P.アンドリュー・サンドリン
数年前、私はラジオ番組である福音派の人とディベートをした。ディベートの中心はマタイ5章17節のイエスが言われた「私が来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。」ということばの意味についてであった。反対者によるこの箇所の解釈は、イエスが旧約聖書の律法を成就されたので、クリスチャンは律法に従うことは要求されていないというものだった。私はすぐにそれは全く反対の解釈だと指摘した。なぜならイエスは次のように語られたからである。「だから、(律法の)戒めのうち最も小さいものの一つでも、これを破ったり、また破るように人に教えたりする者は、天の御国で、最も小さい者と呼ばれます。しかし、それ(戒め)を守り、また守るように教える者は、天の御国で、偉大な者と呼ばれます。」(マタイ5:19)。イエスが17節で「成就した」と言われたとき、クリスチャンはもはや神の律法に従う義務がないということを意味しておられたのだとしたら、イエスが19節で神の律法を行ない、教えなさいと言われたことと矛盾したことになってしまう!福音派の人はこの論点に十分な答えをすることができなかった。
さらに、彼はラジオの聴衆に向かってクリスチャンは神の律法に従う義務はないと言い、今日クリスチャンは「恵みの下」にいるので、要求されて神に従うのではなく、神に従うのは、自らがそう願うからという理由からだけによるのだと断言した。私が聖書が殺人、レイプ、獣姦を禁止しているのかどうかを質問した。すると彼はこれらのことは罪深いことであるけれども、クリスチャンがこのような罪を犯すことを拒む理由は罪を犯したくないからであって、神が厳しくこのような罪を禁止しておられるからではないと答えた。
これはたいへん首尾一貫した無律法主義の形態である。無律法主義とは反律法という意味だ。今日のキリスト教会の多くは無律法的である。律法を含む旧約聖書は廃棄されたと信じるのである。聖書の「律法」ということばは旧約律法だけをいうのではない(ローマ8:2、ガラテヤ6:2)。聖書全体は神の律法のことばである。人はどのように生きるべきなのかについての多くのガイドラインが旧約聖書と同様に新約聖書にも書き記されている。ある人たちはたぶん十戒以外の旧約聖書の律法のほとんどはもはや効力がないという考えを持っている。もちろん、新約聖書は旧約聖書の戒めを2つに分類して、十戒は今も効力があるが、その他の戒めは効力を持たないなどとしない。たとえばマタイ4章4節でイエスキリストは人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出るひとつひとつのことばによると言われた。同様に、マタイ5章19節では先ほども引用したように戒めとしての旧約聖書に言及された。イエスは旧約の戒めのあるものは有効で、あるのものは有効ではないと主張しておられない。しかし、今日のクリスチャンはこのような考えを持っている。
ところが、さらに多くの人々は旧約律法のすべてを簡単に捨て去っている。このような人々は自分たちの唯一の行動の基準は新約聖書であり、それもそのすべてではないであろうと確信している。彼らは私たちは律法の下ではなく、恵みの下にある(ローマ3:19、6:14)と言ったパウロのことばの表面的な理解しかしていない。彼らは最もすばらしいクリスチャンとは書かれた神の律法から解放され、より高尚な律法に従う「聖霊に導かれた」人だと考えている。この考えはたいへん人気がある。しかしこれは著しい誤りである。それは著しい誤りであるどころか、実に忌まわしい考えである。聖書はこれを支持していない。実際、聖書は激しくこの考えを非難している。いくつかの事実を記そう。
罪とは律法を破ることである
第1に、聖書は罪とは律法に逆らうこと(1ヨハネ3:4)であると定義している。だから聖書は律法のないところには、罪がない(ローマ4:15、5:13)と明言している。もし、神の律法が今は人を拘束していないなら、罪とか罪人というものはないのである。もちろんそんなことはナンセンスだ。聖書は罪とは神の律法を破ることだと定義していると言う時、これは旧約聖書の律法ではなく、何か他の律法であると意義を唱えるかもしれない。すこし考えれば、このような反論がどれほどバカげているか証明できるだろう。
