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The Resurrection From The Dead.
By Pastor David Curtis
Philippians3:11

死者の中からの復活

By:デイヴィッド・カーティス牧師(ベレアン聖書教会)



 今朝、私たちは聖書が教える復活について学びたいと思います。パウロはピリピ3章で死者の中からの復活に達するために、自分自身の義を捨て、ただキリストだけに完全に信頼すると語っています。


「どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。」(ピリピ3章11節)


 パウロは何を意味していたのでしょうか?復活とは何なのでしょうか?今朝、これらの疑問に答えを出してみたいと思います。


 この箇所の内容を復習して始めましょう。ピリピ3章4〜11節のテーマは「信仰による義認」です。ここでの鍵になる箇所はピリピ3章9節です。

「キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。」

 8節でパウロはキリストを得るために、もはや自分の義に頼らないと言っています。9〜11節では、キリストを得るとはどういう意味かを話しています。9節で、キリストを得るとはキリストの義を受けとるという意味だと言います。そして、10,11節で、キリストを得ることの意味をさらに説明しています。10節に書かれていることはみな義認の結果だと思われます。キリストを得るとは、キリストの義を受け、キリストを知り、復活の力を知り、苦しみを共にすることを知り、罪に死ぬことによってキリストのようにされることを意味します。

「どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。」(ピリピ3章11節)

 パウロは死者の中からの復活に達するために、いっさいのことを損に思い、それらをちりあくたと思っていました。パウロが復活ということばとしてここで用いているギリシャ語は「エクスアナスタシス」です。これは新約聖書ではここでだけ使われていることばです。それは、「アナスタシス」、復活という意味です。それに「外に」という接頭語の「エクス」がついています。文字通りには「死体から外に復活する」ということです。

 この節は、義人の復活について語っています。義人の復活は死者の中から義人たちを連れ出すことです。

 Robertson's Word Pictures in the New Testamentでは、「明らかにパウロはここで、死人の中から信者だけの復活を考えています(2回「エクス」が用いられています。)。パウロはこのことばによって一般的な復活を否定しているのではなく、信者の復活を強調しています。」とあります。

 パウロにとって「復活」の正確な意味は何だったのでしょうか?ほとんどの教会の伝統的な見解とはこれです。「信者が死んだとき、その肉体は墓に行き、霊は主とともにあるために天国に行きます。終わりのときの復活を待つために、肉体を脱ぎ捨てた状態にあります。そして終わりのときに主は戻って来られ、すべての死んだ聖徒たちの腐敗した体は復活して、元に戻り、肉体的に復活した体は、キリストのような霊的な不死の体に変えられます。」これが私たちがずっと教えられてきたことではないでしょうか?

 どのようにして主はこれらの腐敗した肉体を元に戻されるのか考えたことがあるでしょうか?キリストは死に際してひとりひとりの肉体を構成していた、今は散らされてしまった原子や分子のすべてを再び集め、再構成されるのでしょうか?M・C・テニーが自著「復活の事実」で取り扱っている問題があります。

 ロードアイランド植民地の設立者であるロジャー・ウィリアムスの肉体を埋葬し直すために墓から掘り出されたとき、りんごの木の根が棺おけの頭の部分を貫通して、足のところで枝分かれした脊椎にまで達していることが発見されました。その木は腐敗した肉体の化学物質を吸収し、それを木と果実に変えました。次にりんごは、 死んでしばらくたつウィリアムスの肉体の組織の一部を間接的に摂取しているという事実に全く気づかない人々に食べられました。ですからここで、持ち上がる難問は、複雑な腐敗の段階の連鎖、そして何かへの吸収、新しいものへと構成されて行くと言う状態から、どのように過去の時代の信者たちを復活させ、区別された存在として再構成できるのかということです。この原子と分子の共同所有権の問題は大きな難問です。死後、さまざまな肉体の粒子はちりに返り、食物連鎖のサイクルに取り込まれ、植物に吸収され、動物たちが食べ、数え切れない人々の体に消化されていきます。復活のとき、だれがどの分子と原子を得るのでしょうか?このように、問題はかなり複雑です。もうひとつ私を悩ませることは、神が腐敗した私たちの肉体をよみがえらせて、朽ちない霊的からだに変えるためだけにすべてのものを元通りにされるのはなぜかということです。


