カルヴィン主義2

谷口 明法




● 前前回にも言いましたように、ユース・ハーベスト・チャーチは教えにおいては聖書に基づいて保守的、歴史的であり、教会の働きの方法においてはラディカル、リベラルでありたい願っています。残念ながら、多くのキリスト教会が、聖書の霊感を信じなかったり、どのような宗教を信じていても救われると言ったり、信仰においてリベラルになり、方法論において保守的で子どもや若者が近づかない教会になっています。

● すでにお分かりのように、ユース・ハーベスト・チャーチはいろいろな意味において現代のキリスト教会に対するチャレンジなのです。しかし、このチャレンジは自分たちこそ正しいとする傲慢なチャレンジではなく、神のみこころを求めたいと願うへりくだったチャレンジであることを忘れてはいけないと思っています。

● チューリップが表すカルヴィン主義の5特質について学んでいますが、チューリップとは、「T:Total Depravity(全的堕落)」、「U:Unconditional Election(無条件的選び)」、「L:Limited Atonement(限定的贖罪)」、「I:Irresistible Grace(不可抗的恩恵)」、「P:Perseverance of the saints(聖徒の保持と堅忍) 」の英語の頭文字をとったものです。

● すでに第一特質である、「全的堕落」と第二特質である、「無条件的選び」について学びました。

● 私たちは自分で自分を救うことができない、霊的に死んだ状態の存在であり、その堕落はすべての部分に及んでいるのです。エペソ2章1節が「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、」と言いっている通りです。

● そのような私たちは自分で自分を救えないのですから、何の望みもないはずでした。しかし、私たちの成す義の業によってではなく、一方的な神の愛によって永遠の始めから無条件に私たちを選んでくださり、救いに定めてくださったのです。これは「私は選ばれた民、選民だ。」と誇り高ぶるためではなく、「このような者を選んでくださった。」とへりくだるための選びなのです。

● さて、第二のポイントは第三のポイント、特質へと続きます。それが、「限定的贖罪」と言われるものです。ある人の証しを読みましたが、その人はカルヴィン主義に出会ったけれども5つの特質のうちの4つは受け入れることができたが、最後まで第三特質「限定的贖罪」は受け入れることができなかったと告白しています。そのような「限定的贖罪」とは何でしょうか?

● 「贖罪」とは「罪を贖う」ということです。この「贖罪」ということばに「限定的」ということばが付く時、それはいったい何を意味するのでしょうか?

● 難しいことばですが、これは「キリストはだれのために死のうとされたのか?」、「キリストは実際誰の罪の代価を払われたのか?」、「キリストは誰の身代わりになられたのか?」と言う問いに置き換えることができます。歴史の中で正統的なクリスチャンは、この問いに対して2つの解答をしてきました。ひとつは「キリストはすべての人のために死なれた。」というもの、もうひとつは「キリストは信じる者のために死なれた。」というものです。

● 「キリストはすべての人のために死なれた。」と言うことは難しいことではありません。しかし、それは聖書的に正しくはないのです。限定的贖罪と言う時、それは「キリストは信じる者のためにだけ死なれた」ということなのです。

● 考えてみましょう。もし、キリストが実際にすべての人のために十字架の上で、すべての人々の罪を負い、すべての人々への刑罰を取り除いてくださったのなら、すべての人が救われなければなりません。しかし、実際は、すべての人が救われるのではありません。イスカリオテのユダのように(使徒行伝1章25節)滅び行く人々がいるのです。もし、キリストがすべての人のために死んだとするならば、信じないで滅びに向かう人々もいるのですから、キリストの血潮とその死には無駄な部分ができてしまいます。

● ところが、キリストは無条件的に選んだすべての人々のために死なれ、罪を負い、身代わりとなられたのです。ですから、選ばれたすべての人々は必ず、みな救われるのです。キリストのいのちは無駄に捧げられたのではありません。キリストの血は無駄に流されたのではありません。一滴たりとも無駄に流されたキリストの血はないのです。

● 聖書主義に立つ私たちは、聖書の証言を限定的贖罪に関しても聞かなければなりません。マタイ1章21節で、イエス誕生前に父ヨセフに現れた天使は、「この方こそ、すべての民をその罪から救ってくださる方です。」と言わず、「ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」と言いました。また、エペソ5章25節では、「夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。」と書かれています。キリストは教会(建物や組織ではない、信じる人々のこと)のために死なれたのです。

● いやしかし、ヨハネ3章16節では、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。」とあるでしょうと言われるかもしれません。ここでも聖書の言う「世」とは「すべての人」という意味ではありません。「すべての種類の人々」という意味です。ですから、後半では「それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることがなく、永遠のいのちを持つためである。」と書かれているのです。

● 聖書の神は、全く堕落し、霊的に死んでいる人々の中から、理由もなく、ただ神のご主権的愛によってある人々を救いに選び、予定し、そのすべての人がみな救われるために贖いを成し遂げてくださったのです。

● この聖書の教えをそのまま受け取るときに、私たちは神の愛の大きさを知り、慰めと励ましと力づけをいただくことができるのです。

● しかし、それならばどうして「神は救うことを予定しなかった人々も含めて、すべての人に心から救いを提供している」というようなことがどうして可能なのかという疑問が浮かび上がってくるでしょう。しかし、これは聖書の神秘、また神の神秘としか言いようがないのです。

● たとえば、エゼキエル33章11節で神は「わたしは決して悪者の死を喜ばない。かえって、悪者がその態度を悔い改めて、生きることを喜ぶ。」と言っておられます。イエスもマタイ11章28節で、「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」と言われました。さらにペテロは第二ペテロ3章9節で、「ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」と語りました。

● 一方において、神はある人々のみを救おうとされ、他方では、神はすべての人々に救いを提供しておられる、この相反する内容はどのように調和するのでしょうか?私たちは人間の知性や理解が神には及ばないことを認めなければなりません。三位一体の教理のように、キリストの神性と人性のように、神の図りがたい知恵として受け入れなければならないのです。

● そしてそのように受け入れるなら、私たちは神の主権的な愛によって贖われ、救われたことに感謝し、ますますこのお方のみことばに従って生きずにはおられないのです。

kingdoman777@infoseek.jp


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