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第2部
Is Jesus Coming Soon?

「大患難のタイミング」

by:ゲイリー・デマー




 マタイ24章1〜34節は中心的な預言箇所です。「終わりの時」という主題での最も熱い議題のひとつはこの箇所の解釈です。この小論文の目的はこの箇所の聖書の明白な教えを考察するようにクリスチャンを励ますことです。すでに持っている考えを横において、聖書で聖書を解釈するようにしなければなりません。結局、この方法こそが、神の言葉のどの部分をも理解するための唯一受け入れるべきやり方なのです(使徒行伝17:11)。

 聖書の文脈の中でマタイ24章を研究するとき、私たちが理解するために他の聖書箇所を用います。そうでなければ、マタイ24章1〜34節を過去派的に解釈することはできません。過去派解釈とは何でしょうか?過去派解釈は、マタイ24章1〜34節を含めた新約聖書のほとんどの預言箇所は紀元70年のエルサレムの崩壊のときに成就したとする教えです。過去派解釈とは単に「過去に起こった出来事」と解釈するという意味です。オリーブ山ではじめてイエスから預言を聞いた人々にとっては未来の出来事でしたが、私たちにはすでに成就した預言なのです。エルサレムの崩壊が中心的な預言的出来事であることに疑いの余地はありません。その出来事は、旧い契約の終わり・・・神殿、神殿での犠牲、旧い祭司制度の終わり・・・、そして新しい契約の始まりです。

 マタイ24章を含めたすべての預言を、より広い契約概念の光に照らして考えることは大切なことです。旧約聖書全体を通して、神はご自身の民と契約を結ばれました。彼らが神に忠実であるなら、神は彼らの神となられ、彼らは神の子どもとなったのでした。神はその民を守られ、必要なものをお与えになりました。彼らは神に従い、神の約束(特に贖い主の約束)に信頼する必要がありました。イエスはすべてのメシア預言の成就として地上に来られました。イエスは忠実なイスラエル人たちが何世紀にも渡って神じ、待ち望んできた救い主だったのです。しかし、イエスが地上でお働きになったとき、ユダヤ人の指導者たちは背教的になっていました。神が口から吐き出すと言われたように(黙示録3:16)、祭司たちはなまぬるくなっていました。福音書を通して、イエスが示された最も強い怒りは人が作ったきまりごとによって(マルコ7:1〜13)、神と神のいましめを拒絶した人々に対して向けられました。ユダヤ人の大多数が自分たちの王を受け入れることを拒み、十字架につけよと叫んだとき、究極的な拒絶が行われました。背教のユダヤ教は完全な神の子羊が殺され、捧げられた後でさえも、神殿での犠牲を続けることによってイエスを拒絶し、神を冒涜し続けたのです。

 ユダヤ人は神との契約を破棄し、霊的に破産してしまったので、裁かれました。神は背教のユダヤ教を切捨て、「実を結ぶ民族」(マタイ21:43)に神の国を与えられました。バプテスマのヨハネはマタイ3章7〜12節で、彼の時代の自己義認的宗教指導者に対して、告発状をもって指導を与えています。


しかし、パリサイ人やサドカイ人が大ぜいバプテスマを受けに来るのを見たとき、ヨハネは彼らに言った。「まむしのすえたち。だれが、必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか。それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい。『われわれの先祖はアブラハムだ。』と心の中で言うような考えではいけません。あなたがたに言っておくが、神は、この石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおでいになるのです。斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。私は、あなたがたが悔い改めるために、水のバプテスマを授けていますが、私のあとから来られる方は、私よりもさらに力のある方です。私はその方のはきものを脱がせてあげる値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。手に箕を持っておられ、ご自分の脱穀場をすみずみまできよめられます。麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。(マタイ3章7〜12節)


 まもなく起こるエルサレムの終焉に関して、福音書の中には他にもたくさんの預言的記述(マタイ21:33〜46、22:1〜14、23:31〜38)があります。イエスご自身が、拒絶するその国にもたらされる裁きのために、その時代(40年)のうちに戻って来られることを預言されました。イエスの死と復活の後、教会は引き続き来るべき怒りのために備えるように警告を発しました。しかし、ユダヤ人の指導者たちはイエスを拒絶し続けました。パウロはこのような「自分の罪を満たす人々、また御怒りが臨んで窮みに達している人々」(1テサロニケ2:16)としてユダヤ人たちのことを語っています。新約聖書の多くの箇所(ローマ12:11〜12、1コリント7:26、29〜31、コロサイ3:6、へブル10:25、37、ヤコブ5:8〜9、1ペテロ4:5,7、1ヨハネ2:17〜18)が第一世紀の世界がまもなく経験する劇的で、世界を揺るがすような連続した出来事を示しています。背教のユダヤ教に対する裁きは、イエスの死と復活の時代のうちに、紀元70年エルサレム崩壊のときに頂点に達しました。

