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過去派解釈とは何か?



BY デイヴィッド・カーティス


 人はまったく同じ聖書を読みながら、まったく違った再臨の教えに行き着くのはどうしてだろうと考えたことがあるでしょうか?同じ聖書を学んだ人々が、未 来派になったり、ある人はパーシャルな過去派になったり、またある人は過去派になるのでしょうか?「過去派」とは過去に成就したという意味であり、「未来 派」とは未来に成就するという意味です。未来派の人々はほとんどの終末預言はまだ成就していないと信じています。過去派の人々はキリストにあってすべての 預言は成就し、キリストの王国が拡大し続けていると信じています。この間に、多くの預言は紀元70年のエルサレム崩壊の時に成就したと信じるパーシャルな (部分的な)過去派の人々がいます。パーシャルな過去派の人々と未来派の人々は、キリストの再臨、復活と裁きを待ち望んでいます。過去派にとってはこれら のすべては過去のことです。

 神を愛し、聖書を学ぶ人々がどうして終末論においてこのような違った考えを持つのでしょうか?それは、人それぞれが、人生観・世界観というパラダイムを 持っているからです。パラダイムとはモデルとか地図というような意味です。私たちは人生を自分のパラダイムを通して見ます。私たちの内には、人生とはどう あるべきなのかという地図やモデルのようなものがあります。パラダイムというのは人生の表現法ということができるでしょう。みながそれを持っていますし、 みなが終末論のパラダイムを持っています。私が終末論という時、時の終わりについて話しているのではなく、終わりの時について話しているのです。 これら二つの表現・考えには大きな違いがあります。終末論とは終わりの事がらについての教えです。しかし、それは地球の終わりの事がらではなく、神の贖い の計画の終わりの事がらです。

 私たちはみな人生を自分のパラダイムを通して解釈します。人生を見つめ、それがいいのか、悪いのか、正しいのか間違っているのかを自分の持っているモデ ルと比較して決定します。自分のうちに築き上げてきたモデルをとおして人生を解釈するのです。ほとんどの人々は自分が築き上げたモデルに疑問を感じませ ん。自分は正しいモデルを持っているとだれもが考えています。パラダイムはある時期があって築き上げられ、それによって人生を見るようになります。私たち の終末論のパラダイムは教会生活を通して聞いてきたことによって築き上げられます。今日の教会を支配する終末論のパラダイムはやがて訪れるキリストの再臨 の時に起こる、火を伴った天変地異による崩壊のうちに起こる大爆発する最後の大いなる地球という考えです。

 ある見方から別の見方に移り、今までとは違った観点からものごとを見るというのをパラダイムシフトと言います。例えば、かつてほとんどすべての人々は地 球は平らだと考えていました。しかし、ある時、新しい情報が与えられ、人々はパラダイムシフトをして、地球は丸いと信じ始めました。聖書にもパラダイムシ フトが出てきますし、それは私たちの人生の一部分でもあるのです。パウロはダマスコ途上でパラダイムシフトを経験しました。彼はイエスキリストは異端であ ると考え、キリストに反対する説教をしていました。しかし、彼は途上でイエスに出会い、信じていたことが全く変わってしまったのです。反対していた人物 が、今や自分のいのちとなってしまいました。これはパラダイムシフトです。


 1997年の初め、私はキリストの再臨に関する考えが変わり始めるというパラダイムシフトを経験しました。1976年にクリスチャンになって以来、未来 にある再臨を信じていました。フルプレテリスト(完全な過去派)になる前まで、過去派的な解釈をする無千年王国説を信じるパーシャルプレテリスト(部分的 な過去派)の時期が8年ありました。そして、聖書の時間の設定を注意深く、分析的に見始めるようになって、再臨の性質についての考えが変わり始めたので す。私はもはや再臨を未来の出来事とは信じていません。

 さて、注意深く聞いていただきたいのですが、キリストの再臨を信じていないというのではありません。私は強く再臨を信じています。ただ、それが未来では なく、過去であったと信じているのです。再臨の事実を否定することは、聖書の霊感を否定することです。あなたも同意してくださるでしょうか?再臨の時期 は、再臨の事実と同じくらいはっきりしています。聖書が与える再臨の時期の時間設定を否定することは、霊感を否定することでもあると信じています。まだ私 に同意していただけるでしょうか?

 教育的な学習を通して、人々は(地球は丸いとか、再臨はすでに起こったというような)新しい概念に出会い、すでに信じていた事がらを退けて、新しい概念 を信じるようになります。それはパラダイムシフトが要求されるからです。以下のような研究結果があります。

 50%の人は新しい概念を考えずにすぐ受け入れます。30%の人は考えずにすぐ拒絶します。15%の人は決心するまでにしばらく間を置きたがりますが、 さらなる説明や情報を求めません。5%の人はすべてを詳しく分析し、情報を注意深く研究し、最後に結論を出します。

 この研究の結果はこういうことです。5%の人は考え、15%の人は自分は考えたと考え、80%の人は考えるより死んだほうがましだと考えます。私はみな さんに5%の属する人になっていただきたいのです。

 たいへん重要な解釈学の原則を思い出してほしいと思います。それは終末論をも含む、神学のすべての分野は釈義によるということです。釈義とは聖書が語る ことを説明するという意味です。ギリシャ語のことばには「引き出す」というニュアンスがあります。クリスチャンとして私たちは神学的立場、またはパラダイ ムを持つ必要があります。私たちが聞くことを判断するモデル、または地図が必要です。しかし、自分の神学的立場が聖書と対立するならば、聖書の方ではな く、自分の神学を修正する必要があります。これに同意していただけるでしょうか?