 これが基本的に復活について教会が教えていることです。しかし、聖書はそのように教えているのでしょうか?パウロはイスラエルの希望としての復活をはっきりと教えました。

使徒行伝23章6節「しかし、パウロは彼らの一部がサドカイ人で、一部がパリサイ人であるのを見て取って、議会の中でこう叫んだ。『兄弟たち。私はパリサイ人であり、パリサイ人の子です。私は死者の復活という望みのことで、裁きを受けているのです。』」

使徒行伝24章15節「また、義人も悪人も必ず復活するという、この人たち自身も抱いている望みを、神にあって抱いております。」

使徒行伝28章20節「このようなわけで、私は、あなたがたに会ってお話ししようと思い、お招きしました。私はイスラエルの望みのためにこの鎖につながれているのです。」

使徒行伝26章6〜8節「そして今、神が私たちの先祖に約束されたものを待ち望んでいることで、私は裁判を受けているのです。私たちの十二部族は、夜も昼も熱心に神に仕えながら、その約束のものを得たいと望んでおります。王よ。私は、この希望のためにユダヤ人から訴えられているのです。神が死者をよみがえらせるということを、あなたがたは、なぜ信じがたいこととされるのでしょうか。」

 「復活」ということばは旧約聖書には出てきませんが、その概念はあります。

ダニエル12章2節「地のちりの中に眠っている者のうち、多くの者が目をさます。ある者は永遠のいのちに、ある者はそしりと永遠の忌みに。」

ダニエル12章13節「あなたは終わりまで歩み、休みに入れ。あなたは時の終わりに、あなたの割り当て地に立つ。」

ここで、時代(時)の終わりの復活を見ます。


聖書の復活観



 興味深いことに、聖書は「復活したからだ("resurrected body")」、「からだの復活( "resurrection of the body")」、 または「肉体の復活("physical resurrection" )ということばを用いていません。このことはあなたを驚かせるでしょうか?教会はこのような表現をよく使ってきましたが、聖書は決して使っていません。聖書が用いているのは「死者の復活("the resurrection of the dead" )や「死者の中からの復活( "the resurrection from the dead" )です。

 ですから、「復活」を理解するために、私たちは死を理解しなければなりません。復活は「死者の中からの復活」なのです。死について理解するために、始まりの書である創世記に行く必要があります。創世記で神が人を創造されました。

「その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。神である主は、東の方エデンに園を設け、そこに主の形造った人を置かれた。」(創世記2章7,8節)

 神は人を造ってエデンの園に置かれ、命令を与えられました。

「神である主は、人に命じて仰せられた。『あなたは、園のどの木からでも思いのままに食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。』」(創世記2章15〜17節)

 神はアダムに「善悪を知る知識の木から取って食べると、その日に死ぬ」という警告を与えられました。しかし、アダムはそれに従わずに食べてしまいました。

「そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。」(創世記3章6節)

 アダムは食べたその日に死んだでしょうか?肉体的には死んでいません。アダムは少なくとも800年、食べたその日から生きました。しかし、神は食べたその日に死ぬと言われました。神はうそつきではありません。アダムはその日、肉体的には死にませんでした。しかし、霊的に死んだのです。不従順となったそのとき、霊的に死にました。霊的死とは神から離れた状態です。

「見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ。」(イザヤ59章1〜2節)

「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中を生き、肉と心の望むままを行い、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、−あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。−」(エペソ2章1〜5節)

 罪のゆえに人々は神から引き離されています。咎と罪のゆえに死んでいるのです。神の贖いの計画の中心は、イエスキリストを通して人間がアダムにあって失ったものを回復することです。

「こういうわけで、ちょうど一つの違反によってすべての人が罪に定められたのと同様に、一つの義の行為によってすべての人が義と認められて、いのちを与えられるのです。すなわち、ちょうどひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです。」(ローマ5章18,19節)

「というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。」(1コリント15章21節)

 アダムの罪のゆえに私たちはみな死んだものとして生まれます。神から離れた者として生まれます。しかし、イエスキリストを通して、死からの復活が来るのです。イエスキリストは悪魔の業を打ち砕くために来られました。

「罪のうちを歩む者は、悪魔から出たものです。悪魔は初めから罪を犯しているからです。神の子が現われたのは、悪魔のしわざを打ち壊すためです。」(1ヨハネ3章8節)

