時間表現と預言の解釈
by:Bryan
Forgy
字義的解釈と象徴的解釈のディベートを超えて考えるべき預言解釈上最も重要な視点のひとつは、時間表現という視点です。もし聖書がある出来事はある限定さ
れ
た時間内に起こると言いながら、そうならなければ、預言は間違ったことになります。事実、多くの無神論者たちは聖書が啓示は一世紀のうちに起こると教えた
という事実を用います。しかし実際は(未来派の人々によると)起こらなかったので、聖書は神のことばではないことは間違いなく証明されると言います。時間
表現に関するたくさんのギリシャ語のことばがあります。いくつかを見てみましょう。
「メロー」ということばはArndt -
GingrichとThayerによると「まさに〜しようとしている、〜するところである、〜するつもりである、〜の間際に、〜した時点で」という定義が
なされています。(Analytical Greek Lexicon p.262; Thayer p. 396).
ヴァインによる基本的な意味は「何かが起ころうとしている」です(p.15)。 またHebrew - Greek Study
Bibleの中でZodihatesは「まさに〜するところである」という定義から始めて、その他の定義を列挙しています(p.1855)。私が調べたこ
とばはうまく翻訳されています。適切に訳されたことばのある数箇所から始めましょう。
1.) 使徒行伝3章3節・・・「彼は、ペテロとヨハネが宮にはいろうとする(メロー)のを見て、施しを求めた。」
2.) 使徒行伝20章3節・・・「・・・そこからシリヤに向けて船出しよう(メロー)とするときに、・・・」
3.) ヘブル8章5節・・・「・・・それらはモーセが幕屋を建てようとした(メロー)とき、神から御告げを受けたとおりのものです。」
さて、これらの節はどのようにそのことばが聖書で使用されているかをみなさんに示したことでしょう。ギリシャ語で使われていることばを日本語訳のふさわし
い場所におきました。それでは、裁きと再臨に関する数箇所を見て、メローが訳されていないところに括弧つきで示しましょう。
1.) マタイ3章7節・・・「まむしのすえたち。だれが必ず来る(まさに来ようとしている)御怒りをのがれるように教えたのか。」(Matthew
3:7 - " …You brood
of vipers, who warned you to flee from the wrath (about to) come.")
2.)
マタイ16章27節・・・「人の子は父の栄光を帯びて、御使いたちとともに、やがて来ようとしている(まさに来ようとしている)のです。その時には、おの
おのその行いに応じて報いをします。」(Matthew 16:27 - " For the Son of Man is (about to)
come in the
glory of His Father with His angels, and will recompense every man
according to his deeds.")
3.)
使徒行伝17章31節・・・「なぜなら、神は、お立てになったひとりの人により義をもってこの世界を裁く(まさに裁こうとする)ため、日を決めておられる
からです。」(Acts 17:31 - " Because He has fixed a day in which he is (about
to)
judge the world…")
4.) 使徒行伝24章25節・・・「しかし、パウロが正義と節制とやがて来る(まさに来ようとしている)審判とを論じたので、・・・」(Acts
24:25 - " And as he was discussing righteousness, self -
control and the judgment (about to) come… ")
上記の箇所は再臨と関連して用いられている「メロー」を示したいくつかの例です。NASB(新アメリカ標準訳聖書)では、終末に関する箇所で適切な場所に
英訳されている「メロー」の箇所があります。それはルカ21章36節です。
「しかし、あなたがたは、やがて起ころう(まさに起ころう)としているこれらすべてのことからのがれ、人の子の前に立つことができるように、いつも油断せ
ずに祈っていなさい。」" But keep on alert at all times, praying in order that you
may have