 私たちのパラダイムはある真理を見えなくすることがあります。もし、ご自分のパラダイムにおいて、キリストの再臨は今信じているような物質的世界が天変 地異の中で滅び、地はやけ崩れ、いのち(ライフ)は崩壊するというものであると理解しているなら、あなたは聖書の時間設定を巧みに操作しなければならない でしょう。いのち(ライフ)は続いているので、イエスが一世紀の間に戻ってくると言われた通り戻って来られたことを信じることができません。それが自分の パラダイムに当てはまらないからです。世界の終わりとしての再臨と理解していたパラダイムを打ち砕くみことばを見ることから始めましょう。


 2テサロニケ2章1〜3節「さて兄弟たちよ。私たちの主イエスキリストが再び来られることと、私たちが主のみもとに集められることに関して、あな たがたにお願いすることがあります。霊によってでも、あるいはことばによってでも、あるいは私たちから出たかのような手紙によってでも、主の日がすでに来 たかのように言われるのを聞いて、すぐに落ち着きを失ったり、心を騒がせたりしないでください。だれにも、どのようにもだまされないようにしなさい。なぜ なら、まずは背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現われなければ、主の日は来ないからです。」

 さて、もしテサロニケの人々が再臨の性質が地が焼け、地球は完全に崩壊するものだと信じていたならば、どうしてその到来に関して騙されることがあったで しょうか?もし再臨が今日考えられているように物質的な地球の終わりの出来事ならば、パウロは「窓の外を見てごらん、地はまだあるから、主が来られたので はないことが明白でしょう。」と書くことができたのではないでしょうか?彼らはすでに起こったのだと考えたのです。ですから、今日考えられているようにで はなく、まったく違った再臨の性質に関する考えを持っていたに違いありません。

 もし再臨に関する使徒たちの教えが物質的なものであったなら、すでに再臨は起こったというような間違った教えが教会の中に生まれるようなことがあったで しょうか?パウロは彼らの持っていた再臨の性質に関する考え方にチャレンジしないで、そのタイミングについてチャレンジしています。

 第一世紀におけて「すぐに」来るということを教える明らかな聖書の光に照らした時、どうして再臨の考えが物質的な地球の終わりという考え方に行き着くの でしょうか?

 (Shepherd of Hermas, Justin Martyr, 2 Clement, and othersのような) 二世紀中頃の教父たちは「延期された再臨」の考えを自明のこととしました。

 自分たちが期待するような物質的な、文字通りの方法で再臨は起こらなかったので、彼らはそれが成就しなかったのだと仮定しました。ですから、彼らは必要 な唯一のことは成就の仕方・性質の再考だと考える代わりに、成就の時を調整し始めたのです。彼らは時間を表す表現はたんに「一時的に」遅らせた柔軟な意味 で、「まもなく」起こるだろうというものだと提案しました。彼らの短い延期の考えは、2000年たった現代のクリスチャンが抱いているような無制限の延期 というどんどん長くなっていく延期の概念へと発展して行きました。教会は再臨、復活、そして裁きの性質に関する理解を再考し、正さず、決して成就の時の柔 軟性という初期の、根本的な過ちを正さなかったのです。


主は明らかに弟子たちと私たちにいつ来るのか語っておられる

 マタイ16章27,28節「人の子は父の栄光を帯びて、御使いたちとともに、やがて来ようとしているのです。その時には、おのおのその行いに応じ て報いをします。まことに、あなたがたに告げます。ここに立っている人々の中には、人の子が御国とともに来るのを見るまでは、決して死を味わわない人々が います。」

 27節は明らかに再臨について語っています。主はすべての人々に報いるために天使たちを連れて来られます。ここまでは、何も問題がないでしょう。しか し、次の節をご覧ください。「まことに『あなたがた』に告げます。『ここに』立っている人々の中には、人の子が御国とともに来るのを見るまでは、決して死 を味わわない人々がいます。」この節の「あなたがた」とはだれでしょうか?24節はイエスが弟子たちに話しておられることを教えてくれます。ですから、イ エスはそこに立っていた弟子たちの何人かは再臨の時にまだ生きていると言っておられるのです。

 さて、ある人々はイエスはマタイ17章2節の変貌のことを語っておられるのだと言います。しかし、それはたった6日後のことであり、6日の間には弟子の ひとりとしても死んでいません。イエスは変貌の時に、天使たちを連れて父の栄光のうちに来られたのでしょうか?もちろんそうではありません。ペンテコステ の時はどうでしょうか?いいえ、それはたった2ヵ月後のことです。ユダ以外はみな生きていました。

 この節の納得のいく説明は何でしょうか?私には3つしか考えられません。その他に説明があるのでしたら聞いてみたいと思います。第一に、今日、まだ弟子 の幾人かが生きていること。私は実際にこの説を信じているある海兵隊の少佐に私が訪問した教会で会いました。第二に、イエスは混乱していたか、ウソをつい ていた。このような説を受け入れる人がひとりもいないことを願います。第三に、よく聞いてください!イエスは言われた通り、弟子たちの生涯のうちに実際に 来られたという説明です。私はみなさんにこの説を確信していただきたいと思います。これは聖書の霊感を受け入れる素直で、明らかな答えのように思います。 イエスは成すと言われたことを成就されたのです。私はこの説に十分満足しています。あなたはどうでしょうか?質問をさせてください。みことばは他のみこと ばと矛盾するでしょうか?いいえ、聖書解釈学(聖書解釈の科学)の基本的ルールは「信仰の類似(アナロジー・オブ・フェイス)」です。「信仰の類似」と は、聖書は聖書によって解釈するということです。これは聖書のどの箇所も聖書の他の箇所で明らかに教えていることと矛盾して解釈されるところはないという 意味です。解釈学の別の原則は不明瞭なところ(明白には言い表されていないこと)は明白なところ(明らかに書かれていること)によって解釈されるというこ とです。みなさんはこれをどのように理解されるかは分かりませんが、私にとってマタイ16章27、28節は明らかな箇所です。


 もし、あなたがイエスがここで言っておられることを信じたいなら、再臨のタイミングに固守したいなら、再臨の性質に関するご自分の考えにおいてパラダイ ムシフトをしなければいけません。

