第1特質:全的堕落・無能力
カルヴィン主義の五特質のうちの第一特質を考えるにあたって、先ず我らが銘記しなければならないことは、この教理体系が救済論における最も根本的かつ基本的な事実から始まっているということである。すなわち、「人間がどのような状態にあり、又どのような状態から人間が救われるのか?」ということに対する正確な評価・認識である。もし我々が罪について、不十分かつ浅薄な認識しか持っていないのならば、罪人が救われるにあたっての手段についても不十分な認識・理解しか我々は得ることが出来ない。もし、エデンの園において、人間がすべての面において堕落した存在となっていないのであれば、人間の救いは、ある部分は人間の能力に起因し、残りの部分は神に起因するということになるであろう。この問題についてJ.C.ライル(1816〜1910年)は言う。「誤謬そして誤れる教理の殆どが人間性の堕落と腐敗に対する誤った評価と認識に基づいたものである。良い治療を受けて病気が治った人でも、自分がかってどのような病気であったかについて知らなければ、なされた治療がどんなにすばらしいものであったかを知ることは出来ない。同様に人間の堕落・腐敗に対する正しい評価・認識がなければ、罪による堕落・腐敗から人間が救われることが、どんなにすばらしいことなのであるかを知ることは、出来ないのである。」これは何と当を得た発言であろう!人間の堕落・腐敗についての十分な認識の上に立って、宗教改革期の神学者達や改革派神学をドルト会議においてカルヴィン主義の五特質としてまとめあげた人々は、人間の状態について聖書に堅く根ざした神学的結論を提示したのである。すなわち、、「ありのままの人間は全く腐敗・堕落した状態にあり、従って人間は自己の救いに際して、全く無能力である。それ故、人間は自らの力で救いを獲得することも出来なければ、救いにおいて何らかの貢献をすることも出来ない。」彼らはこのように宣言したのである。
カルヴィン主義における「全的堕落」という言葉は、「全ての人間が邪悪の局限に達している。」ということを意味していない。又、「人間は神の御意志を認めることが出来ない。」というのでもない。あるいは、「人は他人に対して何らの良いことも出来ない。」ということを意味するのでもない。それどころか、全的堕落の状態にあっても、神に対する、うわべだけの見せかけの従順すら人間には可能なのである。そうではなくて、「全的堕落」という言葉は、「人間がエデンの園において堕落した時に、その全ての面において堕落してしまった。」ということを意味しているのである。つまりエデンの園における堕落において、人間の全人格・存在が損なわれたということである。それ以来罪は人間の活動の全ての分野に悪影響を及ぼしているのである。すなわち人間の意志、知恵、理性、理解力、愛情、感情、その他全てが罪によって損なわれているのである。神の御言葉は、この全的堕落の教理に対するいかなる反論をも許さない。全的堕落・無能力の教理の確証となっている多くの聖句のうちのほんの一部を以下にあげる。
◎聖書ははっきりと、人間が生まれながらにして死んだ状態にあると断言する。「それ一人の人によりて罪は世に入り、又罪によりて死は世に入り、すべての人、罪を犯しし故に死はすべての人に及べり。」(ローマ5:12)
◎聖書は人間が罪によって束縛されていることを教えている。「逆らう者をば柔和をもて戒むべし、神あるいは彼らに悔い改むる心を賜いて真理を悟らせ給わん。彼ら一度は悪魔に囚われたれど醒めてその罠をのがれ、神の御心を行なうに至らん。」(2テモテ2:25、26)
◎聖書は人間が盲目であり、耳が聞こえないことを示している。「・・・外の者には、全て譬にて教う。これ『見るとき見ゆとも認めず、聞くとき聞こゆとも悟らず・・・』。」(マルコ4:11、12)
◎聖書は生まれつきに人間は、真の神が教えることを受け入れることが出来ないということを示している。「生まれつきのままなる人は神の御霊のことを受けず、彼には愚かなるものと見ゆればなり。又、これを悟ること能わず、御霊のことは霊によりて弁うべきものなるが故なり。」(1コリント2:14)
◎聖書は我々が本質的に罪深いということを断言している。
(1)我々は生まれながらにして罪ある者である。「見よわれ邪曲のなかに生まれ、罪にありてわが母われを妊みたりき。」(詩篇51:5)
(2)我々は思いと言葉と行ないにおいて常に罪を犯している。「エホバ、人の悪の地に大いなると、その心の思いの全て計るところの常にただ悪しきのみなるを見たまえり。」(創世記6:5)
これがありのままの人間の状態である。されば我らは問う。死者に自分自身を生き返らせることが出来るであろうか?束縛されたる者に自分自身を解放することが出来るであろうか?盲人にものを見ることが出来るであろうか?耳の聞こえない人に音を聞くことが出来るであろうか?神の教えを受け入れることが出来ない者に、自ら自分自身に対して神の教えを教えることが出来るであろうか?本質的に罪なる者に、自己の罪を取り去り、自己を改革することが出来るであろうか?これら全ての問いに対する解答は「否」である!ヨブは問う。「誰か清き物を汚れたる物のうちより出し得る者あらん。」答は「一人もなし」(ヨブ14:4)であった。エレミヤは問う。「エチオピア人その膚を変えうるか、豹はその斑を変えうるか。」そして彼は結論する。「もしこれをなし得ば、悪に慣れたる汝らも善をなし得べし。」(エレミヤ13:23)
「人間は全く堕落している。」ということ、そして「救いを求めたり獲得したりする能力は人間には全く備わっていない。」ということを、神の御言葉は何と明らかに示していることであろう!罪人は墓の中の死せるラザロの如き存在である。罪人は手足を縛られ、体が腐敗し始めている死人の如くである。ラザロの死体に、いかなる生命の徴候もなかった様に、罪に死せる人間の内には、福音を受け入れるいかなる能力も存在しないのである。主は、肉体において、奇蹟を起こしてくださる。神は「咎と罪とによりて死にたる」我らを「甦らせ」てくださるのである。(エペソ2:1〜6)「救いはエホバより出ずるなり。」(ヨナ2:9)救いは、徹頭徹尾、始めから終わり迄、全く、神によってなされるのである。救いは、主なる神より出ずるのである。