the strength to escape all these things that are about to (Mello) take
place."(訳者注:どうしても新改訳聖書の翻訳者はこれがはるか未来の出来事であると信じているので、「やがて」という翻訳にしたがるようです。)
どのようなことがまもなく起こるとキリストは話されたでしょうか?以下がそのリストです。
A.) エルサレムはまもなく軍隊によって取り巻かれる。(20節)
B.) 書かれているすべてのことが成就する。(22節)
C.) エルサレムは踏み荒らされる。(24節)
D.) キリストが来られる。(27節)
E.) 神の王国が来る。(31節)
F.) 天地は滅びる。(33節)
キリストは「メロー」ということばを用いてこれらすべてのことがまもなく起こると言われ、実際にその時代のうちに起こり、時代は過ぎ去りました(32
節)。ですから、未来派の人々の異論にも関わらず、私たちはルカ21章においてほとんど過去派のアウトラインを見ることができるのです。抜けていることと
言えば、復活と裁きです。このことは後ほど考えてみましょう。今は、キリストの再臨に関する数節にフォーカスを当てたいと思います。
1 コリント 1:7,8
-「その結果、あなたがたはどんな賜物にも欠けるところがなく、また、熱心に私たちの主イエスキリストの現われを待っています。主も、あなたがたを、私た
ちの主イエスキリストの日に責められるところのない者として、最後まで堅く保ってくださいます。」
私はプレテリストになるまでしばしばこの箇所に苦しみました。なぜなら、黙示録が紀元96年に書かれた時に、完全な神のことばは完成し、奇跡の時代は終
わったというブレザレンの伝統のためでした。しかし、この節は私を困惑させました。この節がキリストの再臨まで賜物は続くと教えているように思えるからで
す。多くの場合より大きな議論に押されてこの節はあいまいにされることがしばしばですが、カリスマではない未来派の人々はディベートにおいてこの節にいつ
も疑問を感じます。ラムゼイとヒックスのディベートを取り上げてみましょう。奇跡の問題で何年もチャーチ・オブ・クライストとディベートをしてきたマー
ヴィン・ヒックスはチャーチ・オブ・クライストの著名な兄弟ジョニー・ラムゼイとのディベートでこの議論を用いました。以下がラムゼイ氏のこの議論に対す
る回答です。
「1コリント1章7節において、私たちは1コリント13章にあるその完成を見出す箇所を持つのです。」 (Ramsey - Hicks
Debate, pg. 151)
これがラムゼイ兄弟がこの箇所に関して言ったすべてです。これが彼の回答なのです!彼はこの箇所を取り上げ、完全なものが現われたならばそれは成就すると
いう1コリント13章の奇跡の終焉に当てはめました。さて、カリスマでない未来派の人々の完全なものに関する議論は完全(テリオス)は中性であり、男性で
あるキリストの再臨ではあり得ません。これはすごいことですが、ラムゼイ兄弟の議論は1コリント1章7節を、アポカルプシスということばを使ってキリスト
の再臨に関して話している1コリント1章7節の文脈を無視して1コリント13章の文脈に押し込んでいます。この節はその文脈が主の日であるとも宣言してい
ます。ですから、ラムゼイ兄弟は完全なものが主の再臨を含むことをまさに肯定したのです。彼の中性詞の原則を否定することでは決して主の再臨に言及するこ
とはできないのです。カリスマでない未来派の人々の間での伝統的な見解では、この節を説明することは不可能です。この節に関してラムゼイ氏がほとんどコメ
ントをしていないことは彼がほんとうには答えを持っていないことを示しています。この節は天からの主の啓示があるまで奇跡は続くという事実を述べていま
す。これ以外にはありません。
第二テサロニケは1章7節で、キリストが天から現われるという同じことばを使っています。第一ペテロ1章7と13節もまたそれを使っています。そして天か
ら現われるという言い方は疑いなくキリストの再臨に関する言及です。過去派の立場だけが、現代のペンテコステ運動に対する首尾一貫した論駁を保つことが可
能なのです。過去派は正典は紀元70年までに完成したという節を支持します。そしてその時に主は天に現われたことをも主張します。数千年も前に滅ぼされた
町のコリント人たちがどのようにして今日、賜物に欠けることがあり得るでしょうか?その存在自体が欠けているのに。すでに主は天から現われたのか、そうで
なければこのみことばは聖書の霊感に疑義を挟みます。それに関して他の説はないのです。主はコリントが滅びる前に戻られなければなりませんでした。