 当時の聴衆がある箇所の意味をどのように理解したかを見出すために聴衆の妥当性(第一読者、聴衆は誰かの理解)を心にとめましょうイエスは弟子たちのす べてが死ぬ前に来ると言われました。ある弟子たちは再臨を見るまで生きていました。キリストの再臨は間近に迫ったものと理解されていたのです。あなたは彼 らが抱いていたキリストの再臨の間近に迫る期待感を理解することなしに、新約聖書を読むことはできません。同じ出来事が2000年も離れた別の時代にあっ て、間近に迫っていることはあり得ないのです。

 聖書は1999年に書かれたのではありません。一世紀のクリスチャンたちが新約聖書を読んだ最初のクリスチャンたちであったことをいつも覚えていなけれ ばいけません。そして私たちは彼らの立場に立って考えなければなりません。これらのことばは彼らにとってどのような意味を持ったのだろう?聖書は私たちの ため(for us)に書かれていますが、私たちに対して(to us)書かれているのではありません。それが彼らにどのような意味を持ったかを私たちが理解するまで、私たちは自分自身にその原則を当てはめることはでき ません。

 再臨のタイミングについて聖書が間違っているのか、再臨の性質に関する私たちの考えやパラダイムが間違っているのかを決めるのはあなたに委ねたいと思い ます。どちらの考えがよりあなたにとって満足いく考えでしょうか?不正確なパラダイムなのでしょうか、聖書は霊感されていないという説でしょうか?

 R・C・スプロールは「ここで直面していることはイエスの権威の問題であることは過去派の人々はみな同意します。ですから、私たちはイエスの権威を保持 することに努力しなければなりません。」と言いました。私もそうだと思います。

 不明瞭な箇所は明瞭な箇所によって解釈するという解釈学の原則を忘れてはなりません。時間に関する表現は明白です。ですから分かるところを土台として、 分からないことを解釈しなければなりません。彼らのうちのみなが死ぬまでに戻ってくると主ははっきりと言われました。イエスの言われたことを信じないとは どういうことなのでしょう?再臨の性質を理解することにおいてパラダイムシフトをするならば、イエスの言われたことを信じることができます。時間は性質を 決定するということを忘れないようにしましょう。


 一世紀のクリスチャンたちはエリヤの再来を理解しそこなったでしょうか?マラキ4章5節に預言があります。

マラキ4章5節「見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。」

イエスと弟子たちとの会話の中で、弟子たちはこの預言に疑問を呈しました。

 マタイ17章10〜13節「そこで、弟子たちは、イエスに尋ねて言った。『すると律法学者たちが、まずエリヤが来るはずだと言っているのは、どう してでしょうか。』イエスは答えて言われた。『エリヤが来て、すべてのことを立て直すのです。しかし、わたしは言います。エリヤはもうすでに来たのです。 ところが彼らはエリヤを認めようとせず、彼に対して好き勝手なことをしたのです。人の子もまた、彼らから同じように苦しめられようとしています。』そのと き、弟子たちは、イエスがバプテスマのヨハネのことを言われたのだと気づいた。」

 彼らはエリヤについての預言を知っていました。それがまさに肉体的に、物質的に起こると考えていました。それは成就しましたが、物質的な意味においてで はありませんでした。イエスはエリヤはすでに来た(「時間」)と言われました。ですから、彼の再来の性質は霊的なものでなければなりませんでした。ヨハネ はエリヤの霊を持って来たのです。天使はゼカリヤと妻エリサベツにヨハネのことでこのように語りました。

 ルカ1章17節「彼こそ、エリヤの霊と力で主の前ぶれをし、父たちの心を子どもたちに向けさせ、逆らう者を義人の心に立ち戻らせ、こうして、整え られた民を主のために用意するのです。」

 イエスは弟子たちに「エリヤが来たことを理解したいなら、霊的に見なければならない」と言われたのです。

 マタイ11章13、14節「ヨハネに至るまで、すべての預言者たちと律法とが預言をしたのです。あなたがたが進んで受け入れるなら、実はこの人こ そ、きたるべきエリヤなのです。」

 このことはキリストの再臨においても真実です。私たちは一世紀に成就したという時間の設定を土台として、その性質を決定しなければなりません。  

 今日のほとんどのクリスチャンは新天新地の状態を説明する「(そして神は彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってく ださる。もはや死もなく・・・」というヨハネのことばを読んで、死とは肉体の死だと理解します。なぜなら、彼らはこの節の成就は未来に起こると思っている からです。しかし、人間の罪の直接の結果は肉体の死ではなく、神からの分離という霊的死だったのです。主はアダムに言われました。「それを取って食べるそ の時、あなたは必ず死ぬ。」アダムはその日肉体的にはすぐに死にませんでした。しかし、霊的には死んだのです。その日(その時)という時間設定は霊的死と いう性質を定義します。新しい契約において打ち砕かれなければならないのは、肉体の死ではく、霊的死なのです。

 R・C・スプロールは「イエスによる終わりの時」(The Last Days Accordinto To Jesus)という著書で、「私はオリーブ山での教えの本質は紀元70年に成就した、黙示録の大部分は同じように、その時間設定の中で成就したことを確信 しています。」と言いました。

 スプロールはいくつかの「あなたがた」という表現の光に照らして、オリーブ山での教えは一世紀の聴衆たちにあて はめられるのだとはっきりさせています。マタイ24章4〜9節について語っている箇所で、スプロールは以下のように言いました。

「私たちはイエスが弟子たちがした『イエスが少し前に語られたことの成就はいつか』という質問に答えておられるこ とを覚えておかなければいけません。『人に惑わされないように気をつけなさい。』とイエスは言われたのです。」

 また、マタイ24章15〜24節の荒らす憎むべき者に関しては、「過去派は患難と荒らす憎むべき者はエルサレム の崩壊にさきがけて起こるしるしとして理解する」と言っています。

