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三つの社会制度

 (4)

 

By 原 雅(はら まさし)

 

4)統治(治めること/Government)

ここで統治(治めること/government)という概念をまず説明しなければなりません。治めるとか支配するとか言う言葉を聞くとまず他者を治めたり支配したりすることを思い浮かべがちですが、聖書ではまず自分自身を治め、自分自身を支配することが命ぜられています。どのようにして、自分自身を治め、支配するかといえば、それは聖書にしめされている、創造者である神の御言葉に従うことによってなのです。ひとりひとりの個人が神に従うことによって、自らを治めるならば家庭も神に従うようになり、教会も、国家も神に従うようになります。ここで大切なことは、聖書によるならば、統治は必ず個人のレベルからはじまるのであって、国家のレベルから始まるのではないということです。国家のレベルから統治が始まるならばそれは、しばしば強制をともなう圧政になってしまいがちなのです。

現代社会では統治(government)というと政治のことをさしてしまいますが(現代の意味でのGovernmentは、もともとはCivil government国家統治と呼ばれていました)聖書的には、家庭、教会、国家のそれぞれの領域において、統治が行われるとしています。この統治と言う意味には、先に述べましたように、「まず自らを統治すること」と(国家も教会も家庭もです。)「神に仕え他者に仕える」という大切な概念が含まれています。(マルコ10章42節-45節)

 

4-1自己および家庭における統治(Self-government and Family Government)

この統治はどこから出発するかと申しますと、実は、個人が聖書の言葉に従い神に仕え自らを治めることから出発します。(自己統治Self government)自らを治めることが良くできる人つまりセルフコントロールができる人を、私達は大人だといいます。その意味で私達はまだ大人になっていない面がかなりあるわけです。(ですから、個人が自らを治めることができない程度があまりにもひどいと、かわりに国家などの社会制度が個人を規制しなければならなくなってきます。)

次に神は結婚という制度をたてられました。この制度において、神によってたてられた結婚の契約に入れられた男女が聖書の言葉に従い神に仕え自己統治をするべく努力し、家庭を築きあげていきます。ですから、キリスト者の家庭で例えば夫婦喧嘩がおこれば、まず、両者はまず聖書に戻って問題の解決を求めます。この家庭と言う制度においては聖書ははっきりと父親の権限を規定します。特に聖書においては、父親は家庭の構成員に仕えることで家庭を治めることがすすめられています。前にも述べたように、家庭の各構成員が聖書の神の御言葉に従う時に家庭における一と多が可能となります。

 

4-2 教会における統治(Ecclesiastical gorvernment)

教会の持つ最も重要な使命は福音の宣教です。教会はその土台をイエス・キリストに対する信仰告白においています。教会はイエス・キリスト御自身によってたてあげられます。本来、教会は何らかの政治権力によって立てあげられるものではありません。(マタイ18:20)

神は信仰者を集め、そこに教会が神によってたてられます。教会は神との契約に入れられたキリスト者によってなりたっています。教会は神との契約のしるしである、バプテスマと聖餐式をとりおこない、そして、聖書の真理を保ち、真理の柱、真理の土台となります。(I テモテ3:15)そして、教会は家庭、国家に対して聖書を教える立場にあります。

もう一つ教会の重要な使命は福祉にあります。19世紀までこの分野はほとんど教会の独壇場であったのです。たとえば、むかしは病院も教会が本来運営しておりました。(英語の「病院」と言う言葉は「もてなす」問いう言葉からきています)学校も教会が運営しておりました。

実は聖書において、国家は福祉に関与しません。国家が福祉の主役になったのは、歴史上ではごく最近のことであり、国家が福祉に関わることが、現代社会において、いろいろと問題になることがあります。

教会には牧師、長老、執事といった職務がありますが、これらは、神によって権威づけられています。彼等は御言葉をとおして、福祉のわざをとおして、神の民に仕える人々です。

