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三つの社会制度

 (5)〜(7)

 

By 原 雅(はら まさし)

 

5)国家、教会、家庭の相互関係

まず、下記の図をごらんください。これは Gary DeMarという人のGod and Government という本に書かれている図に少し手を加えたものです。今まで述べさせていただいたことを整理するとこのようになります。

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(外部からの支配を受けず、自律的であり、かつ無限の統治権を持つ)

           イザヤ 9:6-7

               ・             

           神の御言葉---聖書

               契約

               ┃

       人間と人間による社会制度

    (神に依存し、神から依託された限定的な統治権を持つ)

        コロサイ1:16-17  ローマ13:1-4

              

  家庭           教会         国家   

(自己統治)       (自己統治)      (自己統治)

神の主権のもとに     神の主権のもとに    神の主権のもとに

自己統治する       自己統治する      自己統治する

個人によって        個人によって      個人によって

構成される         構成される       構成される

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家庭も教会も国家も神との契約関係にあり、それゆえ、それぞれ社会制度において、構成員は神からと同時にそれぞれの属する社会制度において、契約的に取り扱われます。ですから、たとえば、それぞれの組織において契約の五特質が反映されています。

例えば、家庭において、家長は家長としての責任を逐いつつ、家庭を治めます。家長は子供達を教え導きます。ときには、おしりをたたいたりして子供達に罰も与えるわけです。

教会においては神の御言葉に仕える牧師、長老、執事といった職務を遂行する人々が教会を神に従いつつ、(それぞれが個人的に神との契約を守りつつ)人々を導きます。教会においてもたとえば、教会戒規の施行などの契約的に信仰者が取り扱われることもあります。

国家においては、為政者がたてられ、さまざまな組織がたてられています。国家には法をやぶるもを罰する権限が与えられています。

さて、聖書においては、家庭、教会、国家はそれぞれ固有の法的権限(jurisdiciton)をもっています。しかし、それらは限定されたものです。この法的権限はそれぞれ質的に異なる性質をもっています。

たとえば、ある家庭の家長は、他人の家庭に入り込んでその家庭を支配する権限をもちません。また国家が家長のかわりに家庭を治めることもなければ、国家が子供を生み育てることもありません。また家庭が教会を支配することもありません。教会が国家を支配することもありませんし、逆に国家が教会を支配することもありません。

むしろこの三つの社会制度はそれぞれが補いあい助け合うようにたてられています。国家は法を守り実行することによって、家庭、教会を保護し、教会は聖書の教えを家庭、国家に教えることによって、家庭、国家の徳を高める働きをします。そして、家庭は例えば次の世代をになう子供たちを育てることにより教会、国家に貢献することになるわけです。

しかし、くりかえしますように、この三つの社会制度は神に従うことにおいて一致していますがそれぞれが固有の権威を神から与えられているのです。

つまり、一と多がこのようにして調和しているわけです。

以上が聖書に示されている社会制度の青写真の概観です。

 

6)政教分離について

さて、政教分離とは国家と教会の分離を意味します。

サウルが罪に定められたのはこの原則をやぶったからでした。サウルに対しては国家の長としての権限および限界が定められていたにもかかわらず、彼はセルフコントロールができずに教会(いけにえを捧げるという)の権限にまで手をのばしたことが神に裁かれたのでした。 

国家と教会が分離しなければどちらも腐敗してしまうのは、歴史上に存在する数多くの例がしめすとおりです。そう言うなかから教会が国家の暴力に加担するようなことが起きてきます。もし国家が暴走して たとえば、侵略なり、ユダヤ人虐殺なりをしようとするならば、教会の使命は神の教えに反するこれらの行為を 神の御言葉を説いて、全力をもって阻むことなのです。

そう言う事例も少なからずあることはありますが、多くの場合、教職者や信徒が殺されたり投獄されたりして、国家は暴走をつづけます。そうすると、国家は最終的に神にさばかれて、破たんしたり、滅亡したりするのです。もし教会がその職務をおこたれば、教会も神に裁かれてしまいます。そのさばきはすぐにくるかも知れないし、長い時間をかけてその裁きがなされることもあります。 聖書はこう書かれています。

裁きは神の家より始まる(I ペテロ4:17)」

ローマ帝国がキリスト教を国教とした際にも政教分離は行われませんでした。なぜかと言いますと、非常に乱暴な言い方ではありますが、やはり当時の教会の神学が不備であったと言わざるを得ません。

たとえば、キリスト者は一生かかって聖書を学びます。そして、聖書を学ぶには人生はあまりにも短すぎます。実はキリスト教会も もう2000年以上聖書を学んでいるのです。まだ、その学びは完成していません。 数えきれない程の失敗をして そこから学んで 少しずつ神学が進歩していきます。 いまも発展途上なのです。