 悪魔のしわざとは何でしょうか?それは人を神から引き離すことですイエスキリストは死から人を贖うために来られました。神の臨在に人を連れ戻すために来られました。聖書は神の本です。神が造られたものと霊的なつながりを回復するための計画についての本です。復活とは単に、死者を墓から肉体的に生き返らせることではありません。神の臨在に人々を回復させることです。

シェオルとハデス

 イエスのメシア的御業の前までは、だれも天に上った者はいませんでした。

「だれも天に上った者はいません。しかし天から下った者はいます。すなわち人の子です。」(ヨハネ3章13節)


 イエスのメシア的御業の前までだれひとり天に上った者がいないなら、死んだ人々はどこに行っていたのでしょうか?それは死者をとどめ、キリストの贖いの業と死者の復活を待つための場所です。


 旧約聖書ではへブル語でそれを「シェオル」と呼び、新約聖書ではそれを「ハデス」と言います。これは肉体を離れた霊のための待合室でした。


 旧約聖書は「シェオル」ということばを地の深いところとして言及しています。「下って行く(go down, brought down)」という表現がシェオルと関連して20回も使われています。「シェオル(よみ)の深み」という表現は6回使われています(申命記32章22節、詩篇86篇13節、箴言9章18節、15章24節、イザヤ28章15,18節、ホセア13章14節、ヘブル2章5節)。シェオルはまた、おしよせる流れ、水、波(ヨナ2章2〜6節)の表現を用いて描写されています。時々、シェオルは獲物を得るためのわなを設置するハンター、縄で縛り、生けるものの地から奪い去ることとして描写されています(2サムエル22章6節、ヨブ24章19節、詩篇116篇3節)。シェオルは囲いのある牢獄で、そこから元の場所へ戻れないところです(ヨブ7章9節、10章21節、16章22節、21章13節、詩篇49章14節、イザヤ38章10節)。人々は生きたままシェオルへ行くことがありました(民数記16章30、33節、詩篇55篇15節、箴言1章12節)。


 ユダヤ人の伝承によると、そこは「アブラハムのふところ」としても知られています。死のときに忠実なイスラエルは「彼の父たちと集められた」と言われています。その場所が何と呼ばれようと、そこは天国ではありません。


「兄弟たち。先祖ダビデについては、私はあなたがたに、確信をもって言うことができます。彼は死んで葬られ、その墓は今日まで私たちのところにあります。」(使徒行伝2章29節)


「ダビデは天に上ったわけではありません。」(使徒行伝2章34節)


 ダビデは死にましたが、天国には行きませんでした。しかし、いつかそこに行くことができるという約束をもらいました。神はその民を墓から贖う約束をされたのです。


「わたしはよみの力から、彼らを解き放ち、彼らを死から贖おう。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。よみよ。おまえの針はどこにあるのか。あわれみはわたしの目から隠されている。」(ホセア13章14節)


「しかし神は私のたましいをよみの手から買い戻される。神が私を受け入れてくださるからだ。」(詩篇49篇15節)


 この節は神が墓を越えた救いを与えるという、旧約の死後のいのちに言及している箇所のひとつで、希望を現わしています。この節は死後のいのち、永遠のいのち、、そして神から来る救いという明白な新約の教えを期待しています。


 もっとも初期のクリスチャンたちは、これをキリストの復活に言及していることと理解しました。まさに起こっている危機の中で、神の摂理的な配慮として詩篇記者が
理解したことは、イエスが理解されたことであり、神の究極の配慮と死からいのちに移らせる力でした。

 すべての人は死んだらシェオルに行くことを信じていました。

「いったい生きていて死を見ない者は、だれでしょう。だれがおのれ自身を、よみの力から救い出せましょう。」(詩篇89篇48節)

 シェオルから取り上げられ、主の臨在の中に連れて来られることは、聖書が言うところの復活です。ダニエルはこのように言っています。

「地のちりの中に眠っている者のうち、多くの者が目をさます。ある者は永遠のいのちに、ある者はそしりと永遠の忌みに。」(ダニエル12章2節)

「あなたは終わりまで歩み、休みに入れ。あなたは時の終わりに、あなたの割り当ての地に立つ。」(ダニエル12章13節)


復活の時期

 聖書によるといつ復活は起こるのでしょうか?聖書は復活の時期は旧約時代の終わりであると証言しています。私たちはそれが紀元70年のユダヤ人の神殿の崩壊とともに起こったと理解しています。弟子たちは神殿の崩壊とエルサレムの破壊は旧約時代の終わりであり、新しい時代の到来であることを知っていました。