他のどのような律法を新約聖書の著者たちは心に抱くことができただろうか。他のどのような神の律法の形態を心に抱いて書くことができたのだろうか。ある人たちは「自然の中に現わされた神の律法」と応えるかもしれない。確かに聖書はご自身とその律法を自然(または、創造;ローマ1:19〜20)を通して現わされると明言している。しかし、この律法の内容は旧約聖書に書かれた律法と違いはないのだ。聖書律法に反対するために「自然法」を考え出した人々はふつう自分たちの罪深い神と道徳に関する理解に拠り頼んでいる。しかし、人間だけではなく、被造物自体が呪のもとに置かれている(創世記3:17〜19)。聖書を離れての被造物は信頼に足るガイドではない。なぜなら、人間の罪深さのしるしを負っているからである。聖書は私たちの創造に関する過った考えを正してくれる。人間が堕落する前のエデンの園にあってでさえ、人は神の直接口述される啓示の光を用いて創造を解釈すべきであった。「自然啓示」(創造における神の律法の啓示)は否定すべきではない事実であるが、聖書を離れての律法の解釈を施そうと決して試みるべきではない。私たちは聖書によって創造を解釈するのであって、その逆ではない。また私たちが正しく解釈する時、創造の中に現わされた神の律法は聖書の律法と何ら違いはないことを見い出すのである。
だから、使徒パウロは書かれた律法を持つユダヤ人はその律法に従えなかったことによって裁かれるのであり、書かれた律法を持たない異邦人は、こころに書かれた律法を持つので、その律法によって裁かれるのだと語っている(ローマ2:11〜16)。パウロはまた、ローマ3章19節で全世界(ユダヤ人と異邦人)は律法を破ったゆえに神の前に罪あるものとして立つと主張することによって、それを説明している。神は決してユダヤ人にはひとつの道徳基準を、また異邦人には別のものとは言われない。神は変わることがない(マラキ3:6)、またイエスキリストは昨日も、今日も、いつまでも同じである(ヘブル13:8)。神は不変であるし、神の道徳基準も不変である。罪は神の律法を破ることであり、神に従うとは旧・新約聖書に書かれた神の律法に従うことである。人間が今もなお罪を犯すのなら、律法も有効である。
イエスキリストは神の律法の権威を立証された
第2に、イエスキリストご自身が律法の権威を認められたことだ。前述したマタイ5章18、19節において、イエスは律法を廃棄するために来られたのではなく、成就し、認証するために来たと言われた。イエスは非常に旧約聖書の権威を強調したいと思われたので、戒めの最も小さいもののひとつでも破るように教える者は天の御国で最も小さい者と呼ばれると宣言された。
イエスはどの律法について言及しておられるのか?イエスに聞いていたユダヤ人たちが知っていた唯一の律法とは、モーセの律法を含む旧約聖書の律法であった。イエスはマタイ5章で旧約聖書まで拡大されたのである。多くの人々がイエスが言っておられることを誤解している。イエスは旧約律法を現代では時代遅れのものになったとか、何か新しい、より高尚な律法を紹介しているとは語っておられない。律法が正しく理解されるようにと、パリサイ人たちの律法の解釈(マタイ22:23、29、ヨハネ5:18、39)とを対比させておられるのである。言い換えるなら、マタイ5章21節の後半は旧約律法の霊的解釈である。イエスの時代のパリサイ人やユダヤ人の教師は旧約律法を曲解し、悪用していた。イエスはいたるところで(マタイ7:12、12:5、23:23)されたようにマタイ5章でも彼らの律法の概念を正されたのである。さらに、ご自身の働きを通じて、律法を引用し、どこにおいても律法の権威を認められた(マタイ22:36〜40、マルコ14:49、ルカ10:26、16:17、24:24〜27、45、ヨハネ7:19、8:17)。イエスは旧約聖書のすべてを全く真理にあふれ、権威ある拘束力を持つものとして扱われた。もし私たちがイエスの教えの権威を受け入れるならば、律法は今も有効だということを受け入れなければならない。
