「聖書的未来観とは?」
谷口明法
イントロ:
(1)私たちは2000年に入って、すでに「聖書の歴史観・時間に対する考え」というものを見ました。クリスチャンはクリスチャンでない人の多くが考えているような「循環した歴史観」・「時間はめぐりめぐっていくという考え」を持ちません。なぜなら聖書は「歴史・時間」には始まりがあり、終わりがあると教えているからであると学びました。
(2)さて、歴史の始まりとは神による天地創造であり、歴史の終わりとは最後の審判といわれるものです。しかし、それではその間はどのように進んでいくのでしょうか?最後の審判へと向かっていく「時」はどのように進んでいくのでしょうか?
(3)未来観は「これから歴史はどうなるのか?将来はどうなるのか?」ということを考える訳ですが、そのことは私たちの未来を左右するだけではなく、今・現在の生き方を左右するのです。またこの未来観のことを神学用語で終末論とも呼びます。神学者のラッシュドゥニーという人は「終末論は最後の事柄というだけではなく、初めの事柄でもある。」と言いました。それはまさしく、「未来観・終末論は今を決定する」ということです。
(4)クレイというデボーション雑誌があり、ここにおられる何名かの人たちは毎日(願わくば)やっているのですが、これはハーベスト・タイムの中川健一先生が作っておられます。中川先生は私の尊敬する先生のひとりですが、だからと言って中川先生の言われることがすべて正しいということではありません。
(5)クレイの中で先週から今日まで5回に渡って「終わりの日に関する教え」として中川先生が聖書を解説しておられますが、もう一度聖書と照らし合わせながら、聖書的未来観、聖書的終末論を考えたいと思います。
本論:
(1)中川先生は「その1」の中で先ず、「世の終わりがいつ来るかは、だれにもわかりません。それは恵みでもあります。わからないがゆえに、私たちは、いつ世の終わりが来ても大丈夫という生き方を心がけるのです。」と言われます。このことに関して私は大賛成です。
(2)ところが読み進めると、終わりの日の前兆として・にせキリストの出現・民族紛争の多発・大地震、疫病、ききんの3点を出し、「このような前兆を眺めてくると、伝道のための時は、あまり残されていないように感じます。」と言われるのです。
(3)最初には「世の終わり・終末」がいつかだれも分からないと言いながら、「伝道のための時間があまり残されていない」と言われます。みなさんがこのことばを読んだり、聞いたりしたらこれからの時間はどれくらい残されていると思われるでしょうか?100年ですか?50年ですか?25年ですか?10年ですか?5年ですか?私たちがこの歴史はあと100年以上続くのか、あと4、5年しかないのかという未来に対する見方の違いで、今日、現在の生き方が変わってしまいます。
(4)歴史が100年以上続くとしたら、イエス様はまだ100年以上戻って来られないとしたら、あなたは今日何をするでしょうか?また、ここ数年の間にイエス様が再臨されるとしたらあなたは今日何をするでしょうか?
ここ数年で歴史が終わるのだとしたら中川先生が言われるように「伝道のための時間はあまり残されていない」だから、クリスチャンにとって最も大事なのは「伝道だけ」ということになります。
(5)逆に歴史はまだ100年以上も続くとしたら、私たちクリスチャンはもちろん伝道もするでしょうが、子どもたちを聖書によって教育し、次の世代を育てたり、社会をどのように良くしていくかということを考えたり、実行したり、仕事で神の栄光を現わそうとしたりするのではないでしょうか?
(6)それでは聖書はほんとうに伝道の時間は残り少ないと教えているのでしょうか?中川先生が取り上げておられる聖書の箇所を見て行きましょう。ルカによる福音書21章5節〜36節(新改訳聖書)です。
ルカ 21:5 宮がすばらしい石や奉納物で飾ってあると話していた人々があった。するとイエスはこう言われた。
ルカ 21:6 「あなたがたの見ているこれらの物について言えば、石がくずされずに積まれたまま残ることのない日がやって来ます。」
ルカ 21:7 彼らは、イエスに質問して言った。「先生。それでは、これらのことは、いつ起こるのでしょう。これらのことが起こるときは、どんな前兆があるのでしょう。」
ルカ 21:8 イエスは言われた。「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大ぜい現われ、『私がそれだ。』とか『時は近づいた。』とか言います。そんな人々のあとについて行ってはなりません。
ルカ 21:9 戦争や暴動のことを聞いても、こわがってはいけません。それは、初めに必ず起こることです。だが、終わりは、すぐには来ません。」
ルカ 21:10 それから、イエスは彼らに言われた。「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、
ルカ 21:11 大地震があり、方々に疫病やききんが起こり、恐ろしいことや天からのすさまじい前兆が現われます。
ルカ 21:12 しかし、これらのすべてのことの前に、人々はあなたがたを捕えて迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために、あなたがたを王たちや総督たちの前に引き出すでしょう。
ルカ 21:13 それはあなたがたのあかしをする機会となります。