 ですから、過去派解釈は聖書預言を契約的に見るということに強く基づいています。歴史上最も重大な出来事のひとつはユダヤ人の忠実なレムナント(残りの民)に異邦人が結び合わされたことです。この光に照らしてみると、背教のユダヤ教に対するエルサレム崩壊における裁きはすべての終末論的出来事の中で最も重要な出来事のひとつです。

 今日最も人気のある預言の解釈はディスペンセーショナリズムと言われる、聖書をいくつかの「時代区分(ディスペンセーション)」に区切り、聖書のほとんどの預言箇所は私たちの未来の時に言及しているとする考えです。現代のディスペンセーション神学の学者たちは自分たちの教えが極めて古くからの教えであり、過去派解釈は未開の新しい預言の教えであるという議論を好んでします。しかし、聖書の注解書を書いた人たちを調査すると、彼らの言う逆のことが真実であることが分かります。ディスペンセーション神学は比較的新しく、ここ100年ほどで広まった教えです。

 他方、中心的な新約聖書の預言は第一世紀に成就したとする過去派解釈は教会の歴史を通して圧倒的に優勢を誇っていた終末論です。教会の歴史の中で聖書の注解者たちがマタイ24章を解釈している方法を簡単に調べてみることで、何世紀にも渡って、マタイ23、24章の「この時代」という言い回しは、遠くはなれた世代や時代ではなく、イエスの時代を意味することが受け入れられていたことが分かります。また、これらの注解者たちはマタイ24章34節までのすべての出来事は紀元70年のエルサレム崩壊を含むそれまでの出来事に言及していることと理解していました。

背景設定「この時代」

 多くのディスペンセーション神学者たちはマタイ24章1〜34節が未来に起こる患難、携挙、キリストの目に見えるかたちでの再臨を描写していると考えます。これは聖書にある預言箇所のすべてが未来指向であるとする人々には都合のいい解釈です。ところが、よく研究してみるとそれはその箇所の明白な意味としては通用しません。マタイ23章26節と24章34節の時間の文脈を私たちの指針とすることはとても大切です。私たちは聖書を用いて用語やいいまわしを定義しなければなりません。それによって、この箇所全体が紀元70年の時間の文脈にはっきりと合致することが分かります。

 どの箇所でもそうであるように、マタイ24章もその文脈を調べることなしには十分理解することはできません。24章の文脈は23章の中に見出すことができます。聖書の原本には章や節の区切りがなかったことを心にとめてください。ギリシャ語のテキストでは、24章は23章から区分なく続いています。

 さらに、24章でイエスが語られた出来事は直接23章での預言と関連しています。弟子たちは23章でパリサイ人たちへの7つの「わざわい」をイエスが宣言されたのを聞いたばかりでした。イエスは「見なさい。あなたがたの家は荒れ果てたまま残される。」(マタイ23:38)という爆弾発言をもって終わっておられます。そして24章が、「イエスが宮を出て行かれるとき、弟子たちが近寄って来て、イエスに宮の建物を指し示した。」(24:1)ということばで始められました。ですから、荒れ果てたまま残される「家」というのは宮(神殿)です。弟子たちの好奇心は明らかに駆り立てられました。ですから、彼らはイエスに「いつ、そのようなことが起こるのでしょう。あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。」(24:3)と尋ねたのです。

 イエスのこの質問への答えは23章で起こったことに照らし合わせて理解されなければなりません。イエスはパリサイ人たちに、「まことに、あなたがたに告げます。これらの報いはみな、この時代の上に来ます。」(23:36)とちょうど語られました。イエスと弟子たちはエルサレムの崩壊の時と前兆に関する質問について話しておられたのです。ユダヤ人たちはイエスを拒絶しました。そのために裁きに会うのです。旧い契約の規定は神殿の崩壊と、かつての聖なる都の荒廃をもって終わるのです。これが「その時代の終わり」の「前兆」になり、それが旧い契約の終わりであり、新しい契約の成就です。

 マタイ23章36節と24章34節に見られる時間の文脈(タイム・テキスト)はこの預言の正しい理解のためにとても重要です。これら2つのテキストはこの学びのためにブックエンドの役割となります。
・まことに、あなたがたに告げます。これらの報いはみな、この時代の上に来ます。
・まことに、あなたがたに告げます。これらのことが全部起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません。

 これらの2つの時間の文脈にはさまれた部分は、神殿の崩壊へとつながる前兆を描写している「しるし」の文脈、また箇所です。ディスペンセーショナリストたちは「この時代」がいつか分からない未来の時代というのではなく、イエスが直接話しておられる時代に言及していることを信じません。しかし、この立場にはいくつかの問題があります。

