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プレテリズムへの道


by: Akinori Taniguchi

●    1970年代、私の小学生・中学生のころはノストラダムスの大預言が流行っていました。それは五島勉という人が「ノストラダムスの大予言」という本を出したからです。シリーズで何冊もでましたが、80年代、90年代と何度かノストラダムス・ブームがやってきたようです。第一次ノストラダムス・ブームに小学生高学年か中学生だった私は、まじめに1999年を恐れました。同じ経験をしたことが、さくらももこの「ちびまるこちゃん」にあります。 UFOや超能力などオカルト系のものがこのころから流行りだしたのだろうと思います。今ならそれが社会的な病理のゆえであることが分かりますが、子どもの私には分かるはずもなく、ただ好奇心と怖さを感じずにはおられなかったのです。

●    1976年中学3年生の時にクリスチャンになって聖書を読み始めました。福音書は中学生の私でも比較的分かり易かったのですが、パウロの手紙など新約聖書も中盤から後半に来るとだんだんと難しくなりました。そしてヨハネの黙示録に至っては、ほとんどSFの世界であり、映画の世界でした。将来こんなことが起こるのかと勝手に思っていたように思います。私の出身教会では、それほど世の終わりについてメッセージで話されていたようには思いませんが、特別な集会や聖会と呼ばれる集まりでは、よく世の終わりについて聞いたように思います。

●    その頃は、黙示録は未来の出来事が書かれていること、黙示録の解釈に関して他に説があるとは少しも考えませんでした。1984年聖書学校に入学をしました。そのころ、ちょうど中東問題研究所の宇野正美という人がビジネスマンを相手にユダヤ人問題、世界の情勢、聖書の預言を講演してたくさんの聴衆を集め、一般書店から何冊も本を出すぐらいに有名になっていました(現在でも活躍しておられるのでしょうが)。同じ頃、聖書学校にいた仲間たちの影響を受け、宇野正美の講演テープをダビングして回し聞きするようになりました。(実際、私の母は、弟が聞いていたテープを横で聴いて、これはいかんと教会に行くようになり、救われました。・・・お母さんが救われたのだから、未来派解釈もいいのではないかというのは別問題です。)月刊誌「エノク」を購読し、本を買い、学びました。そのころ、80年代後半が要注意(携挙、大患難)だと言っていたと思います。

●    私が牧師になろうと決心したのも、世の終わりがもう間もなく来るのなら、大学に進学する意味はない、伝道しなければと考えたからでした(これは私のように超まじめなクリスチャンならたどり着く結論でしょう?)。私は完全に黙示録は将来起こる出来事で、その解釈に完全に浸っていたのです。

●    1987年に日本の聖書学校を卒業し、アメリカの聖書学校に行きました。そのころ「88の理由、なぜ携挙は1988年に起こるか?」という本が元NASAの科学者が出してベストセラーになりました。しかし、88年の予定の日になっても何事も起こりませんでした。彼は「計算が間違っていた。88年じゃなくて89年だ。」と言いましたが、それも間違っていました。1830年代に起こったこの新種の教えは、ブレザレンのジョン・ネルソン・ダービーやスコフィールド聖書で有名な、C・I・スコフィールドによって、またその頃の世界情勢と相まって、瞬く間に福音派クリスチャンの間に広がりました。しかし、この約170年間は聖書の預言を未来派の解釈をほどこしたために出てきた数多くの年代設定の偽預言解釈の繰り返しだったのです。何度も愚かなことを繰り返しながらもこの新種の聖書解釈の間違いに気づかずに来たのです。そしてなおもその間違いの中に多くの人たちがいます。さて、アメリカ留学中に、私は黙示録の違う読み方に出会ったのです。それも、私が信じていた「黙示録の未来的読み方」ではなく、「黙示録は当時の人々にとって未来の出来事」(私たちにとっては過去の出来事)という読み方でした。未来派の人々は「聖書を字義的に読む」ことを主張しますが、実際に字義的に、文字通りに聖書を読んでいる訳ではありません。過去派は「聖書を象徴的に解釈する」から間違っていると非難されますが、過去派は「すぐに、まもなく」と書かれている時間設定された預言を文字通り信じるのです。大切なことは、「聖書は聖書によって解釈する」という歴史的キリスト教の聖書解釈学の大原則です。黙示録を私たちの時代の未来のことと読む読み方をする人々が、まじめなクリスチャンではない訳ではありません。いえ、まじめなクリスチャンたちです。しかし、まじめに間違ったことを信じていることはイエスキリストの喜ばれることではありません。私たちは使徒行伝17章のベレヤの人たちのようになりましょう。聖書を開いて、聖書を解釈していくのです。偉い先生たちの意見だけを鵜呑みにしてはいけません。聖書の預言を新聞紙を開いて解釈してはいけません。あなたや私が何歳であろうとも、何歳になろうともいつも「聖書を学ぶ学生」であろうではありませんか!


兄弟たちは、すぐさま、夜のうちにパウロとシラスをベレヤへ送り出した。ふたりはそこに着くと、ユダヤ人の会堂に行った。ここのユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも良い人たちで、非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた。そのため、彼らのうちの多くの者が信仰に入った。(使徒行伝17章10から2節)




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