
カルヴィン主義
谷口 明法
● 私の信じていることは、信仰においては歴史的、保守的であり、伝道をし、教会を建て上げることにおいては急進的であるということです。すでに教会を建て上げるということで、みなさんと一緒に、子供と中高生、若者をターゲットにした伝道をやってきています。しかし、信仰の土台をないがしろにすると建てたものは崩れるので、今年に入ってからその土台を確認しています。
● 今まで、ユース・ハーベスト・チャーチは「聖書主義」、「未来主義」の教会だということを学んできました。今日もユース・ハーベスト・チャーチの特徴のひとつを学びたいと思います。第三の特徴は、YHCは「カルヴィン主義」だということです。
● ご存知のように、カルヴィン主義の「カルヴィン」というのは、 16世紀のフランス生まれの宗教改革者の名前です。しかし、だからといってカルヴァンがキリストより偉いとか、彼を信奉するということではありません。19世紀にアムステルダム自由大学を創設し、その後オランダの総理大臣にもなったアブラハム・カイパーという牧師は、「カルヴィン主義とは生活原理(生き方)」であると語っています。
● カルヴィン主義は生き方、生活原理なので、あらゆることを含みますが、その根本となるのが、カルヴィン主義の5特質と呼ばれるものです。それぞれの特質の頭文字をとって「T・U・L・I・P(チューリップ)」と呼ばれます。
● このチューリップが表すカルヴィン主義の5特質とは、「T:Total Depravity(全的堕落)」、「U:Unconditional Election(無条件的選び)」、「L:Limited Atonement(限定的贖罪)」、「I:Irresistible Grace(不可抗的恩恵)」、「P:Perseverance of the saints(聖徒の保持と堅忍) 」です。
● また、この5つの特質は、主権的恵みと言われます。それでは、5特質を見ていきましょう。
(1) 全的堕落
● これは救いに関して、「人間はどのような状態にあり、私たちはどのような状態から救われるのか?」ということを表しています。人間がどのようなものであるか、人間の罪がどのようなものであるかという認識が正しくないならば、救いに関しても、私たちは正しく認識できないことになってしまいます。すなわち、自分がどのようなものであるかが分からなければ、救いのすばらしさを十分に理解できないし、その後のクリスチャンとしての歩みも不十分なものになってしまうのです。
● 全的堕落という時に、それはエデンの園の堕落以来、罪は人間の活動のすべての分野に悪影響を及ぼしているということなのです。人間の知性、感情、意志、その他のすべての部分が罪によって損なわれているのです。聖書はそれを、霊的に死んでいると語ります。エペソ2章1節は「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、」と言います。
● 人間は全く堕落しているので、霊的に死んでいるので、自分の力で自分をすくうことは出来ないのです。多くの人たちがイエスの救いを求めないのはどうしてでしょうか?それは死んでいるので、求めることができないのです。
● ここで、確認しておかなければなりませんが、全的堕落とは完全な堕落、人の堕落がその極みまで達しているということではありません。また、相対的にはいいことができるということです。ですから、クリスチャンでないすばらしい、人格のできた人々がたくさんいるのです。しかし、神の目から見るならば、その人もまた、全的に堕落した、罪人なのです。
● 全的堕落に関してエレミヤ13章23節では、「クシュ人がその皮膚を、ひょうがその斑点を変えることができようか。もしできたら、悪に慣れたあなたがたでも、善を行うことができるだろう。」と言っています。
(2)無条件的選び
● さて、私たち人間が死んだ状態にあるならば、死んだ人間は自分で何もすることができないのです。ましてや生き返ることもできません。同じように、霊的に死んでいる人は、自分を救うことはできないのです。
● パーマーという人が面白い例話を用いています。「聖書の描いている人間の姿は、マリアナ海溝の海底の深さ一万メートルのところに沈んでいる人間のようなものである。彼の上にある海水の重さは、一平方センチメートル当たり、一トンである。彼はそこに千年間もいて、サメが彼の心臓を食ってしまった。つまり、彼は死んでいて、救護人に助けを求めることは全くできないのである。彼が救われるためには、奇跡が起こらなければならない。彼は失った命をもう一度取り戻され、そして海面に浮かび上がって、それから救護の人に助けを求めることができる。」
● すなわち人間は何も神に対して良いことができないので、神が主権的に、無条件に選んでくださらなければ、だれも救われないということです。これを別のことばで「予定」といいます。