 パーシャル・プレテリストの間では、マタイ24章1〜35節は紀元70年のエルサレム崩壊に当てはめられ、解釈 されるということにおいてプレテリストと大きな一致を保っています。しかし、時間の移行の節と見られる36節のテーマと時代に関してはパーシャル・プレテ リストの間でもディベートが持ち上がります。キリストは(1〜35節のエルサレム崩壊の出来事と36節以降の世界の終わりの)二つのことがらについて言っ ておられるのか、エルサレム崩壊に伴うユダヤ人の時代の終わりについて扱っておられるのかという議論です。

 マタイ24章36節「ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。
天の御使いたちも子も知りません。ただ、父だけが知っておられます。」

 J・マーセラス・キックは「勝利の終末論」(An Eschatology of Victory)のイエスのオリーブ山での教えに関する解説で、「多くの人々が36節はテーマの変化が起こっていることを認めている。」と書いています。 チャールズ・H・スポルジョンはマタイ24章36節の解説で、「この主のことばにおいてキリストの最後の裁きのための再臨を示す明らかな変化がある。」と このことを支持しています。ケネス・ジェントリーも同じような考えをしています。

 マタイ24章を二つの部分に分割するかどうかは大きな問題でしょうか?もちろんそうです。もしこの章が一世紀の 成就についてだけ語っているなら、私はそのように信じているのですが、未来派の人々は未来の再臨を支持するテキストがなくなるのです。なぜなら、その他の すべての再臨のテキストはマタイ24章と同じ言葉遣いをしているからです。そして、その人はすべての間近に迫ったという時間の表現(マタイ16:27, 28、ルカ21:20〜36、ヨハネ21:20〜23、ローマ13:11,12、1コリント1:4〜8、へブル8:13、10:25、37、ヤコブ5: 7〜9、1ペテロ4:5、7、17、1ヨハネ2:18、ユダ17〜19、黙示録1:1〜3、7、22:6,7,10,20・・・)は再臨に関することであ るということによって、キリストのパルーシア(再臨)は一世紀の霊的な出来事だと認めなければなりません。

 フル・プレテリストは紀元70年にキリストの再臨が起こったと考えます。また、裁きがあり、旧い契約のシステム (天と地)は取り除かれ、完全な王国、新しい契約(新しい天土地)が建てられたと考えます。イエスは言われた通り一世紀に戻って来られました。聖書には 「三度目」に来れれるという記述はどこにもありません。

それでは、この章が分割できないことを示すいくつかの主張を見ていきたいと思います。

1:この日とその日

 24章を分割する人々がする中心的主張のひとつは3つの節(マタイ24:19,22,29)に4回「これらの 日」(日本語訳では正確には訳出されていない。)とイエスは言及しておられるというものです。ところが、36節では、イエスが「しかし、その日、その時が いつであるかは、だれも知りません。」と言われたとき、それは対比するようなことを言っておられると教えられました。スタッフォード・ノースは「36節は 『しかし』ということばで始まっています。それは、その前の部分で言われてきたことと対比されることを示しています。されに、34節より前で、イエスは中 心的テーマを話すのに複数形の『日』を用いていますが、それ以後は単数形の『日』を使っています。」キックもこの区別を強調して、「『その日、その時』と いう表現は、テーマが移行した直接的証拠を示しています。」と言いました。ジェントリーは、「私たちは後半の単数形の『日』に対比して、移行前における複 数形の『日』の強調に注目すべきだ。」と書いています。

 ジェントリーはまた、「この時代に対してその日という、近づいていることがら(34節)と遠いことがら(36 節)の意図された対比が存在するように思えます。もしキリストが『この時代』について言及しておられると言うなら、『その日』よりも、『この日』と話され たほうがより適切であったろうと思われます。」と記しています。

 私は「その」と「この」のすべての主張はは空騒ぎ以外の何物でもありません。「この時代は」イエスが語っておら れる時代に言及しているのです。それゆえ、「あの」が(彼らにとって)何か未来のことがらのための最も適切なことばであるように、「この」は現在のことが らのために適切なことばなのです。ArndtとGingrichは、「エケイノス(その)がちょうど比較的遠くのことがらについて述べているように、この は比較的身近なことがらについて述べています。」とこのことに同意しています。

 上記の著者たちは「その日」はエルサレムの崩壊についての言及であると信じていません。単数形の「その日」はた だ(私たちにとっての)未来の再臨に対する言及であると主張します。みことばとみことばを比べることによって彼らの間違いを簡単に示すことができます。

ルカ17:31「その日には、屋上にいる者は家に家財があっても、取り出しに降りてはいけません。同じように、 畑にいる者も家に帰ってはいけません。」

 ここで、イエスはエルサレムの崩壊について話しているマタイ24章17節と同じ状況にはっきりと言及して「その 日」という単数形の表現を用いておられます。

マタイ24:17「屋上にいる者は家の中の物を持ち出そうと下に降りてはいけません。」

 あなたはルカ17:31の「その日」は私たちにとって過去の出来事について述べ、マタイ24:36の「その日」 は私たちにとって未来の出来事について述べていると言うことはできません。それらははっきりと同じ出来事について述べているのです。ですから、イエスが 36節で「しかし、その日」という表現を用いられた時、まだ同じテーマについて話しておられるのです。

 「それらの日」が「その日」に達するというのは筋が通っていないでしょうか?「それらの日」は36節で延べられ ている「その日」である天地が滅びさることがらへとつながるのです。

 多くの注解者たちが「それらの日」と「その日」を区別する理由のひとつは、弟子たちがエルサレムの崩壊と時間の 終わりのふたつのテーマについて質問をしたという先入観です。この前提のために、注解者たちは36節でテーマは変わったと考えます。

 その時代にイエスがエルサレムを裁くために来られるという考え以外に、弟子たちが他の再臨を考えていたという文 脈的な証拠はどこにあるのでしょうか?この文脈に別の再臨を持ち込むことはまったくの自己解釈です。