新約聖書の記者たちは神の律法の権威を立証した
第3に、新約聖書の記者たちも律法は現代にも有効だと考えていることである。
例えば、パウロは神の律法を破ったので、すべての人は神の御前に罪人として立つということを宣言している(ローマ3:19)。パウロは律法は人が正しく用いるならば、良いものであると述べている(1テモテ1:8)。「律法は聖であり、良いもの」であり(ローマ7:12)、「律法は霊的」であり(ローマ7:14)、パウロの働きは律法を確立するものであり(ローマ3:31)、また律法は福音のうちにある「神の約束に反対する」ものではない(ガラテヤ3:21)と言っている。
同じように、ヤコブは人が律法のほとんどを行なっても、一点でつまづくならが律法全体を破った罪とされると教えている(ヤコブ2:10〜11)。ヨハネは前述したように罪を律法違反と定義している(1ヨハネ3:4)。
それでは、律法を否定しているように思わせる聖書の箇所についてはどうなのだろうか?これはもし私たちがその箇所を文脈の中でしっかりと読むならば、問題は律法の曲解や悪用であることが分かる。ガラテヤ3章はその好例だろう。パウロは旧約律法を守ることによって人が義とされることに反論している。なぜなら、彼は律法は決して人を義としないと教えているからだ(ガラテヤ3:21)。また、律法を行ないによる義の手段であるという曲解をする人々に対して反論をしている(ガラテヤ2:16〜17、3:1〜9)。
これは正しい律法解釈ではない。旧約聖書自体が救いは律法を守ることによるのではないと教えた(ガラテヤ3:15〜16、ローマ4:6〜8、10:5〜8)。
さらに、初代教会のユダヤ人の中には異邦人がクリスチャンになるためにユダヤ人にならなければならないと教えたものがいた(使徒行伝15:1〜2、ガラテヤ2:11〜14、5:2)。旧約聖書はそのようにしなくても良い、やがて神の契約の民としてのイスラエルの特別な地位回心した異邦人と共に分ち合われるだろういと預言した(イザヤ19:24)。新約聖書の時代の異邦人にクリスチャンになるためにユダヤ人にならなければならないと強制したことは旧約聖書の誤用である。なぜなら、旧約聖書がイスラエルだけが持つ神との特別な関係が変わる日がやって来ると教えたからだ(ローマ9:24〜29)。旧約聖書におけるユダヤ人の経綸において、神の契約の民となりたいと願う人々は、すべての男性は割礼を受けることによってイスラエルに加えられることが必要であった(創世記17:1〜14)。神の契約の計画は新約聖書においてイエスキリストが流された救いの血潮によって対等に、受け入れたすべての国の、すべての民族の人々を包含するようにと拡大された(エペソ2:11〜22)。また、バプテスマは割礼にとって変わった(コロサイ2:11〜13)。
さらにまた、パウロがクリスチャンは律法の下ではなく、恵みの下にある(ローマ6:14)と宣言し、律法は私たちをキリストの導く養育係である(ガラテヤ3:24)と言う時、律法の正しい用法を攻撃しているのではなく、正しい用い方を訴えているのである。律法は罪人に対する告発者なのである(ローマ3:19)。人々が律法に従わないならば、呪がある(申命記28:15〜68、ダニエル9:11、ガラテヤ3:10)。人がキリストのもとに来て、彼こそ唯一の救いであると信じるなら、死刑宣告や告発者としての「律法の下」にはいないのだ。彼らは法律上の権能を持った律法に対して死に(ローマ7:1〜6)、今や律法との新しい関係を持ち、律法はもはや死刑宣告をせず、新しい人生と従順の手段となるのだ(ローマ8:4)。再生によって律法が変わるのではなく、クリスチャンが変わるのである。この人生において完全に律法を守る者になれるというのではないが、奇跡的に律法を破る者から律法を行なうものへと変えられる(1ヨハネ1:8)。その人は恵みと聖化によって成長する。すなわち、彼の人生はさらに律法に従う人生へと導かれる。
新約聖書の記者たちは律法が今も有効であると教えている。
律法は義の訓練に有益だ
