実です。

残念なことに、そこで留まりません。信条主義者の過ちはまた信条主義者の過ちを生み出します。信条主義の法則が主観的なだけではなく、その法則の適用も同 様に主観的です。例えば、・・・

ジェントリーは3つの主要な千年王国のそれぞれの説は「それぞれが信条的終末論的確信である、キリストの未来の再臨、最後の審判、からだの復活」を肯定し ているので、世界信条に矛盾しないと言います。 (pg. 26,49,50)

しかし、このジェントリーの主張は「表面的には論理と神学を学んだことのない人々」には説得力があるかもしれませんが(pg. 42)、ジェントリーがキース・マシソンと共に書いた1999年の本、
Postmillennialism An Eschatology of Hope の32ページによると彼の述べたことは真実ではありません。

 

使徒信条は・・・暗にプレミレを否定しています。この信条による と、キリストの再臨の目的は「1000年のミレニアム王国を建設することではなく」、「生きている者と死んだ者とを裁く」ことです。

マシソンは244ページでもう一度以下のように言います。

正統的終末論の根本的教義は、すべての人々の裁きとすべての人々 の未来のからだの復活のために見える姿でイエスが再臨されるという信仰をいつも含んでいます。

マシソンはプレミレが信条的に異端であると確信しています。世界信条は キリストが死者をよみがえらせ、すべての人々を裁くためにもう一度来られることを教えています。信条に反して、プレミレはキリストが地上にミレニアムの支 配を建設するために再臨されると教えるからです。

プレミレは基本的な信条の教え(死者をよみがえらせ、すべての人々の裁きをするためのキリストの再臨)と矛盾しているので、信条主義者は(フル)プレテリ ストを取り扱うのと同じようにプレミレを扱うべきではないのでしょうか?

もちろん彼らはそうしません。

その代わりに、個人主義と主観主義が最重要事項となります。彼らと同じように信条に対して全く同じ違反行為を犯している(終末論的な概念における重大な矛 盾)プレテリストは信仰の敵であると見なされる一方、プレミレは兄弟であると見なされています。

明白に、個人的な判断を通して、ひとりひとりの信条主義者は独断的に、クリスチャンだと見なされるために人はどの歴史的、信条的正統性を信じなければなら ないか選り好みをします。非正統的/異端的な人々(信条に矛盾しているプレミレ)との一致のために、信条主義者は超信条主義の独断的原則から自分たちを解 放しました。

彼らが自分たちで作った非理性的標準によって、プレミレに対する寛容さが「危険な自由主義、神学的相対主義」となります。彼らは信条的異端(プレミレ)に 歴史的教会の信条を犠牲にして、「明るい笑顔と温かい握手」を差し出します。彼ら自身の標準によると、信条主義者は「自由主義者」です。

そして、どのような標準によっても、聖書を無効にしている、人間の作っ た法則と彼らが判断するときのダブル・スタンダードは偽善を表わしています。


結論

プレテリズム対信条主義の議論において私たちが取ることのできる2つの方針があります。歴史的教会は2000年近くも終末論において間違った教えをしてき たというのは、まったくあり得ないと考えるか、そうであった可能性があると認めるかです。

もし私たちが可能性を否定するならば、私たちは独断的な人が作ったルール(信条は重大な間違いを含むことはあり得ないという)の上に自分たちの立場を築い ています。その結果として、私たちはキリストにある兄弟たちを主観的な判断によって非難するのです。ですから、プレテリストがまるで反聖書的な異端である かのように、肉的な原則という砂の土台の上に立って除名をするのです。

しかし、終末論的信条の間違いの可能性を認めるなら、取るべき方向はたったひとつだけしかありません。それは、プレテリズムに賛成するか、反対するかを判 断するために聖書をしっかりと調べることです。

超信条主義の道はパリサイ人的であり、人を中心とした苦々しいものです。しかし教会が致命的ではない終末論の誤りの中にあったかどうかを知るために聖書を 調 べることは、正しい判断のための誉れあるやり方です。それは神中心であり、道理にかなったことです。

 

 


 



訳者注※
使徒信条、ニカイア信条、カルケドン信条、アタナシオス信条の四つをエキュメニ カル信条(世界信条・世界教会信条)と言います。






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