● ローマ9章6〜23節を読みましょう。ここに、神の選びの教え、予定の教えが鮮明に書かれています。ヤコブの選びに関しても、11節では、「その子供たちは、まだ生まれておらず、善も悪も行わないうちに、神の選びの計画の確かさが、」とあります。
● エペソ1章5、6節でも、「すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、ただみこころのままに、私たちをイエスキリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定められたのです。」と神の選び・予定を語っています。
● 予定、神の選びというとそれは不公平だ、神は不正をしていると言われます。しかし、そうではありません。本来はすべての人間は堕落による罪のために、みな地獄に行き、滅びなければならないのです。しかし、そのような状態から神が無条件に救いに選んでくださるというのは、神の愛、あわれみ以外のなにものでもないのです。ですから、先ほどのローマ9章22節で、パウロは「ですが、もし神が、怒りを示してご自分の力を知らせようと望んでおられるのに、その滅ぼされるべき怒りの器を、豊かな寛容をもって忍耐してくださったとしたら、どうでしょうか。」と言ったのです。そうです、本当は滅ぼされる者が救われるとしたら、それは何という神の愛なのでしょうか?
● 滅ぼされるべき者が救いに選ばれたという教えは、私たちにどのような影響を与えるでしょうか?第一に、それは神への賛美と感謝に変わります。また、自分でキリストを選んだのではなく、選んでくださったので、一層謙遜になります。第三に、救いは私たちの自由意志にかかっているのではないので、救いの確信を持つことができるのです。
● それでは、第3の特質を見ましょう。
(3) 限定的贖罪
● 難しいことばですが、これは「キリストはだれのために死のうとされたのか?」、「キリストは実際誰の罪の代価を払われたのか?」、「キリストは誰の身代わりになられたのか?」と言う問いに置き換えることができます。歴史の中で正統的なクリスチャンは、この問いに対して2つの解答をしてきました。ひとつは「キリストはすべての人のために死なれた。」というもの、もうひとつは「キリストは信じる者のために死なれた。」というものです。
● 限定的贖罪と言うのは、この後者の方で、「キリストは信じる者のためにだけ死なれた」ということなのです。
● もし、キリストが実際にすべての人のために十字架の上で、すべての人々の罪を負い、人々への刑罰を取り除いてくださったのなら、すべての人が救われなければなりません。しかし、実際は、すべての人が救われるのではありません。滅び行く人々がいるのです。
● すなわち、キリストは無条件的に選んだすべての人々のために死なれ、罪を負い、身代わりとなられたのです。ですから、選ばれたすべての人々はみな救われるのです。キリストのいのちは無駄に捧げられたのではありません。キリストの血は無駄に流されたのではありません。
● 聖書主義に立つ私たちは、聖書の証言を限定的贖罪に関しても聞かなければなりません。マタイ1章21節で、イエス誕生前に父ヨセフに現れた天使は、「この方こそ、すべての民をその罪から救ってくださる方です。」と言わず、「ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」と言いました。また、エペソ5章25節では、「夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。」と書かれています。キリストは教会(建物や組織ではない、信じる人々のこと)のために死なれたのです。
● いやしかし、ヨハネ3章16節では、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。」とあるでしょうと言われるかもしれません。ここでも聖書の言う「世」とは「すべての人」という意味ではありません。「すべての種類の人々」という意味です。ですから、後半では「それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることがなく、永遠のいのちを持つためである。」と書かれているのです。
● 聖書の神は、全く堕落し、霊的に死んでいる人々の中から、理由もなく、ただ神のご主権によってある人々を救いに選び、予定し、そのすべての人がみな救われるために贖いを成し遂げてくださったのです。
● この聖書の教えをそのまま受け取るときに、私たちは神の愛の大きさを知り、慰めと励ましと力づけをいただくことができるのです。
● 今日はカルヴィン主義の5特質の3つまででした。次回は第4、第5特質を学びたいと思います。最後に、使徒行伝13章48節を読んで終わりたいと思います。
● 「そして、永遠のいのちにさだめられていた人たちは、みな、信仰に入った。」