2:しるし、しるし、どこにでも、しるし

 24章を分割するというもうひとつの考えは36節にしるしが不在であるということです。彼らは24章の最初の部 分でしるしを与えておられるが、36節にはそれがないと言います。イエスは「しかし、その日、その時はだれも知らない」と言っておられます。彼らが主張す るのは、「ある日にはしるしがあり、別の日にはしるしがない。それゆえ、それは同じ日ではない。」ということです。ノースは、「イエスは弟子たちにエルサ レムの滅亡がいつなのかをはっきりと語られました。彼らの生涯の内に、軍隊が近づいて来たとき、彼らが逃げられたのはしるしを読むことができたからです。 しかし、イエスの再臨のときはいつなのか、だれも、天使たちも、イエスでさえも知らないのです。」と言っています。

 もしすべての並行記事を注意深く研究するなら、人々がエルサレムの滅亡に関する「その日」を知るだろうと決して イエスが言われなかったことが分かるでしょう。それをどこにも見出せないのです。イエスが彼らに与えられたしるしは、それが「近づく」時を知らせるためで した。ある日やある時間を決して教えようとしておられません。

 今日、多くの人々が私たちにとって未来に起こるキリストの再臨の時間はだれにも分からないことを証明するために 36節を用います。しかし、すでに学んできたように、「その日」はエルサレムと旧い契約の崩壊を意味する天地が滅びさることへの言及です。イエスは(34 節で)すでに彼らの時代(40年ほど)のうちに起こることを話されたのです。しかし、それがどの日、どの時間であるのか彼らは知らなかったのです。

 女性が妊娠した時、私たちはその女性が赤ちゃんを産むのは約40週のうちであることを知っています。しかし、そ の40週のうちにどの日、どの時なのかは知りません。このことがイエスがここで言っておられる、まさにそのことなのです。そして、王国の完成の前の時はし ばしば産みの苦しみで表現されていることはほんとうに興味深いことです。

マタイ24章8節「しかし、そのようなことはみな、産みの苦しみの初めなのです。」

 ギリシャ語の「苦しみ」ということばはオディンです。それは、「痛み、苦痛、特に出産の苦痛」という意味です。 同じことばが1テサロニケ5章3節で用いられています。

1テサロニケ5章3節「人々が『平和だ。安全だ。』と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲い かかります。ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むようなもので、それをのがれることは決してできません。」

 ですから、妊娠と出産の例は聖書的な例なのです。私たちは子どもが生まれるのが近いことを知っていますが、その 日、その時は分からないのです。

 N. ニスベット(1787) は「しかし、主がされたユダヤ人の滅びの預言の完成の時が進んでいるが、この裁きの正確な時間は父の懐の中にあった。36節『その日、その時がいつである かはだれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。』聖マルコは『子も知りません。父だけが知っておられます。』と 同じように書いています。しかし、偉大な学者たちのあるものたちは、私たちの主がここで話しておられるのは、エルサレムの崩壊ではなく、より厳粛で恐るべ き裁きの日についてであるという考えを持っています。しかし、私は決して福音書記者たちがそれまで言ってきたことに明確に言及していながら、現実には新し いテーマを始めるような、文章家の基本的ルールを壊してまで、突然、ぶっきらぼうに、彼らが考えているような移行の考えをを挿入するいい加減な、不正確な 記者たちであったとは考えられません。もし弟子たちがした「これらのことはいつ起こるのか?」という質問を思い出すなら、この前提のばかばかしさがよく分 かります。なぜ救い主は『その日、その時はだれも知らない、御使いたちも子も知らない、天の父だけが知っておられる。』と言われたのでしょうか?」 (pp. 38-39)

ですから、彼らは時期を知っていましたが、その日、その時は知らなかったのです。

3:「しかし」は移行のしるしか?

 「しかし」ということばを使うことによって、イエスは他のことがらにテーマを移されたと言われてきました。36 節が「しかし」ということばで始まっているという事実は、テーマの対比を示唆していると言えるのでしょうか?いいえ、そうではありません。「しかし」とい うことばが使用されているのは接続詞としてであって、前置詞としてではないのです。接続詞として、「しかし」は対比を表しているのではなく、これらか話さ れることは、今まで話されてきたことと繋がりがあるということを表しています。New Englishman's Greek Concordance of the New Testamentは「接続詞としての『デ』の用法は新約聖書の中において『デ』の使用法の中でも最も多く使われている用法です。」と言っています。」

 もし文章の始まりに用いられる「デ』の用法がテーマの挿入を導入するものなら、24章には8つのテーマの挿入が あることになります。マタイ24章6、8、13、20、32、36、43、48を参照。24章36節の前後の節をしっかりと研究することによって、マタイ 24、25章の最も一般的な「しかし」の用法はテーマの変更と何ら関係がないことが分かるでしょう。 

 トーマス・ニュートン(1754)は、「ある人たちはどうして結論として『これらすべてのことはこの時代に成就 する』と言われているのに、エルサレム崩壊についての先に語られた教えの、ある部分を世の終わり、または他の遠い出来事について述べているということがで きるのだろうか。あたかも私たちの救い主は、ご自身の主張を『天地は滅び去ります。しかし私のことばは決して滅びることがありません。』(35節)とさら に強調することにより、彼の言葉の誤用に注意されたかのようです。」と言いました。(p. 426)

4:マタイの使う「再臨(来る)」ということば

 マタイが用いている「来る」ということばの用法に注目することによって、36節が別のテーマへの移行のための節 ではないことをはっきり証明できると考えています。ギリシャ語の「パルーシア」ということばはマタイ24章で4回、36節の前に2回、後に2回使われてい ます。

マタイ24章3節「イエスがオリーブ山ですわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとに来て言った。『お話 しください。いつ、そのようなことが起こるのでしょう。あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。』」
マタイ24章37節「人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。」
マタイ24章39節「そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らは分からなかったのです。人の子 が来るのも、そのとおりです。」