第4に、みことばのすべては神の霊感によることばであり(2テモテ3:16〜18)、教えと戒めと矯正と義の訓練のために権威が与えられている。パウロが信仰の子であるテモテに聖書のすべては神が息を吹きかけられたものであると手紙を書いた時、それは特に旧約聖書のことを言っているのである。なぜなら、新約聖書のほとんどはまだ完成していなかったからだ。テモテが子どもの頃から知っていたみことばとは旧約聖書のみことばのことだ。そして、律法を含むこれらのみことばは人が救いへの知恵を与えるだけではなく、「義のうちに」人を訓練する。
同様に、荒野の試みの時、イエスは人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出るひとつひとつのことばによるという旧約聖書のみことばをサタンに対して用いられた(マタイ4:4)。イエスがこれを引用された時、まさに旧約聖書をはっきりと引用された(申命記8:3)。もし人が神の口から出るすべてのことばによって生きるのなら、またもしそれは旧約聖書を含み、旧約聖書は旧約律法を含むなら、人は旧約律法によって生きるようにと召し出されている。
旧約聖書時代に行なわれていたようには行なわない律法であっても、その正しい用法として律法の有効性は残る。大切な例は旧約聖書の犠牲制度である。ヘブル書は、旧約聖書が預言していたように、犠牲はキリストを指し示し、彼は犠牲制度の成就であるということを教える(ヘブル8:8、9:6〜8)。同じように、旧約聖書はアロンの祭司制度は一時的であり、それは主イエスキリストを指し示していると教えている(ヘブル7:1〜19)。今日、すべてのクリスチャンは祭司である(黙示録1:5〜6)。祭司制度は継続している、それもすべての神の聖徒によって、それはちょうどキリストにおいて犠牲制度が継続しているのとおなじである。律法は新しい表現方法で続いている、すなわち律法は永遠なのだ。だから、人は神の律法の少しでもないがしろにしてはいけない。人は疑うことなく神の律法に従うように召されている(レビ22:31、申命記6:1〜2、マタイ5:19、ヨハネ14:15)。
律法は生活の全領域における神による義の基準であある。それは義認のための手段ではない。人はどのような功績でもなく、律法を行なうことでもなく、ただキリストの贖いの死を土台として与えられる神の恵みによって救われる(ローマ3:21〜22、27〜29、4:1〜8、ガラテヤ2:16、21、3:10〜13、4:4〜5、テトス3:4〜5)。人はどのような状況においてでも、律法を行なったり、その他のどのようなことによっても救いを勝ち取ることは決してできない。しかし、律法は人間のために神から与えられた義の基準である。信じない罪人は神の聖なる律法を破ることで裁かれ、罪に定められる(ローマ3:19)。クリスチャンはイエスキリストが律法を守り行なわれた人生と、その死が賦与され、自分たちのなしたことのようにみなされるので、神の裁きから救われる(ローマ4:16〜25、2コリント5:21)。それゆえ、新生し、神の書き記された律法に徐々に従うように新しいいのちへとよみがえらされるのである(ローマ8:1〜4)。
もし聖書が霊感を受けた神のことばであるなら、律法は今も有効なのだ。
イエスキリストの十字架は神の律法の有効性を証明する
全聖書の中の救いに関する項目で最もすばらしい箇所のひとつはローマ人への手紙3章24〜26節である。
ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現わすためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。それは、今の時にご自身の義を現わすためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。