ルカ 21:14 それで、どう弁明するかは、あらかじめ考えないことに、心を定めておきなさい。
ルカ 21:15 どんな反対者も、反論もできず、反証もできないようなことばと知恵を、わたしがあなたがたに与えます。
ルカ 21:16 しかしあなたがたは、両親、兄弟、親族、友人たちにまで裏切られます。中には殺される者もあり、
ルカ 21:17 わたしの名のために、みなの者に憎まれます。
ルカ 21:18 しかし、あなたがたの髪の毛一筋も失われることはありません。
ルカ 21:19 あなたがたは、忍耐によって、自分のいのちを勝ち取ることができます。
ルカ 21:20 しかし、エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、そのときには、その滅亡が近づいたことを悟りなさい。
ルカ 21:21 そのとき、ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。都の中にいる人々は、そこから立ちのきなさい。いなかにいる者たちは、都にはいってはいけません。
ルカ 21:22 これは、書かれているすべてのことが成就する報復の日だからです。
ルカ 21:23 その日、悲惨なのは身重の女と乳飲み子を持つ女です。この地に大きな苦難が臨み、この民に御怒りが臨むからです。
ルカ 21:24 人々は、剣の刃に倒れ、捕虜となってあらゆる国に連れて行かれ、異邦人の時の終わるまで、エルサレムは異邦人に踏み荒らされます。
ルカ 21:25 そして、日と月と星には、前兆が現われ、地上では、諸国の民が、海と波が荒れどよめくために不安に陥って悩み、
ルカ 21:26 人々は、その住むすべての所を襲おうとしていることを予想して、恐ろしさのあまり気を失います。天の万象が揺り動かされるからです。
ルカ 21:27 そのとき、人々は、人の子が力と輝かしい栄光を帯びて雲に乗って来るのを見るのです。
ルカ 21:28 これらのことが起こり始めたなら、からだをまっすぐにし、頭を上に上げなさい。贖いが近づいたのです。」
ルカ 21:29 それからイエスは、人々にたとえを話された。「いちじくの木や、すべての木を見なさい。
ルカ 21:30 木の芽が出ると、それを見て夏の近いことがわかります。
ルカ 21:31 そのように、これらのことが起こるのを見たら、神の国は近いと知りなさい。
ルカ 21:32 まことに、あなたがたに告げます。すべてのことが起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません。
ルカ 21:33 この天地は滅びます。しかし、わたしのことばは決して滅びることがありません。
ルカ 21:34 あなたがたの心が、放蕩や深酒やこの世の煩いのために沈み込んでいるところに、その日がわなのように、突然あなたがたに臨むことのないように、よく気をつけていなさい。
ルカ 21:35 その日は、全地の表に住むすべての人に臨むからです。
ルカ 21:36 しかし、あなたがたは、やがて起ころうとしているこれらすべてのことからのがれ、人の子の前に立つことができるように、いつも油断せずに祈っていなさい。」
(7)さて、ここで問題となるのはイエス様はいつのことを言っておられるのだろうかということです。6節で「あなたがたの見ているこれらの物(すなわち神殿)について言えば、石がくずされずに積まれたまま残ることのない日がやってきます。」とイエス様が言われました。「人々が感嘆するエルサレムの神殿の石がくずされる時」があると言われるのです。これは世の終わりの時なのでしょうか?中川先生はじめ多くのクリスチャンがこれは紀元70年のエルサレム崩壊と世の終わりを同列においた二重預言だと解釈します。
(8)二重預言だと結論付けるのはイエス様が8節〜24節まで語っておられるのは紀元70年の出来事のようだが、25節〜27節はそうではあり得ないと考えるからです。「日と月と星に前兆が現れる」、「天の万象が揺り動かされる」、「人々は、人の子が力と輝かしい栄光を帯びて雲に乗って来るのを見る」はどのように考えても世の終わりの出来事だと信じているからです。
(9)いつも私が言うように聖書は聖書によって解釈する、理解するというのが大切です。私たちの気持ちや世界の情勢などによって聖書を解釈してはいけません。ですから、世の終わりと神殿の崩壊が同列に語られ、二重預言がなされているのだという勝手な憶測はだめなのです。聖書には二重預言があるということを証明する箇所はありません。
(10)もう一度ルカによる福音書の21章を見てみたいと思います。先ず、これらの事柄はイエス様が目の前にいる弟子たち語っておられるということです。13節で「あなたがた」、16節で「あなたがた」、18節でも「あなたがた」、19節にも「あなたがた」とイエス様は言っておられます。また32節では、「まことにあなたがたに告げます」、36節では「しかし、あなたがたは、やがて起ころうとしているこれらすべてのことからのがれ、人の子の前に立つことができるように、いつも油断せずに祈っていなさい。」とまで言われるのです。ここまで言われながら、「いやあ、これは二重預言でね。このことを一番言いたいのは世の終わりに望んでいる弟子たちになんだよ。」とイエス様が無言の内に言おうとしておられると考えられるでしょうか?