「その時、あなたの国の人々を守る大いなる君、ミカエルが立ち上がる。国が始まって以来、その時まで、かつてなかったほどの苦難の時が来る。しかし、その時、あなたの民で、あの書にしるされている者はすべて救われる。地のちりの中に眠っている者のうち、多くの者が目をさます。ある者は永遠のいのちに、ある者はそしりと永遠の忌みに。」(ダニエル12章1、2節)

 ダニエルはこの復活はユダヤ国家が大変な苦しみの時を通った後に来るだろうといいました。それは以下のことに似ています。

「そのときには、世の初めから、今に至るまで、いまだかつてなかったような、またこれからもないような、ひどい苦難があるからです。」(マタイ24章21節)

 ここでイエスはエルサレムの崩壊について話しておられます。

 ダニエル12章3節も見てみましょう。

「思慮深い人々は大空の輝きのように輝き、多くの者を義とした者は、世々限りなく、星のようになる。」

 これを以下の箇所と比較してみましょう。

「ですから、毒麦が集められて火で焼かれるように、この世の終わりにもそのようになります。人の子はそのみ使いたちを遣わします。彼らは、つまずきを与える者や不法を行う者たちをみな、御国から取り集めて、火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。そのとき、正しい者たちは、天の父の御国で太陽のように輝きます。耳のある者は聞きなさい。」(マタイ13章40〜43節)

 ダニエル12章とマタイ13章はともに紀元70年のエルサレムの滅亡について語っています。復活は紀元70年に起こった出来事なのです。

 ダニエル12章4、8節は、この時を「終わりの時」であるとしています。

「ダニエルよ。あなたは終わりの時まで、このことばを秘めておき、この書を封じておけ。多くの者は知識を増そうと探し回ろう。」

「私はこれを聞いたが、悟ることができなかった。そこで、私は尋ねた。『わが主よ。この終わりは、どうなるのでしょう』」

 6節の終わりのダニエルの「この不思議なことは、いつになって終わるのですか?」という質問に対して、天使は答えました。

「それは、ひと時とふた時と半時である。聖なる民の勢力を打ち砕くことが終わったとき、これらすべてのことが成就する。」(ダニエル12章7節)

 これもまた、紀元70年のエルサレムの滅亡について語っています。12節でダニエルが復活をあらす憎むべきものとのつながりを示しています。

「常供のささげ物が取り除かれ、荒らす憎むべきものが据えられる時から千二百九十日がある。」(ダニエル12章11節)

 イエスはマタイ24章15節で、エルサレムの滅亡について語りながら、これに触れています。ダニエル書の最後の節はダニエルに与えられた個人的復活についての約束が記録されています。

「あなたは終わりのときまで歩み、休みに入れ。あなたは時の終わりに、あなたの割り当ての地に立つ。」(ダニエル12章13節)

 1、7、11、そして12節は紀元70年のエルサレムの滅亡と復活の時期を結びつけています。

 ダニエルが書いたことは、ユダヤ人の考えにしっかりと染み付いたことです。イエスがマルタとマリヤに話されたことは、いつ復活が起こるかということであることに疑問の余地はありません。

「イエスは彼女に言われた。『あなたの兄弟はよみがえります。』マルタはイエスに言った。『わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。』」(ヨハネ11章23、24節)

 イエスは復活は終わりの日に起こると教えられました。

「私を遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。」(ヨハネ6章39,40節)

「わたしを遣わした父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできません。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。」(ヨハネ6章44節)

「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。」(ヨハネ6章54節)

 終わりの日とはいつでしょうか?ユダヤ人にとっては時間は二つの大きな時期に分かれています。モーセの時代とイエスの時代です。メシアは新世界をもたらす方とみなされていました。それゆえ、シナゴーグでは、メシアの時代は「来るべき世」として特徴付けられていました。新約聖書全体を通して、私たちはこの二つの時代のコントラストを見ます。「この時代」と「来るべき時代」です。

「キリストは、世の始まる前から知られていましたが、この終わりの時に、あなたがたのために、現われてくださいました。」(1ペテロ1章20節)

 イエスは旧約時代、ユダヤ人の時代の終わりの日に来られました。そしてその時代は紀元70年の神殿の崩壊で終わりを迎えました。

「神は、むかし先祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。」(へブル1章1,2節)