例えば「神は三位一体であられる」ということを皆がはっきりと理解するまでに約400年かかり、「人は信仰によって義とせられる」という聖書の教えをみんながはっきりと理解するまでに1500年かかりました。 

ローマ帝国における失敗の結果は現在に至まで影響をおよぼしています。ローマ教会やヨーロッパ諸国の国教会のシステムは今だに問題を抱えています。

ヨーロッパでの失敗があったのでアメリカは国教会を持たなかっのです。(アメリカは人間中心主義という別の問題を抱えてしまいましたが)

政教分離についての理解が進んだのもキリスト教の歴史においては極めて最近のことなのです。それを理解するまでに多くの失敗がありました。

確認しておかなければならないことがあります。それは政教分離とは宗教と政治の分離なのではなくて、教会と政治の分離であるということです。すべての人は宗教的です。「自分は無神論である」というひとも「無神論」という宗教を信じています。すべての人は創造者なる神の前に倫理的な存在なのです。すなわち創造者なる神に反逆するのか、従うのかのどちらかになります。

同じようにすべての社会制度は必然的に宗教的なのです。宗教色を排除してもそれは人間中心主義(ヒューマニズム)というこれまた一つの宗教が残ってしまいます。。 人間中心主義は人間を究極の存在とし、人間を神とする宗教です。 こういうわけで、すべての国家は宗教的にならざるを得ません。どの宗

教なのかということだけなのです。ですから政教分離とは国家が宗教と分離することなのではなくて、国家が教会と分離することなのです。

 

7)むすび

すべての社会制度は創造者なる神の主権的支配のもとにあることが聖書にかかれています。

創造者なる神は無限、永遠、不変であられます。

無限であるゆえに唯一の神なのです。また神はすべてを主権的に支配しておられます。

神に従うのでもなく、神に反逆するのでもないといった中立の立場は存在しません。

Robert Thoburn という教育者は次のように述べています。

「中立の立場が存在するなどというのは空想にすぎない。.... 中立の立場とか中立領域などというものは存在しない。 全ての分野/領域は(創造者にして主権者である)神の関与と支配のもとにあり、それゆえ、神の関与と支配の及ばない分野/領域などというものは存在しない。 もし中立領域が存在することを認めるならば、それは、神が全宇宙のほんの一部に閉じ込められていると主張することを意味するのである。」Robert Thoburn, The Children Trap  (Ft. Worth Texas: Dominion Press, 1986), p. 82

こういうわけで、キリスト教的世界観か非キリスト教的世界観かの 二つの世界観しか存在しないことになります。現代社会の混迷の原因は絶対的存在である創造主なる神を否定し、その結果として、すべての価値基準を相対的にとらえてしまう相対主義が広がってしまったことにあります。倫理も道徳も相対的なものとなってしまったので、いまや価値判断の基準がなくなってしまっています。

この混迷の状況は単に伝統的価値観と呼ばれているものに戻っても解決しません。というのは伝統的価値観もしょせんは人間のつくりだしたものだからです。

創造者なる神の御言葉のみが不変であり、普遍なのです。 聖書にはすべての分野における解決が示されています。 そこに、わたしたちの進むべき道が示されています。

わたしたちは、創造主なる神につくられた被造物にすぎません。神にいい逆らうことは許されていないのです。

ああ人よ、神にいい逆らうあなたは何者なのか。つくられた者がつくった者に対して、『なぜ、あなたは私をこのようにつくったのか?』といえるだろうか。陶器を作る者は、同じ土のかたまりを 尊い目的に用いる器にも、賤しい目的に用いる器にもする権能をもっていないのだろうか。」(ローマ 9章20-21節)

すべての人は前提によって生きています。

R. J. Rushdoony という神学者は次のように述べています。

「もし人が自分の前提に忠実に論理的であるならば、例えばもし仏陀の教えに従い、無(nothingness)という前提から出発するならば、彼は無に終わる。 しかし人間が論理的であることは稀である。(創造者なる神を)信じないという前提に忠実であるならば、それは何も知ることができないという結論にいきつくのである。

ところが罪人はこれを認めない。 彼はこう主張するのである。すなわち 『神に関することや神を指し示す状況に関してだけは何も知ることができない』と。 そして、彼は神に関すること以外については、いつも(創造者なる)神のみが与えることのできる宇宙を当たり前の前提としているのである。そうしていながら、その宇宙をつくった神を否定するのである。.......