教会においては、信徒による民主政治(Democracy)が行われるわけでもなければ、指導者たちによる専制政治がおこなわれるわけでもありません。教会ではキリストによる政治(Christocracy/Theocracy)が行わます。ここにも一と多の調和があります。

いいかえるならば、聖書による法治政治がなされます。その時に始めて教会内の一と多の調和が可能になります。 人は全て神の御言葉の前に平等であり、御言葉がすべての基準となります。

これは、近代社会における法治主義につながるものでした。

 

 

4-3 国家における統治(Civil government)

国家の最大の使命は神によって定められた法律(聖書律法 Biblical Law)、そして、それに基づく、もろもろの法律を 守り、聖書に定められた正義を行うことにあります。(ローマ人への手紙 13章1節-7節)

忘れてはならないことがあります。 それは、国家が究極の権威なのではなく、神が究極の権威であるということなのです。 国家が神に従わなければ神御自身が国家を裁かれます。ですから、国家自身も聖書の言葉に従わなければなりません。国家は救い主には成り得ません。 

イエス・キリストのみが救い主であると聖書は教えています。しかし、もし国民が国家というものに依り頼む心--たとえば、家庭が責任をもってなしとげるべきことや教会が責任をもって成し遂げるべきことを、国家に代わりに代行してもらおうとするような心--をもっていると、国家は国民を支配してしまうことがおきます。家庭も教会も国家もそれぞれに定められた法的権限の範囲を自己支配のもとに守らねばなりません。また、一方で家庭も教会も国家もそれぞれに与えられた権限を責任をもって神に従いつつ実行していかなければならないのです。

ここで、少し法の支配ということについて、述べさせていただきます。

すべての人は神の定めた法のもとに平等であるということは、とても大切なことなのです。一例ですが、たとえば、江戸時代にこの概念は非常に貧弱でありました。たとえば侍が町民を切り捨てても、なかなか殺人罪には問われませんでしたが、逆に町人が侍を切り捨てれば これはすぐに、殺人罪になったわけです。

そうすると、すべては、個人の善意とか良心というものにかかってしまうわけですが、これには限界があります。少し間違うと善意とか良心とかをもった個人そのものが法になってしまいます。そうなると、たとえば絶対王政などにおいても良い王が王であるか悪い王が王であるかによって全てが変わってしまいます。

神の定めた法のもとにすべての人が平等であるということは、いいかえるならば、王の王、主の主であられるイエス・キリストを王とすることになります。 そして、どのような王が国を支配しようと、その王はキリストに従わなければならないし、王がもしキリストに逆らおうとするとき、教会にはそれを戒め、武力ではなく、神の御言葉によって王を裁く権限があたえられています。王でさえも神の御言葉に逆らうならば、創造者なる神御自身が王を裁き給うのです。

ですから、法を守るということはとても大切なことであることがわかります。まず正しい法律でなければならない。正しい法律は、義なる創造者である神にその源があります。

主は岩であり、その御わざは完全である。主の道はことごとく正しい。主は真実の神にして、悪しきところがない。主こそ正義でありまっすぐな方であられる」(申命記 32章4節)

聖書律法には神の御旨が示されています。すべての法律は神のみこころにそってつくられなければなりません。 それは、

心をつくし、思いをつくし、知性をつくして あなたの神である主を愛せよ。これが第一のそして、大切な命令です。  第二の命令もまたこれと同じように大切です。あなた自身のように隣人を愛せよ。すべての律法と預言者とはこの二つの戒めによっているのです。」(マタイ22章47-40節)の言葉を土台とした法律なのです。

こうして、また神の御旨を反映した正しい法律が制定され、みながそれを守るときに 神から契約的な祝福が与えられ、社会は繁栄します。

聖書にはすべての分野のための青写真が示されています。国家のありかたの青写真もまた聖書に記載されています。

 

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三つの社会制度(1)〜(3)

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