 第一に、この箇所を将来成就することと考えるならば、明白な、文字通りの解釈を無視することになります。イエスは、「これらすべてのことが起こるまでは、この時代は過ぎ去りません。」と言われました。ある人々は、「紀元70年にこの箇所の一部分は成就し、将来のいつの日には最終的な成就があるだろう。」と主張することによってこの箇所の明らかな意味からうまく逃れようとします。しかし、これはこの文脈の単純で、文字通りの読み方ではありません。「これらすべてのこと」は「この時代」という時間の文脈の中で起こるべきことだったのです。この文脈は、イエスが最初に預言された時から紀元70年の出来事と2000年経った出来事との間のギャップがあるという解釈を支持してはいません。このような考えはこの箇所を意味のない、ナンセンスなものにしてしいます。「この時代」、「これらすべてのこと」はつながっていることなのです。この箇所には、神殿再建が伴う将来の患難時代にこれらの出来事が繰り返されるだろうという、ある種の「二重預言」を信じるように私たちを導くようなものは何もありません。

 第二に、イエスが「この時代」ということばを用いられたときはいつも、ご自身が直接話しておられる時代の人々を意味していました。「この時代」がイエスが直接話しておられる人々の時代に言及していることを否定する人々は、マタイの他の箇所も、新約聖書の他のすべての箇所にも、これと同じように何か違った意味を持たせることを主張しなければなりません。マタイ23章36節は明らかにパリサイ人と彼らの同時代の人々のことを言っています。どうしてマタイ24章35節の「この時代」を何か違った解釈をすべきなのでしょうか?イエスはご自身が非難しておられる、その時代の人々とパリサイ人たちに関する質問をした弟子たちに答えられたのに。

 ある人々はマタイ24章は二重の成就をしなければならないということによって、この明らかな時間の文脈をごまかそうとします。なぜなら、過去派の解釈は彼らの解釈学と相容れないからです。しかしこれは正しい聖書解釈法ではありません。私たちは自分自身の先入観でみことばの解釈を決定してはいけません。もし、イエスがマタイ24章34節以前に述べられたすべての出来事がご自身の時代のうちに起こるだろうと言われたなら、それをそのまま受け取らなければなりません。ディスペンセーショナリストたちは字義主義を主張します。ではなぜこのことにおいてはそうしないのでしょうか?

 福音書を通して「この時代」が用いられている箇所はどこも、その同時代(40年以内)のことを意味しています。それは決してディスペンセーショナリストたちが主張するような「民族」という意味ではありませんし、決して将来の時代を意味するのでもありません。もしイエスが未来を想定しておられたならば、「あの時代」と言われたでしょう。以下に上げるのは福音書の中に出てくる「時代」や「この時代」という箇所のリストです。マタイ1:16、11:16、12:39、41、42,45、16:4、17:17、23:36、24:34、マルコ8:12、38、9:19、13:30、ルカ1:48、50、7:31、9:41、11:29、30,31、32,50,51、16:8、17:25、21:32。これらどの場合も、その同時代の時間的文脈の中で起こる出来事について語っています。

 第三に、並行記事であるルカ21章12節で何度「あなたがた」ということばを用いられたかに注意しましょう。「しかし、これらすべてのことの前に、人々は『あなたがた』を捕らえて迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために、『あなたがた』を王たちや総督たちの前に引き渡すでしょう。」(英語ではyouが4回出てくる・13〜20節、28、30節も参照)。マタイ24章とマルコ13章は同時代の人々(訳者注:弟子たち)に宛てられています。ルカ21章、マタイ24章、そしてマルコ13章はみな同じ出来事を語ることによって並行記事となっています。そしてどれもみな第一世紀内の成就を支持する言い回しを用いています。

 第四に、イエスは語った出来事が成就するのを見たならば、ユダヤに逃げなさいと弟子たちに警告されました。この警告は明らかに紀元70年のエルサレム崩壊に当てはまります。イエスはローマによる迫害が増すのを見、エルサレムにローマ軍がやってくるのを見たなら「大患難」から逃れるべきであると警告されたのです。


マタイ24章1〜34節の注解


 この箇所を学ぶとき、イエスが直接話された弟子たちの視点から考えて行きましょう。イエスが話されたことについて弟子たちはどのように考えたのでしょうか?彼らの時代にもたらされる裁きという認識の他に、どのような結論があるのでしょうか?イエスは遠い将来のある時代について話しておられるのだという速断ができたのでしょうか?彼らは切迫した患難という考えに印象付けられたという可能性の方がもっと高いでしょう。以下の資料はこの重要な章を一節一節解釈したものです。



イエスが宮を出て行かれるとき、弟子たちが近寄って来て、イエスに宮の建物をさし示した。そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「このすべての物に目をみはっているのでしょう。まことに、あなたがたに告げます。ここでは、石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません。マタイ24:1〜2