 「パルーシア」が36節の前後の部分で用いられているばかりではなく、同じように「来る」と訳すことのできる、 「エルコマイ」も使われています。

マタイ24章30節「そのとき、人の子のしるしが天に現われます。すると、地上のあらゆる種族は、悲しみなが ら、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見るのです。」
マタイ24章42節「だから、目をさましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからで す。」

 「エルコマイ」は44、46、50節でも使われています。さて、36節より前の部分の3つの 「来る」はどれも紀元70年のエルサレム崩壊に当てはめられます。また、36節以降の部分でもまったく同じことばが未来のキリストの再臨に用いられていま す。この箇所で論じられているのは、キリストの再臨は2回あるということでしょうか?イエスは同じ箇所で、まったく違ったふたつの出来事に対してまったく 同じことばを使っておられるのでしょうか?興味深いことに、イエスは4福音書の他のどこにもギリシャ語の「パルーシア」ということばを使っておられませ ん。イエスも弟子たちも、新約聖書の記者たちも何千年も隔たった期間のあるふたつの異なった「パルーシア」があるように区別していません。

 デイヴィッド・チルトンがフル・プレテリストになった後の1996年に彼は「・・・マタイ24章はふたつの異 なった『再臨』に分割されるという考えは正しい考えではない。聖書は再臨を預言している(へブル9:28)が、三度目に来ることは預言していない。」と言 いました。 (Forward to What Happened in AD70?)

 これまでのところ、24章は分割できないという4つの主張を挙げました。「この日とその日」の議論、「しるしの 不在」の議論、「しかし」の議論、そして「来る」というギリシャ語のことばの議論を見ました。さて、私が提起したい次の議論に比べれば、以上の議論(それ はみな良い議論ではあります。)はかわいいものです。私としては、これで議論は終了し、マタイ24章の分割を唱える者たちを追いやります。私の最終的な主 張はすべての質問を終わらせる神的回答であり、それはルカ17章です。

 このルカの並行記事の中で、イエスが「いつ王国は来るのか」というパリサイ人の質問に対してまったく同じしるし と象徴を用いておられることに気づくでしょう。もしイエスがマタイの記事においてエルサレム崩壊に適用しておられるのと同じしるしを、ルカの記事での王国 が完全にやって来ることへの答えとして使っておられるとしたら、ルカが話している王国の到来をペンテコステにあてはめようとすることが明らかに間違ってい るということを解決するために脳外科医を連れてくる必要もないでしょう。

 マタイ24章を分割する人々は最初の部分(1〜35節)は、ただ紀元70年のエルサレム崩壊だけに適用され、後 半部分(36〜51節)は完全にことなったものであり、世の終わりと「本当の」イエスの再臨にだけ適用されるのだと主張します。

 しかし、ルカ17章を素直に読んでみるなら、ルカのしるしと象徴の順序はキリストがひとつの出来事、すでに見て きたように、紀元70年の完全な王国の到来に関係したことに言及していることは明らかです。ルカの文脈を調べるなら、分割することは不可能なのです。ルカ はマタイの最初の部分からのしるしと後半部分からのしるしを混ぜて用いています。

 どのようにルカはマタイと同じ出来事を違った順序で記しているかに注意を払ってください。マタイの順序は次の通 りです。

1:マタイ24章17〜18節

2:マタイ24章26〜27節

3:マタイ24章28節

4:マタイ24章37〜39節

5:マタイ24章40〜41節


 しかし、ルカは同じ出来事の順序を2,4,1,5,3とごちゃまぜにしています。ルカは前半部分からの出来事に 引き続いて、後半部分の出来事を記しています。そして、もう一度前半部分の出来事の後に後半部分の出来事をおいて、最後に前半部分からの出来事をおいてい ます。もしマタイ24章が何千年も離れた異なったふたつの再臨を扱っているなら、ルカは間違ったことになります。ルカはマタイの書いた出来事を混ぜこぜに してしまい、すべてを一度に起こることとしてしまったことになります。ですから、私たちには2つの選択肢しかありません。ルカは間違っていたので、聖書の 霊感を否定するか、マタイ24章で語られたことをすべてひとつの出来事であったと結論するかです。あなたはどちらを選びますか?どうぞよく考えてくださ い。イエスはご自身で言われたように一世紀のうちに再臨され、聖書のどこにも三度目に来られることは書かれていないというのが素直な答えです。

 J・スチュアート・ラッセルは「使徒たちと初代のクリスチャンたちが終わりに関するイエスの預言においてふたつ のことがらにイエスは言及しておられたのではないかと考えていたトいう証拠を示すものは少しもありません。」と言いました。(The Parousia p. 545)

 皆さん。マタイ24章を分割することはできません。イエスが不確定な期間によって分けられたふたつの再臨を説明 しておられるということを示すものは何もないのです。イエスは両方の説明のために同じことばを用いておられるのに、どうして少し前で説明しておられるもの と違った再臨を述べておられると弟子たちが判断したと考えられるのでしょうか。

 正直に見る人にとって、24章は分割できないことは自分の目の前の鼻と同じくらい明らかです。ですから、どうし てそれを分割する努力が必要なのでしょうか?彼らは(私たちにとっての)未来の再臨について述べているいくつかの箇所があるとします。そして、地球を崩壊 させる未来のキリストの再臨という伝統的な考えを手放すことができません。そこで、マタイ24章に2つの再臨を導入します。しかし、それは不可能です。イ エスは紀元70年に起こった、キリストがエルサレムに対する裁きのために再臨されたことについてだけ話しておられるからです。

