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<プレテリズム(過去派解釈)>
黙示録講解:The Days Of Vengeance
王の王:
タイトルと祝祷( Rev.1:1-3 )
1:聖ヨハネはこの書が神の目的を明らかにする、黙示(啓示)だということを、始めからはっきりとさせている。神秘的にしようとしたり、不可解にしようという意図はない。その主題をはっきりと表わしている。特に、それは、神がイエスに与えられたイエスキリストの黙示である。言うならば、私たちの主ご自身が仲介してくださった(へブル1:2)すぐに起こるはずの事がらについての黙示なのである。それゆえ、黙示録は世界の歴史の見通しでも、世界の終わりに関するものでもない。聖ヨハネと彼の時代の読者の近未来の出来事に関するものである。この注解書を通して見ていくことは、黙示録が、エルサレムにもたらされる神の怒りが下されることを預言した「契約訴訟」である。それは、聖書の中で「終わりの時」として知られている、契約国家イスラエルの終わりの日という意味であり、キリストの昇天(紀元30年)からローマ人によるエルサレム崩壊(紀元70年)までの40年間の「世代、時代」(マタイ24:34)の意味である。読者たちがもう間もなく見るだろう出来事を前もって語ったのである。
このことは、「未来派」の解釈に明らかに不利だ。未来派の人々は、聖ヨハネが、彼らが経験もしないようなことを当時の人々に警告したと言わざるを得ず、黙示録は1900年間も役に立たないものだったと言うことになる。この書が私たちの時代だけに当てはまるものと考えることは自己中心的なことであり、この書自身の証言とかけ離れている。英語で「すぐに」と訳されたギリシャ語の表現は「まもなく」という意味であり、それを読んだ読者が何か他のことと理解はしない(ルカ18:8、使徒行伝12:7、22:18,25;:4、ローマ16:20、黙示録22:6)ということが強調されているのである。未来派の解釈は黙示録の最初の節で論破されるのである。
さらに進む前に、聖ヨハネの開始文には歴史に関する聖書の哲学、(神がすべての主であり、ご自身の被造物に完全な計画を持ち、ご自身のご計画に従ってすべての原子を支配される)が前提とされていることを述べておくべきであろう。結局のところ、神はどのように未来を知られるのだろうか?聖書は神が水晶玉を持って未来の出来事を見通されるというようなことを示していない。それをよく考えてほしい。事実、ある種の器具を用いて聖別される、「外側にある」何かというような「未来」はないのである。未来に起こる何かとは、単にまだ存在していないということである。それでは、神はどのように未来を知られるのであろうか?聖書はたったひとつだけ答えを与えている。神がそれを計画されたので、未来をご存知なのである。
主は天にその王座を堅く立て、その王国はすべてを治める。(詩篇103:19)
私たちの神は、天におられ、その望むところをことごとく行われる。(詩篇115:3)
地に住むものはみな、無きものとみなされる。彼は、天の軍勢も、地に住むものも、みこころのままにあしらう。御手を差し押さえて、「あなたは何をされるのか。」と言う者もいない。(ダニエル4:35)
私たちは彼にあって御国を受け継ぐものとなったのです。私たちは、みこころによりご計画のままをみな実現される方の目的に従って、このようにあらかじめ定められていたのです。(エペソ1:11)
従って、「未来」はまだ存在していないけれど、それは確かであり、安全である、なぜなら全能なる世界の主がそれを間違いなく計画されたからである。神は「無いものを有るもののようにお呼びになる方」(ローマ4:17)だからである。神はすべてのことを完全に知り尽くしておられる。それは完全に計画されたからである。
アーサー・ピンクは「主なる神は全能をもって支配しておられる。彼の主権は、無生物に、野獣に、人の子たちに、良い天使に、悪い天使に、悪魔にも行使されている。世界の循環作用も、きらめく星も、嵐も、被造物の行動も、人の歩みも、天使の任務も、悪魔の業も、何事でも神が永遠のご計画がなければおこらないのである。ここに信仰の土台がある。ここに知性の拠り所がある。ここに確実で揺るぎのない魂の錨がある。世界を統治するのは、盲目的な運命でも、みさかいのない悪でも、人間でも、悪魔でもなく、ご自身の喜びと栄光のために世界を支配しておられる全能の神なのである。」と書いている。