1 テサロニケ
4:17 -「次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。」
これはここで私が選んだとても興味深い箇所です。なぜなら、これは未来派の人々が信じている間違いなく私たちのこの時代からみた未来のキリストの再臨の文
脈のま
さに中心だからです。もちろん、彼らの見解は「それが起こらなかったのだから、まだ成就していない」という考えを土台としています。
パーシャル・プレテリストがプレテリストに直面するときに戻るプレミレの考えです。しかし、この文脈のこの節は教えられた考えを土台にして解釈をすべきで
ないことと、自分の考えに合わせようとすべきではないことのジレンマを私たちにもたらします。
パウロが起こるだろうと言った時に目を向け、私たちの考えを時間の制約の中におくときましょう。これが解釈学の法則である「不明瞭な箇所はより明瞭な箇所
によって解釈する」ということです。パウロがこの箇所はいつ成就するか語ったことは明らかです。テサロニケの人々はキリストの再臨(4:13)前に死ぬ人
々について気に留めていることは明らかです。ですから、パウロはキリストが再臨される時、死んだ人々が復活を通して、パルーシアの恩恵を受けないことはな
いだろうと彼らを慰めるために書きました。しかし大切なことはその日が来るまでに、すべてのテサロニケ人が死ぬのではないということです。15節で、パウ
ロは生き残っている私たちと言っているだけではなく、彼が手紙を書いている時に生きている人々の何人かは主の再臨まで生き残こると言っています。これは誤
解のしようがないことばです。もしパウロが「生き残っている私たち」と言っただけなら、未来のあるグループの人々に言及している可能性もあります。しか
し、パウロが手紙を書いているその時に生きている者たちの幾人かは再臨まで生き残るだろうと言っている事実は他の意味を持つ可能性を排除します。そして、
これが決してパウロによる他に類のないことばの使い方なのです。パウロは第一コリント15章51節で言いました。
「私たちはみなが眠ってしまうのではなく。」
ここでコリントの人々にも同じ状況を述べながら、パウロはコリントで今生きている人々は最後のラッパが鳴り響く前に、すべての人が死ぬのではないと語りま
す。キリストご自身がその時に生きている世代が過ぎ去る前に、ラッパが鳴ると言われました(マタイ24:31,34)。そしてテサロニケでもその時生きて
いる人々がみな死ぬ前にラッパは鳴るのを見ます(1テサロニケ4:16,17)。
ヘブル 10:25
-「ある人々のように、いっしょに集まることをやめたりしないで、かえって励まし合い、かの日が近づいているのを見て、ますますそうしようではありません
か。」
へブル書はキリストの再臨に関する差し迫った表現で満ち溢れた書簡です。この書簡は最初の節から、彼らが終わりのときに生きていることを宣言する節で始め
られています(1:1,2)。9章26節では、彼らが時代の完成の時に生きていると言われています。そして来るべき日が近づいているのを見るのだから、お
互いに励まし合いなさいとこの箇所に来て語るのです。事実、彼らはそれが非常に近いことを理解していたので、「今日と言われている間に日々お互いに励まし
合うべきなのです。もしそれが切迫した表現でないなら、何であるというのか私には分かりません。しかしそれがすべてだというわけではありません。10章
37節で著者はなぜこの切迫したことばをキリストの再臨に用いているのかを確認しています。
「もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。おそくなることはない。」
検討すべきもっとたくさんの節がありますが、簡単に、また短くしたいと思います。以下は新約聖書におけるより切迫したことが分る検討すべき節のリストで
す。
1.) マタイ 26:64
2.) 1 テモテ 6:14
3.) 1 ペテロ 1:13
4.) 1 ヨハネ 2:28
5.) 使徒行伝 2:16,17,20 - これは主の日の前に起こるべきことであった。
6.) 1 ペテロ 4:5 - 彼は裁く準備をしておられる。
7.) ローマ 13:11-12 - その日は近い。
8.) ヘブル 6:11 - その時生きている人々は最後まで熱心であるべきである。
9.) 黙示録 1:1
10.) 黙示録 2:25 - テアテラはキリストが来られるまで持っているものをしっかりと持ち続けるべきである。
11.) 黙示録 22:6