 イエスは終わりの日について話されました。終わりの日とは何でしょうか?聖書が言うところの「この時代」、すなわち旧約時代の終わりの日です。

「もしそうでなかったら、世の初めから幾度も苦難を受けなければならなかったでしょう。しかしキリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。」(へブル9章26節)

 イエスが現われたのはいつでしょうか?イエスは、その時代の始まりではなくて、終わりに生まれられたのです。イエスは肉体を持ってこの世界の終わりに来られると考えるのは、イエスが言われたことは間違っていたと考えることです。世界は出エジプトから神殿の崩壊までのモーセの経綸の全期間よりも、キリストの受肉からの期間の方がより長く続いています。イエスはユダヤ人の時代の終わりにお現われになったのです。

 7人の夫を持った女性に関するサドカイ人の質問に対するイエスの答えは、復活は時代の移り変わりとともに起こることだというものです。

「イエスは彼らに言われた。『この世の子らは、めとったり、とついだりするが、次の世にはいるのにふさわしく、死人の中から復活するのにふさわしい、と認められる人たちは、めとることも、とつぐこともありません。」(ルカ20章34,35節)

 復活は「この時代」(旧約時代)の人々に提供されているものではなく、「来るべき時代」(新約時代)の人々に提供されているものです。それは復活が新約時代のはじめに起こるということを意味しています。ですから、復活はユダヤ人の時代、ユダヤ人の時代の終わりに起こるべきことでした。そして、紀元70年に起こったのです。

 パウロは自分の時代に復活が近づいていることを話しています。

「また、義人も悪人も必ず復活するという、この人たち自身も抱いている望みを、神にあって抱いております。」(使徒行伝24章15節)

 もし、復活の時期が紀元70年であるならば、復活の性質は物質的、肉体的であるよりも霊的であることが分かります。時が性質を定義するというのは終末論の基本的事実です。復活はすでに過去の出来事ですから、それは肉体的であはなく、霊的であることが分かります。紀元70年の旧約時代の終わりに起こった死者の復活は、死んだ後腐敗した体の生物学的復活ではなく、天の王国に住む神と、もう一度結び合わされるために、何世紀も待っていたすべての人々をシェオルから解放することだったのです。

 ヒメナオとピレトの教えから、初代のクリスチャンたちが復活について信じていたことをいくつか学ぶことができます。

「彼らの話は癌のように広がるのです。ヒメナオとピレトはその仲間です。彼らは真理からはずれてしまい、復活がすでに起こったと言って、ある人々の信仰をくつがえしているのです。」(2テモテ2章17,18節)

 彼らは復活は本質的には霊的なものであると信じていたに違いありません。ですから、どのような物質的な証拠による確認をも必要条件としていなかったのです。もし、初代のクリスチャンたちが、今日教えられているように復活には肉体が墓から出てくることが含まれていると信じたならば、ヒメナオとピレトは決して復活はすでに起こったとだれにも確信を与えることはできなかったでしょう。彼らは自分たちが復活に続くことがらとして、新しくされた地球に住むようになると信じていませんでした。そうでなければ、ヒメナオとピレトの教えは不可能だったでしょう。だれも彼らに注意を払わなかったに違いありません。復活はすでに起こったという彼らの教えが、ある人々の信仰をだめにした理由は、エルサレムに地上の神殿がまだ建っている一方で、霊的王国の完成を自明のこととしたことでした。これは律法と恵みの混同でした。これは律法の行いを新しい契約の一部とする人々の信仰を破壊しました。

キリストは肉体をもって復活されたのか?

 もちろんその通りです!これには疑いの余地はありません。それでは、キリストの復活が肉体をともなったものだったので、私たちの復活もそのようであるのでしょうか?いいえ、そうではありません。キリストの実際の復活は主がハデスに行って、返られたということです。キリストがハデスからよみがえられた時、元の体によみがえられました。もちろん天のかたち(フォーム)に変えられた体ではありました。これは使徒たちのためのしるしであり、キリストが約束されたことを成し遂げられたのです。キリストの復活の体は弟子たちへの魂の復活の証明でした。

 ダビデはこのように預言しました、

「まことに、あなたは、私のたましいをよみに捨ておかず、あなたの聖徒に墓の穴をお見せにはなりません。」(詩篇16篇10節)