さて、聖ヨハネは未来に関するこれらのことは天使によって示された(signified)、すなわちサイン(sign)されたと言っている。このことばを用いることによって預言とは単に「前もって書かれた歴史」であるととるべきではないことを教えてくれる。黙示録は起こり来る出来事を象徴的に描写したしるし(sign)の書である。象徴は文字通りには理解されるべきではない。私たちはこれを聖ヨハネが福音書(ヨハネ12:33、18:32、21:19)の中で用いた同じ表現をもって理解することができる。どの場合にも、キリストは未来の出来事を示すのに、単調で文字通りの表現よりも、象徴的表現を用いている。そしてこのことは黙示録における一般的な預言の形である。始めから終わりまで象徴に満ちている本である。G・R・ビースレイ・マーレイの、「預言者は彼が天の写真を提供したのではないことをはっきりさせたかった。」とはよく言ったものである。これは象徴は分かりにくいという意味ではない。解釈とはだれでも好きなように選んだものということではない。また他方、解釈とはある種のコードで書かれた象徴だから、象徴を英語に直すための象徴に関する辞書か文法書がいるというものでもない。聖ヨハネの象徴に関するシステムを理解する唯一の方法は聖書自身に親しむことである。
2−3:ここでは重要な関係が設定されている。1節はイエスキリストが聖ヨハネに黙示を与えられたことが示されている。さて、聖ヨハネは神のことばとイエスキリストのあかしをしたと自分自身のことを語っている。したがって、私たちは、まずイエスが彼のしもべに証言する卓越した証人であることを理解し、聖ヨハネもまたキリストの証言を証言するキリストの証人であることを理解する。彼が証言をするのはキリストのしもべのひとりであり、自分の主人のようになりたかったからである。証言をすることによって、聖ヨハネはキリストのイメージに従った。キリストとキリストのしもべの二重の証言、キリストのしもべがキリストのイメージを担うという二つのパターンは、黙示録を貫いて流れている。そして11章4〜12節のような箇所に理解を与えてくれる。
(黙示録の)二重の証言は、まさに神のことばであり、祝福であるから、預言の7つの祝福(1:3,14:13,16:15,19:9,20:6,22:7,22:14)の最初の祝福がそのメッセージに忠実な人々のために告げられている。特別な祝福の形(読むも者と聞く者は幸いである。)に注意しなさい。なぜなら、それはこの書の内容に重要な示唆を与えてくれる。聖ヨハネは単に(または第一に)個人の徳を高めるためにではなく、礼拝のために公式に集まる教会のためにこの預言書を書いた。最初から、黙示録は礼典の中で、読み手が会衆に読み聞かせるために設定されている。「読む」というギリシャ語のことばは新約聖書の中で、しばしば礼典的行動として使用されている(ルカ4:16、使徒行伝13:27、15:21、2コリント3:15、エペソ3:4、コロサイ4:16、1テサ5:27、1テモテ4:13)。これから見ようとしている黙示録はとても礼典に関わりがある。礼拝こそが、預言の中心テーマである。神のみこころが天の礼拝でどのように行われているかを示すことによって、聖ヨハネは教会が地上で神のみこころをどのように行っていくかを明らかにしている。
特別な礼拝の形式から、私たちは生活という礼典の中で神に仕えながら、世に出て行くのである。特別な礼拝の中で私たちは真理(アーメン)に対して応答し、一般の礼拝の中、全生活を通してさらに応答していくのである。それゆえ、聖ヨハネの祝祷はそれを朗読し、聞く者のためだけではなく、そのみことばに心を留める(守る)者のためでもある。この書のゴールは単に、「預言の」出来事を知らせるということではない。使徒の教育のゴールはいつも倫理的である。きよい心、正しい良心、そして偽りのない信仰から来る愛を生み出すために書かれている(1テモテ1:5)。黙示録は、守るために与えられた命令であり、特に紀元一世紀の読者たちがその教えを聞き、従うためである。なぜなら、危機は彼らに迫っていたからである。時は近づいたと聖ヨハネは再び預言のその当時への関連性に強調を置くように警告した。ヨハネは黙示録の最後でもこの警告を繰り返している(22:6韓、10)。国々が揺り動かされ、土台まで崩されるとき、古い世界はまもなく騒然となるであろう。そしてクリスチャンは来るべき劇的変化の時代の揺ぎないガイドとして、黙示録を必要とした。世界の終わりが近づいていた、この目に見える物質的宇宙の崩壊ではなく、古い世界の秩序は過ぎゆき、エルサレムにある中心の聖所のまわりの世界が支配されていくという。神は新しい国家、新しい祭司職、新しい聖所で礼拝を捧げる新人類を築かれた。神の家はほとんど完成した。古い、建築場の足場のような暫定的な住まいはまさに破壊されようとしていた。