 すべてのパーシャル・プレテリストはマタイ24章30〜31節は紀元70年のエルサレム崩壊時に成就したことに 同意します。しかし、この箇所は分割できないし、25章は24章に書かれている裁きの直接の、またすぐに起こる結果なので、マタイ25章31〜32節の人 の子の再臨は弟子たちの何人かが証人として生きているというマタイ24章30〜31節と16章27〜28節の言及と同一のものです。

 もし私たちがマタイ16章27〜28節、24章30〜31節、そして25章31〜32節の3つの箇所を比較する なら、以下のことが分かるだろう。(a)3つの箇所はみな、同じ再臨(パルーシア)、キリストが来られるというテーマについて語っている。(b)3つの箇 所はみな、栄光の再臨を描写している。(c)3つの箇所はみな、御使いたちを伴っている。(d)どの箇所も、王として、「王国を伴って」、「王座に座られ る王として」来られる。(e)裁きに来られる。(f)裁きはある意味において普遍的である。(「すべての人に報いるために」、「すべての国々の民を集め る」)、(g)マタイ16章28節では、この再臨はそのときいた弟子たちの何人かまだ生きているうちに起こる栄光の再臨をして述べられている。このこと は、ある人の生涯のうちにおける再臨を決定します。ですから、「この時代は過ぎ去りません」という主の予言の時期と完全に一致するのです。

 これらの箇所はみな、一世紀に起こった出来事について述べています。マタイ25章の裁きは紀元70年に起こりま した。エルサレムの崩壊、キリストの再臨、復活、そして裁きは聖書においてみな関連しあっているのです。

 「イエスによる終わりの日」(The Last Days According To Jesus) の139-140ページで、スプロールはギリシャ語の「メロー」ということばは、文字通りには「間もなく」と訳せる、近いことがらに言及することばである と認めています。しかし、切迫した復活と裁きを現わすためにもちられている同じことばを認めようとしません。

使徒行伝24章15節「また、義人も悪人も必ず復活する(about to)という、この人たち自身も抱いている望みを、神にあって抱いております。」

 パウロはここで「メロー」ということばを用いています。

2テモテ4章1節「神の御前で、また、生きている人と死んだ人とをさばかれる(about to)キリスト・イエスの御前で、その現われとその御国を思って、私はおごそかに命じます。」

 ここでも「メロー」が用いられています。再臨、裁き、そして復活はみな、一世紀に起こること だったのです。

 R・C・スプロールは1コリント15章と1テサロニケ4章の中に未来の再臨への言及を見出そうとしました。しか し、これらの箇所のことばを比較するなら、マタイ24章と同じことばが使われていることが分かるでしょう。

1コリント15章51〜52節「聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまう のではなく、みな変えられるのです。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変 えられるのです。」

 ここで起こることに注意しましょう。ラッパが鳴り、死者はよみがえるのです。これはキリストにある死者への言及 です。死者は神の臨在へとよみがえり、生きている者たちは変えられます。生きている者たちは朽ちないものを着ます。このラッパはイエスがマタイ24章31 節で言われたラッパとは違ったものでしょうか?いいえ!旧約聖書においてラッパは神の民を集めるために鳴らされました。これは神の臨在への霊的召集です。 これが復活です。これはマタイ24章31節に見出すのと同じ考えなのです。ラッパが鳴り、選民は集められるか、またはよみがえるのです。ダニエルは復活と エルサレムの崩壊を関連付けています。

ダニエル12章1〜2節「その時、あなたの国々の人々を守る大いなる君、ミカエルが立ち上がる。国が始まって以 来、その時まで、かつてなかったほどの苦難の時が来る。しかし、その時、あなたの民で、あの書にしるされている者はすべて救われる。地のちりの中に眠って いる者のうち、多くの者が目をさます。ある者は永遠のいのちに、ある者はそしりと永遠の意味に。」

 読みそこないのないように、ダニエルはさらにそれがエルサレムの崩壊であることとして語っています。

ダニエル12章7節「それは、ひと時とふた時と半時である。聖なる民の勢力を打ち砕くことが終わったとき、これ らすべてのことが成就する。」

 ダニエルは復活が聖なる民(ユダヤ人)の勢力が完全に打ち砕かれるときにあると語っています。

ダニエル12章11〜13節「常供のささげ物が取り除かれ、荒らす忌むべきものが据えられる時から千二百九十日 がある。幸いなことよ。忍んで待ち、千三百三十五日に達する者は。」

 1〜2節と11〜13節に書かれている復活は紀元70年の出来事であるマタイ24章によると「荒らす忌むべきも の」と時間的に関連しています。

 「イエスによる終わりの日」(The Last Days According To Jesus) でスプロールは「オリーブ山での教えに用いられている語法は象徴的であると受け取ることは合法的です。なぜなら、その語法は非常に旧約の預言的イメージに 似通っているからです。しかし、1テサロニケ4章のパウロの語法ははっきりと違っています。この文脈の様式をパウロは地上からは隠された出来事を描写する ことで、あまりにも想像できないような文脈の形式をとっています。」

 1テサロニケ4章13〜18節のことばは、片方は文書形式であり、他方は口伝形式であるものの、マタイ24章 30〜34節のことばと同じ形式です。私たちはスプロールがオリーブ山の教えは紀元70年のエルサレム崩壊で成就したと正しく認識しているので、2つの箇 所を短く比較してみたいと思います。

1テサロニケ4章15〜18節「私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っ ている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天 から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲 の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。」

1テサロニケ4、5章とマタイ24章の比較は非常に興味深い。

1. キリストご自身が戻られる マタイ 24:30 I テサ 4:16
2. 天から マタイ 24:30 I テサ 4:16
3. 号令をもって(大能を帯び) マタイ 24:30 (in power) I テサ 4:16
4. 御使いたちをともなって マタイ 24:31 I テサ 4:16
5. 神のラッパ マタイ 24:31 I テサ 4:16
6. 集められる マタイ 24:31 I テサ 4:17
7. 雲(の中) マタイ 24:30 I テサ 4:17
8. 時は分からない マタイ 24:36 I テサ 5:1-2
9. 盗人のように マタイ 24:43 I テサ 5:2,4
10. 差し迫った裁きに気づかない マタイ 24:37-39 I テサ 5:3
11. 産みの苦しみのように来る裁き マタイ 24:8 I テサ 5:3
12. 目をさましている信者たち マタイ 24:42 I テサ 5:4
13. 酩酊への警告 マタイ 24:49 I テサ 5:7

