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三つの社会制度

 (1)〜(3)

 

By 原 雅(はら まさし)

 

1)契約とは

まず、契約(Covenant)という重要な概念について簡単に見ておくことにいたします。

万物の創造者にして、唯一の生けるまことの三位一体にいまし給う神の言葉である聖書は契約の書です。 創造者である神が人間と契約をむすんでくださったのです。

この契約は神の一方的な恵みにより与えられ、神御自身が憐れみと恵みのうちに、神がこの契約を保持してくださっています。 契約は聖書を理解する上で根本的かつ基本的概念ですのでその性質について手短かに述べます。

まず創造者なる神は4つの契約によって社会を支配しておられます。それは下記の四つです。

1* ひとりひとりの個人との契約

2* 家庭との契約

3* 教会との契約

4* 国家との契約

 

契約の五特質

さて、Ray Suttonという牧師は、その著書That You May Prosper(あなたが栄えるために)において、契約には下記の5特質があると述べています。

1. 神の超越と内在

神は万物の創造者であり、今も万物を御自身の御旨によって支配しておられます。創造者なる神は御自身のお造りになった被造物と区別されます。いいかえると、被造物が神になることはありません。神は御自身の主権によって、すべてを支配しておられます。

同時に神は被造物と共におられます。神は被造物からまったくかけ離れて存在しておられるのではなく、むしろ、万物のすみずみにまで神のみわざがあらわれています。

2. 秩序/権威/上下関係

創造者にして支配者である神は、人間をひとりひとり直接的に支配しておられます。人間は神の命令に従わなければなりません。ひとりひとりの個人は自らのなすことを神に対して申し開きをする責任をおっています。

 「私たちはみな神の審判の座の前にたたなければならない。次のように記されているからである。『主いい給う。我は生くるなり。 すべての膝は我が前にかがみ、すべての舌は神をほめ讃う。』それゆえ、私たちは、ひとりひとり神に対して申し開きをしなければならないのである。」(ローマ 14章10節-12節)

その上で神は社会の秩序をたてられます。ですから全て社会における権威は創造者なる神に依存しています。

3. 法/基準/倫理

創造者である神は、契約を実行していく際に、法的、倫理的な基準を制定されました。それが、聖書の御言葉であり、そして、特に聖書律法(Biblical Law)と呼ばれている法体系において、神は御自身の御旨を示されています。法なくして、契約は存在し得ないのです。そしてまた、神の定めた法はすべての被造物におよんでいます。それゆえ、すべての存在は必然的に倫理的な存在となるのです。

4. 誓約/裁定/祝福と呪い

契約は誓約にもとづいて施行されます。創造者なる神に従い契約をまもるならば契約に定められた祝福が与えられ(申命記28章1節-14節)創造者なる神に反逆し契約を守らなければその契約に定められた呪いと裁きが与えられます。(申命記28章15節-68節)

別な言い方をするならば、創造者なる神は因果律を制定されました。すべての物事に原因と結果があります。創造者なる神がすべてを支配し給うゆえに、この因果関係は決して無作為(random)なものではなく、倫理的な意味をもち、それは究極的に神の栄光をあらわすものとなるのです。 個人も家庭も教会も国家も契約を守れば祝福され、契約をやぶれば裁かれ呪われるのです。

5. 相続/継続性

契約は神の御旨によって継続されます。どんなに時代がかわろうとも、神の言葉も神の契約も変わることがありません。

創造者なる神はこう宣言しておられます。

我を憎む者に向かいては父の罪を子に報いて三代、四代におよぼし、我を愛し我が戒めを守る者には恵みを施して千代にいたるなり。」(申命記5章9-10節)

同時に私たちはどのような時代においても、時が良くても悪くても、創造者なる神との契約を守り続けていかなければならない責任があるのです。

 

2) 聖書に規定されている、三つの社会制度--家庭、教会、国家   

創造者なる神の御言葉である聖書において、社会には三つの社会制度があると規定されています。

それは家庭、教会、国家です。

神は聖書の御言葉により、この三つの社会制度を権威づけておられます。つまりこの三つの社会制度は神によってたてられたものです。 そして、神は聖書の言葉をとおしてこの三つの社会制度を支配しておられます。

これらの三つの社会制度は聖書を神の言葉と信じ神に従い神に仕えるように定められています。

さて、聖書にはこの三つの社会制度が従っていなければならない法的な規定が書かれています。これが、聖書律法(Biblical Law)とよばれている法体系です。キリスト御自身がまず、この聖書律法をつぎのように定義してくださいました。

心をつくし、思いをつくし、知性をつくして あなたの神である主を愛せよ。これが第一のそして、大切な命令です。  第二の命令もまたこれと同じように大切です。あなた自身のように隣人を愛せよ。すべての律法と預言者とはこの二つの戒めによっているのです。」(マタイ22章37-40節)

神がモーセに記させた十戒はこの法体系の大項目とも言えるものであり、その中項目としての数百の判例法があります。 そしてさらに、実生活における具体的な適用例として、箴言があります。