12.) 1 コリント 7:28-31 - 世は過ぎ去る、時は短い。
13.) 1 ヨハネ 2:15-18 - 終わりのとき
これらの箇所とその他もっと多くの箇所は再臨について教えているし、それが一世紀に近づいている関連した出来事であるのに、時間はその意味を伝えているの
ではなく、その出来事が起こることの確かさを語っていると主張することで切迫したことばの意味を否定しようとする人々がいます。この議論は切迫していない
ことばについての意味を考えるならばかげていることが分ります。もし「近づいている」というようなことばが、単に確かさを意味するのならば、「近づいてい
る」ことではないこととか、長い間ということが意味することは何になるのでしょうか?それによってある出来事は確かに起こることではないということを意味
するのでしょうか?いかなる種類のものであれこの議論の根本は、キリストが新約聖書の著者たちが書き記したすぐ後に再臨されるべきであったと聖書が教えて
いるというのを否定することなのです。彼らは根本的には、時間に関する預言的ことばは不明瞭であり、柔軟性のあるものだと言っているのです。けれども問題
はそれは聖書的ではないということです。神が人に何かが近いと言われるとき、それは神に関するときを語っておられるのではなく、人に関して語っておられる
のです。近いというのは神にとってではなく、人にとって近いという意味です。聖書はこれに関してはっきりしています。
まず初めに注意しなければならないのは、「近い」ということばは基本的に神の約束である預言の中に含くまれていることです。そのことば自体が約束であるの
に、神はなぜ近いということが確かさであるという意味を重複させられるのでしょうか?預言が約束であるということはことばに重複性を与えることなしに、そ
の意味を確かにさせるに十分ではないということがありえるでしょうか?
第二に、神が預言をされ、近いと言われたのに、すぐに起こらなかったら、預言は成就しなかったということです。どうしてでしょうか?起こるといわれた時間
設定の内にそれが起こらなかったからです。あまりにも遅くおこった預言の成就に見える出来事は成就ではありえません。このことは聖書の霊感に疑問を投げか
けるのです。
さて、上記の「近づいている」ということばが正確にそれを意味することを証明しましょう。もし「近い」ということばが2000年もの期間を意味し、神が言
われるその出来事が長い間起こらなかったとしたら、それは何を意味するのでしょうか?それとも3000年を意味するのでしょうか?4000年でしょうか?
地球の年齢が6000年の擁護者たちには、
神がすぐにと言われた出来事が2000年以上も経つことを認める訳にはいかないのです。神がその出来事が長期間経ってから起こると言われたならまだしも、
彼らは全歴史をたったひとつやふたつの出来事で使い果たしてしまうつもりなのでしょうか?
例えば、新約聖書でバプテスマのヨハネも、キリストも、使徒たちのすべてが神の国は近づいたと教えたこと(マタイ3:1、4:17、10:7)に私たちは
気付くべきです。もし近いと言うことばがただ確かなことやいつか起こることだという意味ならば、神の国が近いことを私たちに教える旧約聖書の箇所もひとつ
もないことになります。ダニエル2章28節で、近くはありませんが、神の国が終わりの日に現われることを教えられます。これはダニエルの時代には神の国は
確かではなかったという意味なのでしょうか?いいえ、違います。キリストが最初に来られたとき、彼らは終わりの日に入りました。それゆえ神の国はまさに近
づいていたのです(へブル1:1)。ダニエルにとって神の国は長くかかってくるものではありませんでした。神がそう言われたからです(ダニエル10:
14、8:26)。
ある人々は神が近いということばを用いられたとき、実際は2000年以上経つことであり、それは神がうそをついておられるのではなく、神にとっては一日は
千年のようであり、千年は一日のようであるという議論を試みます。ですから神にとっては近いのですが、人にとってはそうではないと。もう一度、神が長くか
かると言われたことばを考えてみるとこの議論は破綻します。民数記24章17節で、バラムはキリストが来られるのを見ました。バラムは見たのですが、それ
はすぐではありませんでした。キリストは来られるのですが、その時(今)ではありませんでした。キリストが来られたのは、確かにそんなに長期間経っていな
い、すなわち1400年経ってからだという事実を無視して間近ではないと言ったのでしょうか?なぜなら、神は自分自身に語っておられるのではなく、人に