 イエスの弟子たちがマタイ23章において神殿と都の「崩壊」という預言的な宣言を聞いたとき、まるで「主よ。『この』神殿を意味しておられないでしょう。」と言わんばかりに、彼らは「近寄って来て、イエスに宮の建物をさし示し」ました。しかし、イエスは「ここでは、石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません」と宣言することで、先ほどされた裁きの預言を確認されました。イエスが「『ここでは』石がくずされずに、積まれたまま残ることはありません。」と言われたことに注意しましょう。イエスはいつか未来に再建された神殿について起こることを語っておられるのではありませんでした。その時、目の前に建っている、まさにその神殿の崩壊について語っておられたのです。弟子たちはたぶんこれに驚いて、多面的な質問をしたのでしょう。



イエスがオリーブ山にすわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとに来て言った。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのでしょう。あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。」マタイ24:3

 ここでの弟子たちの質問は3つの相互関係のある出来事を含んでいます。(1)神殿崩壊の時;(2)イエスが裁きに来られることを示すしるし;(3)時代の終わりをもたらすしるし。文脈を見ると、これらの質問は神殿の崩壊に言及しているのであって、それ以外の他のものではありません。神殿とそれに含まれる、祭司職、犠牲制度、ユダヤ人の経綸全体というすべてのものが、まもなく終わりを告げると言う預言に弟子たちは驚きました。ある人々が主張するようにイエスは再臨について話されたのではありません。なぜなら、この時、弟子たちはイエスが十字架にかかって死ななければならないということさえ知らなかったのですから。どうして、イエスの死と復活と昇天に付随するイエスの肉体を持った再臨について尋ねることがあるでしょうか?

 弟子たちは明らかに、神殿の崩壊とイエスの裁きのために来られることとその時代の終わりを関連付けています。神殿崩壊は犠牲制度と儀式制度を伴った旧約の贖罪制度の劇的な終焉を示しています。その最初から、これらの儀式は来るべきキリストの御業を示す唯一のものだったのです。そして神の完全な子羊は神殿犠牲は全く不必要であることを言い渡しました。「その時代の終わり」というのは契約的な語句です。それは約束の契約に対する限定的なユダヤ人の権利の終了と契約の祝福への異邦人の包括を意味しています(参照:マタイ21:41、43、22:10)。新しい契約の下では、神殿はイエスキリストのからだ(ヨハネ2:19〜22)と教会(2コリント6:16)にとって代わりました。

 しかし、どのようにしてイエスが紀元70年に来られたことを主張することができるでしょうか?私たちは聖書によって聖書を解釈し、並行記事から「来る(再臨)」の意味を判断しなければなりません。旧約聖書全体を通して、神は裁きに「来られ」ました(参照:創世記11:5、出エジプト3:8、19:9、34:5、詩篇18:6〜17、72:6,104:3、イザヤ19:1〜4、31:4、ミカ1:3〜5、マラキ3:5)。さらに、新約聖書はイエスが裁くために来れることについて続けて語っています(参照:マタイ10:23、16:27〜28、18:30、26:27〜28、18:30、26:64、マルコ14:61〜62、ルカ10:1、ヨハネ14:23,32,30)。何度イエスはご自身の再臨によって小アジアの諸教会を裁くと脅しておられるか注意しましょう(黙示録2:5,16、3:3)。もしここで語っておられる再臨が遠い将来のものであったなら、イエスの脅しは何の意味もなさなかったでしょう。

 さらに、イエスは絶えずご自身の裁きによる再臨について語っておられました。事実、マタイ16章27〜28節は最後の使徒が死ぬ前に裁きが来ることを述べています。「人の子は父の栄光を帯びて、御使いたちとともに、やがて来ようとしているのです。その時には、おのおのその行いに応じて報いをします。まことに、あなたがたに告げます。ここに立っている人々の中には、人の子が御国とともに来るのを見るまでは、決して死を味わわない人々がいます。」ペテロは確かにイエスの再臨が近いことを理解していました。特に彼はイエスが来られる時、ヨハネが生きているかどうか尋ねました(ヨハネ21:21〜22)。ペテロが第一の手紙で、「終わりの時」(1ペテロ1:20)、また「万物の終わりが近づいた」(4:7)と書いたのです。

 弟子たちがイエスにいつ裁きのために来られるのか尋ねたとき、イエスは特別な方向性を持って答えられました。



※この論文の訳は完成していません。随時更新していきますので、度々チェックしてください。


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※この論文はゲイリー・デマー氏の許可をいただいて翻訳掲載しています。無断による転載はおやめください。なお、原著Is Jesus Coming Soon?はアマゾンにて購入できます。



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