聖書律法を基準にして、この三つの社会制度は神との契約的関係にあります。ですから、この神との契約を守れば祝福があたえられるし、やぶれば神からの裁きがなされます。また、三つの社会制度の相互関係も、それぞれの社会制度内における人間関係も聖書律法を土台にすえた契約関係によって規定されています。

ですから聖書によれば、憲法も商法、民法、刑法といった法体系も聖書律法を土台にすえたものとなるわけです。 また、このことをいいかえるならば、これらの具体的な法律もマタイ22章37-40節の精神を反映したものとなるべきであるということになります。 

 

3)一と多

さて個人と社会制度という問題を考えるにあたって、とても重要なことがあります。それは一と多(The one and the many)と呼ばれている概念であり、これは「存在するということはどのようなことなのであるか」という問題を考える際に避けて通ることのできない概念です。

一と多について考えるためには、まず創造者なる神について学ばなければなりません。

創造者なる神は三位一体の神です。

聖書の教えを簡略にまとめたものとして、ウェストミンスター大教理問答がありますが、まずそこからの引用をいたします。

 

  ひとりの神のほかにも神々があるか。

  ひとりの神がおられるだけであり、それは唯一の生けるまことの神である。

(ウェストミンスター大教理問答 8番)

  神にはいくつの神格があるか。

  神には三つの神格があり、それは父と子と聖霊であり、それぞれは固有の属性をもつことにおいて区別されるが、この三者は唯一のまことの永遠の神であり、本質において同じ神であり、力と栄光において等しい  

(ウェストミンスター大教理問答 9番)

つまり神はひとりであられ(単一性)そして同時に三者(多様性/固有性)であられるということなのです。つまりこの三者は等しい力と権威と栄光を持つ唯一の神(一つ)であり、同時にそれぞれが固有の働きをなし給う(三つ)のです。 

この三位一体の神は万物の創造者であられ、それゆえ、神によってつくられた被造物はこの三位一体の神の存在しておられるありかた(本体論的三位一体Ontological Trinity)を反映することになります。

いいかえると事物の存在様式は神御自身の存在のありかたによっています。

この本体論的三位一体において、単一性(一)も多様性(多)のどちらも究極的であり、この二つは対立することなく、どちらか一方に片寄ることなく、秩序のうちに、互いに調和して、かつ共存する状態にあります。 これを存在論においては一と多(The one and the many)の調和といいます。

したがって、人間の社会のありかたにも一と多は反映されることになります。

たとえば、家庭をみるならば、父親、母親、子供達といったそれぞれの家庭の構成員(多)が一つの家庭(一)を構成します。 それぞれの構成員は個性を持ち、かつ個性をもちながら、互いに愛しあい調和と秩序のうちに一つの家庭をつくりあげています。

また家庭、教会、国家はそれぞれ固有の働きをしますが同時に調和し一つの秩序をつくりあげていくわけです。 

ラグビーなどのスポーツなどでもこれを見ることができます。「ひとりはみんなのために、みんなはひとりのために」という言葉も人間社会における一と多のありかたを言い表わしています。

しかし、一と多が調和することはなかなか、うまくいきません。たとえば、家庭においていわゆる、家庭崩壊ということがおこるとき、これは家庭が多の方向にいってしまっているし、もし、父親が暴君のように家庭を支配してしまい、母親や子供達の個性がまったく押さえ付けられてしまえば、これは家庭が一の方向に片寄ってしまっていることになります。

国会と個人のあり方に目を転じてみるならば、全体主義は一が究極的であるとします。つまり個人は国家のためのみに存在します。  他方で、無政府主義は多が究極的であるとします。この場合、社会秩序は存在しなくなります。

人間の歴史をみますと、極端な多と極端な一をいったりきたりすることが良く見られます。全体主義が崩壊すると、次に無政府状態に基づく社会の混乱がおこり、無政府状態の中から強大な権力を持つ個人があらわれて全体主義を打ち立てるというぐあいにです。 例えば王が暴君としてふるまい、民衆が抑圧されていることが続くと(王にあって一なる全体主義)、次に革命が起こりそして、一時的に混乱状態となり(多である無政府主義)権力闘争などがおこって、またあらたな独裁者が出現する(独裁者にあって一なる全体主義)といった具合にです。

理想的な社会のありかたは、全体主義でもなければ、無政府主義でもありません。

では、一と多の調和はどうしたら達成されるのかといいますと、それは、家庭、教会、国家が創造者なる神の御言葉に従うときに達成されます。

創造者なる神御自身が一と多の調和のうちにいましたもう三位一体の神であられるので、その神の御言葉である聖書に書かれた家庭、教会、国家のあるべき姿も神の意志を反映しています。

言い換えると、聖書に書かれた家庭、教会、国家のあるべき姿に私たちは一と多の調和を見い出すことができるのです。つまり、一と多の調和は聖書の神の言葉に従うときにはじめて達成されます。

そして聖書が規定するこの三つの社会制度は聖書に従うという点で完全に一致していますが、その機能において、異なっています。つまり、家庭、教会、国家はそれぞれ固有の存在価値を持ち、それぞれ固有の機能を持っています。

 

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