この箇所は現代の無律法主義者には不思議に聞こえるかもしれない。イエス・キリストの十字架の贖いはどのようにして「義を宣言した」のか?十字架は本来、神の義ではなく、神の愛を示しているのではないのか(ローマ5:8)?十字架は確かに神の愛を現わしているし、この事実を決して忘れたり、軽く見てはならない。しかし、神は罪人を救うためにどんな方法でも取られるというのではない。神にはどんなことでもできるが、義というご性質のゆえに喜んでご自身を制限される(創世記18:25、詩篇96:10、ヨブ8:3、詩篇33:5、マタイ12:18、ヘブル1:8)。神は公平で正しい方法で罪人を救わねばならなかった。なぜなら、他の方法で救うことはご自身とその聖いご性質を否定することになるからだ。これが、ローマ人への手紙3章26節の「こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。」の意味である。神はご自身の義なるご性質に従うことによってのみ義とお認めになり、義を宣言されるのだ。
さて、神の義なるご性質は律法のうちに現わされている(申命記4:1〜8、詩篇119:137、エレミヤ12:1)。神は公正で正しいということは、神はご自身の律法に従って行動されるということだ。聖書は罪の支払う報酬は死であると教える。この罪の罰はエデンの園で始まった(創世記2:17)。言い換えるなら、神の律法は罪人や律法を破る者に死を、それも肉体の死だけではなく、火の池という永遠の死(黙示録20:12〜15、21:8)を要求するということだ(1ヨハネ3:4)。神の律法がこの刑罰を求める。これはただ神のご性質がそれを要求するということを言い換えているだけにすぎない。神は罪人に死を要求される。もし神が罪人を救われるならば、神の律法を無視したり、廃棄したりしないという方法で救わなければならない。なぜなら、神はご自身の律法を廃棄し、無視するということはご自身を否むことだからである。神は決してそのようなことはなさらない(2テモテ2:13)。それゆえ、イエス・キリストは罪人を救うために、彼らの代わりに死ななければならなかった(2コリント5:21、1ペテロ2:14、3:18)。
神はすばらしい救いの計画の中ために律法の要求を一旦停止させられたのではなく、罪人を義と宣言することで要求に全く従われたのである。ローマ人への手紙3章26節が教えるようにこのことによって神はご自身の義を現わされる。他のことばで言うならば、神は義認の計画の中で、ご自身の律法を賞賛されたのだ。レオン・モリスは「疑いの余地もないことは、パウロは正義にかなった方法で神は赦しを与えられると言っていることだ。神が罪を赦される時、道徳律法をないがしろにされない。神は悪魔よりも強いので簡単に赦すことができるのだと決して言うことはできない。これは神にとっては正義が力であるということができるだろう。義認ということばはそのような見解に対する永続的な抗議を表わしている。」と述べている。だから、パウロの義認の用法は神が勝手気ままであったり、神が本来持っておられる公平と律法の基準に従わないで行動されるということに永続的な抗議をしている。
神の律法の永遠の権威の最もすばらしい証拠はカルバリーにおけるキリストの死である。なぜなら、そこにおいて、神が人を取り扱われる時に、神の律法の要求からご自身のひとり子さえも逃げ出せないことをすべての人がいつも理解できるようにしてくださった。神はご自身の公平さと律法を救いの計画のために変更されなかった。イエス・キリストは十字架の死によって神の律法の要求を満たされたのである。罪人の救いにおいて神はこのような要求を一時停止させることをよしとされなかった。
神がカルバリーのイエス・キリストに律法の要求を強いられたのだから、私たちは律法が今も有効であると確信を持つことができる。
律法は律法主義的ではない
神の律法に関する大きな誤解のひとつは律法とは冷淡で、厳しく、律法主義的であるというものだ。律法主義とは以下の主にどちらかを言う。ひとつは律法を守ること、すなわち神が嫌われることから身を避けることで救いは得られるとすること(ガラテヤ2:16、3:1〜5、5:4)。または、律法とは単に無情で、パリサイ人的で、情け容赦ないうわべだけの規則であるとか、人のこころに届かないとか、聖霊の働きから離れて行使されるものということである。後者の考えはしばしば使徒行伝15章10節(割礼を行なう律法がやっかいな「くびき」として描かれている)やコリント人への第2の手紙3章6〜9節(旧い契約が「死の務め」として引用されている)のような箇所の誤読から来ている。しかしながら、これらの箇所からそのような結論に至ることは信じられないことだ。