 マタイ24章においてイエスはその時代に聖徒たちを集めるために来ると預言されました。1テサロニケ4〜5章 で、パウロは聖徒たちを集めるために来られる同じ再臨を語っています。新約聖書には天使をともない、火と力と栄光のうちに聖徒たちを集めるために来られる 再臨が何回あるのでしょうか?ただひとつです。ですから、結論はただひとつです。1テサロニケ4〜5章はマタイ24章の再臨、裁き、聖徒を集めることと まったく同じことが扱われているということです。

 1テサロニケ4章15節で、パウロは「キリストが来られる時、生き残っている人々」と言わない で、「主が来られるときまで生き残っている私たち」と言いました。

 パウロは1テサロニケ4章16節で、「主ご自身天から下ってこられます。」と言っていますが、「下って来られ る」ということばは、贖いを完成したことを宣言するために、祭司が神殿から出てくることとして一般的に用いられているものです。

ルカ21章20〜22「しかし、エルサレムが軍隊に取り囲まれるのを見たら、そのときには、その滅亡が近づいた ことを悟りなさい。そのとき、ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。都の中にいる人々は、そこから立ちのきなさい。いなかにいる者たちは、都にはいってはい けません。これは、書かれているすべてのことが成就する報復の日だからです。」

 イエスはエルサレム崩壊の時に、「書かれているすべてのことが成就する」と言われました。すべての預言は紀元 70年に成就したのです。ですから、未来の再臨やまだ成就していない預言はひとつもありません。

 すべての預言はイエスが言われたように、紀元70年の神の怒りのうちに成就しました。「3回目に主が来られる」 という考えは空論であり、聖書的な裏づけが少しもない考えです。新約聖書が教えているのはただひとつの再臨(パルーシア)です。それはエルサレム崩壊の時 に起こった再臨(パルーシア)であり、神がイスラエルの父祖たちに約束されたすべてのことの成就をもたらす再臨(パルーシア)なのです。

 フル・プレテリストになる前のデイヴィッド・チルトンはこの地球上に肉体の姿をもって戻って来られるキリストの (私たちにとっての)未来の再臨を教える聖書箇所はひとつもないと結論を出していました。それにも関わらず彼は「「聖い母なる教会」(チルトン自身のこと ば)がほとんど2000年間教え続けてきたという理由だけで、その教えを信じ続けました。

 ジョン・ブレイ(南部バプテストのエヴァンジェリスト)は「イエスはまもなく戻って来られる」と言う本の中で同 じような考えを持っていました。「新約聖書がキリストの再臨・パルーシアについて述べていることは、紀元70年に起こった重大なひとつの出来事である。新 約聖書の時間設定はこれを証明しています。新約聖書の中に(私たちにとっての)未来のキリストの再臨を見出すことは、推測か憶測によるのであって、聖書の 表現方法によるのではありません。」

 みなさんは彼が言っていることを聞かれたでしょうか?未来にあるキリストの再臨を信じているけれど、それを支持 するみことばがない、それはただ推測にすぎないのです。昨年、ブレイ師は未来にあるキリストの再臨という考えを捨て、フル・プレテリストになりました。

 デイヴィッド・チルトンは「報復の日」(The Days of Vengeance)という本の中で、フル・プレテリズムを異端的であると言っています。 

「未来に起こるキリストの再臨はない、または最後の裁きはないとする、その究極の主張は異端的である『首尾一貫し たプレテリスト(consistent preterists)』と自らを呼ぶ人々の解釈とは反対に、エルサレムの崩壊はキリストの再臨とは同等ではありません。」

「・・・キリストの復活、教会の再生、新しい契約の到来、紀元70年のエルサレムの崩壊という出来事の中にすべて のことは成就したと主張することで、未来に起こる肉体の復活や裁きを否定する異端的な『プレテリズム(過去派)』を受け入れることが、ある正統的グループ の中でも明らかに流行しています。そのような考えを持っている人々について他にどのようなことが言われていたとしても、彼らが正統的キリスト教として承認 される適合性を持ち合わせていないのは明白です。」 

 デイヴィッド・チルトンはフル・プレテリズムを異端と非難していたのに、彼はパラダイムシフトをしたのです。そ してフル・プレテリストになりました。

 彼はパラダイムシフトをした後、このように言いました。「驚くべきイエスのことばの意味を熟考すればするほど、 終末論に関する本当に革命的な意味合いをそれから見出すことができます。例外なしに、聖書の預言者によって語られたすべての出来事は、イエスが言われたよ うに、その時代のうちに成就しました。聖書は再臨(二度目に来られること)について語っていますが、三度目に来られることを語ってはいません。」What Happened in AD 70? By Ed Stevensの前書き, 1997)

 どうしてデイヴィッド・チルトンは異端に走ったのでしょうか?かつて異端と非難した教えをどうして信じたので しょうか?それは、みことばの真理は否定できないことに気づいたからです。プレテリストの考えは信条に反するかもしれません。しかし、みことばとは調和し ているのです。私たちの祈りが詩篇記者と同じものでありますように。

詩篇25篇5節「あなたの真理のうちに私を導き、私を教えてください。あなたこそ、私の救いの神、私は一日中待 ち望んでいるのです。」


このメッセージはデイヴィッド・カーティス師( David B. Curtis)によって、フロリダ州オーランドで開かれたプレテリスト・コンベンションで1999年2月20日になされたものです。 このメッセージはカーティス牧師の許可を得て、翻訳掲載しています。無断転載は堅くお断りします。


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