語っておられるからです。人にとっては1400年はとても長いのです。
ダニエル書10〜12章は紀元前536年から紀元70年までの幻です。ダニエルは2度「定めの時は遠い」、「幻は来るべき日々に言及している」と語られて
います(10:1、14)。神はこれらのことがすぐに起こるとか、いつでも起こりえるとは言われませんでした。これはたった600年後のことです。しかし
神はそれを長期間だと言われるのです。未来派の人々によると、神にとってはたった神の千年という期間の半分少々でしかないのに、神にとってはそれほど長く
はないのに。なぜならそれは人のために言われているからです。
また、ダニエル8章に関して、ディスペンセーショナリストのマーヴィン・ペートでさえもアンティオコス・エピファネスによって成就した365年後のことを
神が多くの日の後と言われたと語っています(8:26)。神は365年を長期間と言われるのに、未来派の人々によると千年は一日の理論によってそれは12
時間以内ということになります。彼らはどのように平気な顔で、神は365年を長いと言われるのに、2000年は近いと言うことができるのでしょうか?これ
は神の首尾一貫した時間表現をばかにすることです。これですべてではありません。エレミヤ29章10節では、私たちの知っているバビロン捕囚は70年間だ
と書かれています。しかし、28節では70年は長いと書かれています。神にとってはそれは数時間です。しかし人にとって、それは平均寿命ほどであり、長い
ことなのです。
キリストの教会のある人々は聖書が人々に時間表現の意味を人々が変えようとする例があることを知っています。それはエゼキエル7章です。神はイスラエルに
主の日(これはバビロン捕囚のこと)は近いと言われました。神はそれが近いことは明らかにしておられます。
1.) 終わりが来た(v.2)
2.) あなたに終わりが来た (v.3)
3.) わざわいが来る (v.5)
4.) 終わりが来る(v.6)
5.) あなたの上に終局が来る。その日は近い。(v.7)
6.) 今、わたしはただちに、憤りをあなたに注ぎ、あなたへの怒りを全うする。(v.8)
7.) 見よ。その日が来る。花を咲かせる。(v.10)
8.) その時が来た。その日が近づいた。(v.12)
だれがそれが近いことを否定できるでしょうか?しかし、11章では、神はイスラエルが「まだ近くない。家を建てる時間がある。」と言っていると語られまし
た(3節)。それはまるで、そうです、エゼキエル。時間は近いですが、結局ダビデが詩篇90篇4節で言ったように、主にとっては千年は一日、一日は千年で
す。」と彼らが言っているようです。事実、彼らはそうだったのです。エゼキエル12章22節で彼らはこのように言いました。
「日は延ばされ、すべての幻は消えうせる。」
しかし神は彼らに彼らが近いという表現を不明瞭にし、無意味にしていると彼らに教えることで答えておられます。23〜25節で神はこれを逆転させ、以下の
ように語られます。
1.) その日は近づき、すべての幻は実現する。(v.23)
2.) あなたが生きているうちに、わたしは言ったことを成就する。(v.25)
イスラエルは「彼が見ている幻はずっと後のことについてであり、はるか遠い将来について預言しているのだ。」(28節)と言いました。神はそれに答えて、
「わたしが言ったことはすべてもう延びることはなく、必ず成就する。」(28節)と言われました。みなさん、このような未来派の偽預言者のことばを聞いて
はいけません。主に聞きましょう(エゼキエル13:1)。未来派の人々はエゼキエル7章でイスラエルが犯したと同じ過ちを犯し続けているのです!新約聖書
の時間表現はエゼキエル書のそれと同じです。
1.) 必ず来る御怒り (マタイ 3:7; エゼキエル 7:8)
2.) 裁きが始まる時が来ている(1 ペテロ 4:17; エゼキエル 7:8)
3.) 終わりはその時代に来る(マタイ 24:34; エゼキエル. 7:2,3)
4.) 御怒りガ彼らに臨んでいる(1 テサロニケ 2:16; エゼキエル 7:7)
5.) 世の終わりに臨んでいる (1 コリント 10:11; エゼキエル 7:6)
このリストはまだまだ続きます。近づいているというのは近いと言う意味であることは明らかです。私はこれを神のことばから話しました。未来派の罠にかから
ないでください。過去派こそ答えなのです。
※
この小論文はThe Preterist Archiveのトッド・デニス師の許可をいただいて翻訳掲載しています。許可なく無断掲載を禁止します。