(11)そこで次の疑問が起こってきます。「それでは、25節〜27節は紀元70年に起こったのですか?」という問題です。答えから言いましょう。「その通り、起こったのです。」聖書は聖書によって解釈すると言ってますが、旧約聖書には国々に対する神の裁きを天の万象が揺り動かされたという表現を用いて語っています。少し例を見てみましょう。イザヤ書34章ではエドムという国への神の裁きが書かれています。4節に「天の万象は朽ち果て、天は巻き物のように巻かれる。その万象は枯れ落ちる。」とあります。エドムが裁かれた時天変地異が起こったのでしょうか?そうではありません。これはエドムという国の権威の失墜と崩壊の象徴なのです。イザヤ書
13章ではバビロンという国の裁きが描かれていますが、ここでは10節に「天の星、天のオリオン座は光を放たず、太陽は日の出から暗く、月も光を放たない。」と同じような表現を用いています。イザヤ書19章1節ではエジプトへの裁きが語られていますが、「見よ。主は早い雲に乗ってエジプトに来る。」とあります。
(12)これらのことは現実に起こったのでしょうか。裁きは現実に起こりました。しかし天変地異は起こっていないのです。そして同じようにルカ21章のイエス様の預言も紀元70年のエルサレム崩壊、イスラエルへの裁きによって成就したのです。
(13)それではルカ21章が世の終わりの出来事でないなら、いったい聖書はこれからのこと、未来に対してどのようなことを言っているのでしょうか?イザヤ2章1〜4節を読んでみましょう。
イザヤ 2:1 アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて示された先見のことば。
イザヤ 2:2 終わりの日に、主の家の山は、山々の頂に堅く立ち、丘々よりもそびえ立ち、すべての国々がそこに流れて来る。
イザヤ 2:3 多くの民が来て言う。「さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を、私たちに教えてくださる。私たちはその小道を歩もう。」それは、シオンからみおしえが出、エルサレムから主のことばが出るからだ。
イザヤ 2:4 主は国々の間をさばき、多くの国々の民に、判決を下す。彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない。
(14)ここでは終わりの日、イエス様が再び来られる前に「・神の民であるクリスチャンが高く上げられる。・神のみことばがシオン(すなわち教会)から出る。・人々が神のことばである聖書を学ぶために来る。・その結果世界規模の平和が訪れる。」というのです。
(15)イザヤ書65章も見てみましょう。
イザヤ 65:17 見よ。まことにわたしは新しい天と新しい地を創造する。先の事は思い出されず、心に上ることもない。
イザヤ 65:18 だから、わたしの創造するものを、いついつまでも楽しみ喜べ。見よ。わたしはエルサレムを創造して喜びとし、その民を楽しみとする。
イザヤ 65:19 わたしはエルサレムを喜び、わたしの民を楽しむ。そこにはもう、泣き声も叫び声も聞かれない。
イザヤ 65:20 そこにはもう、数日しか生きない乳飲み子も、寿命の満ちない老人もない。百歳で死ぬ者は若かったとされ、百歳にならないで死ぬ者は、のろわれた者とされる。
イザヤ 65:21 彼らは家を建てて住み、ぶどう畑を作って、その実を食べる。
イザヤ 65:22 彼らが建てて他人が住むことはなく、彼らが植えて他人が食べることはない。わたしの民の寿命は、木の寿命に等しく、わたしの選んだ者は、自分の手で作った物を存分に用いることができるからだ。
イザヤ 65:23 彼らはむだに労することもなく、子を産んで、突然その子が死ぬこともない。彼らは主に祝福された者のすえであり、その子孫たちは彼らとともにいるからだ。
イザヤ 65:24 彼らが呼ばないうちに、わたしは答え、彼らがまだ語っているうちに、わたしは聞く。
イザヤ 65:25 狼と子羊は共に草をはみ、獅子は牛のように、わらを食べ、蛇は、ちりをその食べ物とし、わたしの聖なる山のどこにおいても、そこなわれることなく、滅ぼされることもない。」と主は仰せられる。
17節からです。ここは「新しい天と新しい地」とありますが、これは天国のことではないと分かります。なぜなら、その後に「百才で死ぬ者は若かったとされ、百才にならないで死ぬ者は、呪われた者とされる。」とあるからです。天国ではだれももう死にませんから、これは地上のことであると分かります。ですからこのようなすばらしい祝福、世界的な平和の時代がやって来ると聖書は教えています。
結論:
(1)それでは、そのような未来が待っている私たちはどのように今を生きればいいのでしょうか?そのスタートはクリスチャンが神のみことば、聖書に忠実に生きることによることが分かります。もう一度イザヤ2章3節を読みます。「多くの民が来て言う。『さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を、私たちに教えてくださる。私たちはその小道を歩もう。』それは、シオンからみおしえが出、エルサレムから主のことばが出るからだ。」
(2)聖書の預言が成就するために、神の祝福が歴史に現わされていくために、まだまだ神は時間を私たちクリスチャンに与えておられるようです。だからこそ、私たちはいつ主イエス様が来られてもよいように、神とそのみことばに忠実に歩みましょう。
(3)子どもたちを教え、イエス様にあってはすばらしい未来があることを知らせましょう。そして私たちのなせる分野で神の栄光を現わして生きて行きましょう。