 ペテロはダビデがキリストの復活を先に見て、語ったことについて述べています。

「それで後のことを予見して、キリストの復活について『彼は、ハデスに捨てて置かれず、その肉体は朽ち果てない。』と語ったのです」(使徒行伝2章31節)

 これらの箇所はどちらも霊的な死(ハデスにある魂)と肉体の死(肉体の腐敗)について語っています。

 私たちの復活とキリストの復活に違いがあるのはキリストの体と私たちの体の聖書的に定義された違いによります。違いとは以下のようなものです。

 キリストは完全に神であり、完全に人である唯一のお方・・・神の受肉(ヨハネ1章1〜18節)です。キリストは処女から生まれた唯一のお方で、原罪のないお方です(ローマ3章21〜26節、5章12〜21節、7章4〜11節、他)。キリストは罪のない生涯を送られた唯一のお方です(へブル4章15節)。キリストはその肉体が腐敗することがないと約束された唯一のお方です(使徒行伝2章27、31節)。

 キリストの人間としての体は原罪の影響を受けませんでしたし、堕落していませんでした(彼は完全でした。)し、罪を犯すことも、堕落されることもなかったのです。このために、キリストはご自身のその同じ体を保つことができましたが、私たちはそうではありません。

 イエスのお体が復活するまで、弟子たちはイエスの魂がハデスに行って、復活されるという確信を持つことができなかったのです。キリストの肉体の復活はそれに深くつながりのある霊的復活の証明になくてはならないものだったのです。


死の時に私たちには何が起こるのか?

 復活は過去の出来事ですから、クリスチャンが死んだ時、何が起こるのでしょうか?その肉体は元来た土に返ります。

「みな同じ所に行く。すべてのものはちりから出て、すべてのものはちりに帰る。」(伝道者3章20節)

「ところが、ある人はこう言うでしょう。『死者は、どのようにしてよみがえるのか。どのようなからだで来るのか。』愚かな人だ。あなたの蒔く物は、死ななければ、生かされません。あなたの蒔く物は、後にできるからだではなく、麦やそのほかの穀物の種粒です。しかし神は、みこころに従って、それにからだを与え、おのおのの種にそれぞれのからだをお与えになります。」(1コリント15章35〜38節)

「血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。聖書に『最初の人アダムは生きた者となった。』と書いてありますが、最後のアダムは、生かす御霊となりました。最初にあったのは血肉のものであり、御霊のものではありません。御霊のものはあとに来るのです。」(1コリント15章44〜46節)

 新しい契約の時代のキリストに信頼する者たちは、いのちを持っているのであり、復活させられる必要はないのです。

「イエスは言われた。『わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。』」(ヨハネ11章25〜26節)

 イエスは「私を信じる者はたとえ、(肉体的に)死んでも、(霊的に)生きる。そして、(肉体的に)生きている者は、私を信じるなら、(霊的に)決して死なない。」と言っておられるのです。

 二つの領域のクリスチャンについて語っています。それは、復活の前に死んだ人たちと、そうではない人たちです。旧い契約の下で死んだ人々のために、キリストは復活となられました。しかし、新しい契約のうちに生きている人々のために、キリストはいのちなのです。

 新しい契約の下には、霊的に言うならば、もはや死はありません。

「しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、『死は勝利に飲まれた。』としるされている、みことばが実現します。『死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。』死のとげは罪であり、罪の力は律法です。しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエスキリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。」(1コリント15章54〜57節)

「彼らの涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」(黙示録21章4節)

 死のないところに、復活の必要性もありません。私たちは永遠のいのちをもっているのであり、決して霊的に死ぬことはないのです。死のときに、私たちは霊的なからだをもって、すぐに天国に行くことができるのです。

 復活とは旧約の聖徒たちがハデスから連れ戻され、主と共にいるために最終的な死に打ち勝ったということがらに現わされた、一度きりの出来事でした。私たちは不死を着せられ、肉体的に死んだ時に不死のからだを着せられるのです。クリスチャンとして私たちは神の臨在の中に生きています。肉体の死において、私たちは単に肉を脱ぎ捨て、霊的領域に住むようになるだけなのです。



デイヴィッド・カーティス師はアメリカはヴァージニア州の単立教会、ベレアン・バイブル・チャーチの牧師。

このメッセージはカーティス牧師の許可を得て翻訳掲載しております。無断転載を禁止します。

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