もし人が事実のみから出発するならば、すべての事実を徹底的に網羅的に一つ残らず調べかつ極めない限りなにも知ることはできないのである。」R. J. Rushdoony, "The Quest for Common Ground" in Gary North(ed.), Foundation of Christian Scholarship (Vallecito, California: Ross House Books 1979), p 33

私達はリンゴが木から地面に向かって落ちることを当たり前と考えています。この「当たり前と考えるということ」が前提なのです。 もし事実を調べ確かめ検証することから真理にいたらなければならないと主張するならば、世界中のすべてのリンゴの木を調べ尽くさなければならないのです。そうしない限り「リンゴが木から地面に向かって落ちる」と断言することはできません。こういうことをしていると学問は成立しません。つまり私達は知識を得ることができないのです。

創造者なる神がすべてをつくり、今もなお支配しておられるという前提がないかぎり、わたしたちは、何もできません。 この前提なしに私達は生きていくことは不可能です。

罪人が創造者なる神を否定することは、実は創造者なる神が存在することを認めているからなのです。存在しないものを否定することはできません。

聖書にはこのように書かれています。

神の怒りは、不義をもって真理を阻む人々のもろもろの不敬虔と不正に対して天から啓示されているからである。 なぜなら、神について知りうるべきことは彼等に明らかであるからだ。神がこれを彼等に示されたのである。なぜなら神の、目にみえない属性、すなわち永遠の力と神性は 世界が創造されてから 被造物において はっきりと認められ理解されるがゆえに、彼等が言い逃れることはできないのである。」(ローマ1章18節-20節)

以上、社会制度について、聖書に示されている世界観にもとづいて、短く考察をしてみました。

これを理想論として片付けるべきではありません。 

聖書において 創造主であられる神は個人、家庭、教会、社会が神に従うことを命じています。創造主なる神の言葉の真理を前提としないかぎり、私達は何もできないのです。私達ひとりひとりの個人の人生において、家庭において、教会において、国家において、その他もろもろの組織において、主権者なる神が指し示す基準がなくなってしまえば、私達の前には荒廃と滅亡がもたらされるだけなのです。創造主なる神なき社会は死と滅亡に向かいます。そして、今まさに、この現代において、私達は社会が創造主なる神に反逆し、死と滅亡の道に向かっていこうとするのを見ています。

創造主にして絶対主権者なる生ける唯一のまことの神はかつて、モーセをとおしてイスラエルの民に対して次のように命ぜられました。 そして、この命令は現代に生きる私たちにも与えられているのです。

 

見よ、我、今日(きょう)、命と幸い および 死と災いを 汝の前におけり。すなわち、我、今日 汝(なんじ)にむかいて汝の神 主を愛し、その道に歩み、その戒めと律法(おきて)を守ることを命ずるなり。 

しかなさば、汝 生きながらえてその数多くならん。 また汝の神 主、 汝がゆきて、得るところの地にて汝を祝福(めぐみ)給うべし。 

されど、汝もし心をひるがえして、聞き従わず、誘(いざな)われて他の神々を拝みまたこれに仕えなば、我、今日、汝らに告ぐ。汝らは必ず滅びん。..............

我 今日、天と地を呼びて証(あかし)となす。 我は生命(いのち)と死  および  祝福(めぐみ)と呪詛(のろい)を汝らの前に置けり。

汝、生命(いのち)を選ぶべし。 

しかせば、汝と汝の子孫 生存(いきながら)うることを得ん。(申命記 30章15節-19節)」

 

参考文献

DeMar, Gary. God and Government Vol. I . Atlanta, Georgia: American Vision Inc. , 1990

DeMar, Gary. Ruler of The Nations. Ft. Worth, Texas: Dominion Press, 1987

North, Gary. Liberating Planet Earth. Ft. Worth, Texas: Dominion Press, 1987

North, Gary. The Dominion Covenant: Genesis. Tyler, Texas: Institutes of Christian Economics, [1982]1987

North, Gary. Tools of Dominion. Tyler, Texas: Institutes of Christian Economics, [1990]1997

Rushdoony, Rousas John.  By What Standard? Tyler, Texas: Thoburn Press, [1958] 1983

Rushdoony, Rousas John. Systematic Theology in 2 volumes. Vallecito, California: Ross House Books, 1994

Rushdoony, Rousas John. The Institutes of Biblical Law. The Presbyterian and Reformed Publishing Company, 1973.

Rushdoony, Rousas John. The One and The Many. Fairfax, Virginia: Thoburn Press,[1971]1978

Rushdoony, Rousas John. This Independent Republic. Fairfax, Virginia: Thoburn Press, [1964]1978

Sutton, Ray. That You May Prosper. Tyler, Texas: Institutes of Christian Economics, 1987

Thoburn, Robert. The Children Trap. Ft. Worth, Texas: Dominion Press, 1986

 

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