聖書は正しく理解され、適用された律法を人を束縛するような冷たい規則としては提示していない。聖書は全く反対の事を教えている。律法とは自由といのちの手段である(申命記4:1〜8、30:19〜20、32:46〜47、詩篇119:45)。ガラテヤ人への手紙3章10節は(申命記27:26を引用して)、律法に留まる者は呪われよと述べているのではなく、律法に留まらない者は呪われよと述べている。律法を行なうことによって救いを得ようとする人々の問題は律法が教えている、救いは完全にイエス・キリストを信じる信仰と恵みによるということに違反していることだ(ガラテヤ3:15〜16、ローマ4:6〜8、10:5〜8)!言うならば、律法を正しく理解する人は律法を守ることによってはだれも救われないことを理解している。これが、旧約聖書で罪を取り除くことができる唯一の犠牲であるイエス・キリストを指し示している犠牲制度が教えられているひとつの理由である。人は罪を犯さなくなるとか、完全に戒めに従うことができるようになるということを律法は意味していない。それゆえ、人の罪深さのための犠牲を与えることを律法のうちに含んでいる。新約聖書は旧約聖書が福音を告げていることを私たちに思い出させてくれる(ガラテヤ3:8、ヘブル4:2)。福音は旧約律法の中に組み込まれていた(ローマ10:5〜8)。ローマ人への手紙8章2節において、2つの律法(法則)が対比されている。キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則と罪と死の法則である。罪と死の法則は使徒行伝15章10節やコリント人への第2の手紙3章6〜9節で引用されているのと同じ律法(法則)の箇所である。使徒行伝15章10節で、あるパリサイ人たち(5節)は旧約聖書が教えていないのに(11、15〜18)、救いをユダヤ人に限定することを願った。コリント人への第2の手紙3章6〜9節は旧約聖書を信じないユダヤ人について言及している(14節)。パウロは旧約聖書に正しく従っている人々を引き合いに出しているのではない。事実、パウロは神が主権を持って人々の彼らのこころから罪深いおおいを取りのけられたら、不信仰なユダヤ人たちは律法がイエス・キリストの福音を教えていることを理解するだろうと言っている(14〜16)!イエス・キリストは「あなたは心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くしてあなたの神である主を愛せよ。これが一番大切ないましめです」(マルコ12:30)と宣言された。詩篇119篇で、ダビデは神の律法の祝福、いのちを与える力、また恵みを喜んでいる(14、20、25、35、64、92、97、103、111、131、136、149)。パウロは律法は霊的だと断言している(ローマ7:14)。このようなことは冷たく、厳しく、従順のための律法的行動様式だとはとても思えない。
要約するなら、聖書は神の律法は冷淡で、厳しく、律法主義的だと教えていない。冷たく、厳しく、律法主義的なこととは律法の誤用であり、イエス・キリスト、信仰のみによる救いから離れ、律法を行ないによる義の制度に変えることである。ちょうど福音が曲解されるように、律法も曲解される(ローマ3:5〜8)。問題は律法ではなく、神の律法を曲解する罪深い(律法を破る)人間である。神の律法は暖かく、霊的で、恵み深く、いのちを与えるものだ。
聖書にも、キリスト教の信仰にも無律法主義が入り込む余地はない。神の律法は今も有効なのか?もちろんである!
P.アンドリュー・サンドリン:カルケドンのExecutive Vice Presidentであり、カルケドン・レポートとカルケドン出版のチーフ・エディターである。
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P・アンドリュー・サンドリン氏の「神の律法は今も有効か?」("Is God's Law Still In Force?")はChalcedonの許可をいただいて翻訳・掲載しております。原文の著作権はChalcedonに、日本語翻訳文の著作権は翻訳者である谷口明法にあります。