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主の祭り
Part 3

by デイヴィッド・カーティス

レビ記 23


私たちはレビ記23章の「主の祭り(祝日)」を学んでいます。これらの祭りの研究は類型学(タイポロジー)の 研究です。類型学とは旧約の出来事、人物、儀式が教会と新しい契約の中におけるキリストの成就を予表 するしるしとして解釈することです。これら7つの祭りは主の贖罪の中心的出来事が連続的であり、時間的であり、重大であることを表わし、象徴しています。 それらはイエスがご 自身を世界の罪のために自発的に捧げられたカルバリー(過越)で始まり、主の再臨(仮庵)の時のメシアの王国の完成をもってクライマックスを迎えました。 7つの祭 りはメシアの贖罪の全体を描写しています。

私たちはすでに過越祭、除酵祭、初穂祭、ペンテコステ(七週祭)という春の4つの祭りを学びました。この4つの祭りは主イエスキリストの初臨を預言 的に表わしています。この4つの祭りはキリストの死、葬り、罪のない完全な生涯、復活、そして新しい契約の到来を語っています。

私たちが学ぼうとしている残り3つの祭りは秋の祭りで、キリストの再臨を預言的に語っています。角笛祭、贖罪日、仮庵祭は春の祭りが終わった後、約 4ヶ月後に始まります。3つの祭りはすべてティシュリ(チヌリ)の月、9月に行われます。この3つの祭りは復活、神が怒りを降り注がれた後の贖いの完成、 仮庵祭によって象徴される新天新地について語ります。 

この3つの祭りの全概念がどれほど重要であるかを示すために、イエスが十字架に向かわれる途上で用いられたことばを見ましょう。イエスはユダヤ人の 農業のことばを使って話されました。

ルカ 23:31 『生の木』さえこうされるのなら、『枯れた木』はいったいどうなるのだろうか。

枯れた木は旧い契約のイスラエルの終焉です。すべての収穫は終わりました。そして木が枯れています。それは時代の終わりです。

ペンテコステから仮庵祭までは約4ヶ月の隔たりがあります。この4ヶ月はイスラエルの一年の中では最も乾燥した期間です。主と聖所の前に国民が集る 聖なる会合がない期間です。

残りの祭りがちょうど肯定的な預言であったように、この間隔(ギャップ)は預言の消極面、または否定的面と理解することができるでしょう。最近贖わ れたイスラエル国家は束縛の場所であったエジプトを離れる過越から、シナイ山での神からの契約を受け取るペンテコステまでを経験しました。ところが、不信 仰と頑なさ(ヨシュアとカレブを除いて)のために、彼らは40年間荒野を彷徨いました。約束の地に入って、仮庵祭を祝ったのは違う世代の者たちでした。で すからこの4ヶ月間の間隔(ギャップ)はこの40年間を覚えるためだと理解できます。

類型学と40

旧約の型と影はすべてに関して、「40」と約束の成就との関係に表わされた影と同じくらい広範囲なものは他にはありません。ですからそれは重要で す。

旧約聖書を通して、40という数字の使用を見いだします。この例として、神が地上に雨を40日40夜降らせられたこと、サウル王、ダビデ王、ソロモ ン 王の治世は40年であったり(使徒行伝13:21、2サムエル5:4)したことがあげられます。この他に、ヨナがニネベに対しての裁きを宣べ伝えた期間は 40(日)でしたし(ヨナ3:4)、約束の地を調べるために送り出されたカナンの偵察は40日という数でした(民数13:25)。

新約聖書はこの類型的数字の重要性を強調しています。キリストは40日40夜断食し続けて、その当時生きている世代は神の裁きを見ると宣教されまし た。事実、キリストはヨナがなしたのと同じ都に来る裁きを宣べ伝えられたのです。

最も重要な型は荒野で40年間放浪し一時的な約束の地に導かれた40年という数字の中に見出せます。実際、パウロ自身が、荒野での放浪に関わる出来 事は「私たちへの戒め」(1コリント10:6)と、また「それが書かれたのは、世(時代)の終わりに臨んでいる私たちへの教訓とするためです」(11)と 記しています。

型と影を研究する生徒たちが最初に学ぶことのひとつはエジプトからの脱出で与えられた高尚な場所です。この出来事はキリストの贖いの業とその時間、 すなわち成就の時間設定のもっともはっきりした一致を提示します。

より具体的に言うと、エジプトから脱出し、モーセの指導の下にイスラエルの子孫に約束された地に入ったことは、十字架から永遠の安息地に入るために 新しい契約の世代が脱出するということの直接の暗示です。

それでは、2つの40年のエクソドスの期間を比較してみましょう。

最初のはへブル人がエジプトで束縛されていた、肉体的(物質的)奴隷状態で始まります。次のは人間の罪と死に対する霊的な奴隷状態で始まります。一 方は子羊の血による最初の過越をもたらしました。他方は最後の過越の子羊(イエスキリスト)が捧げられるという型を成就しました。

1コリント 5:7 いつも新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種をきれいに取り除きなさい。現に、あなたがたはパン種の入っていない者なのです。キリストが、わた したちの過越の小羊として屠られたからです。

一方は紅海を渡ることによって神の民に地理的な肉体的な解放を与えました。他方はキリストの十字架の業によって神の民に霊的な解放をもたらしまし た。

最初のものは神に選ばれた民と神に一時的な契約ー旧い契約を結ばせました。第二のものは新しい契約という永遠の契約を築きました。

エジプトでの最初の過越の50日後、石の板に書かれた律法がシナイ山でイスラエルに与えられました。最後の過越が捧げられた50日後に、「神のイス ラエル」に律法が与えられ、それは神の霊によって彼らの心に書きしるされました(2コリント3:3、へブル8:10)。

ほとんどの人は上記のことがエクソドスの時に与えられた影の成就だということに同意しません。しかし関連性はエクソドスの最初の出来事で終わりはし ません。40年後に一時的な安息の地に入ったことにまで続きます。それはちょうど信仰の子孫たちが最初に一時的な安息に入ることを許されたように、その時 代のキリストに直接従った信仰の子孫たちは永遠の安息に入れたのです。どちらの契約も約束の地に入るための行動の前に40年がありました。

アブラハムが目指していた都とは、天のエルサレムでした。著者はこう言います。

ヘブル 12:22 しかし、あなたがたが近づいたのは、シオンの山、生ける神の都、天のエルサレム、無数の天使たちの祝いの集まり、 23 天に登録されている長子たちの集会、すべての人の審判者である神、完全なものとされた正しい人たちの霊、

この箇所から、私たちは都、王国、天のエルサレム、教会、シオンの山という同じ物の違った記述を理解できます。これらはみな一世紀に築かれた新しい 契約の成就です。これは旧い、物質的な、地上の都エルサレムと対比しています。

イスラエルの民の中の信者たちは彼らがパレスチナに入った時、約束の地の約束を受け取りませんでした(へブル4:6〜9)。この約束は神の国の贖い と永遠のいのちに関することだったのです。そしてその入り口は十字架からキリストの再臨までの40年の終わりに信者に共同体として与えられました。

どちらの期間中にも、人々は神が40年間働かれるの見ました(ヘブル3:9、使徒行伝2:17〜21)。モーセの導きの下、荒野にあって神はご自身 を毎日のマナ、奇跡的に与えられた水や肉、臨在を示すために雲と火の柱によるしるしと不思議によって民に現わされました。新しい契約への移行期間において は、使徒たちは特別ないやし、預言、異言という賜物が与えられ、来るべき神の国と悪者の滅亡を証しされました(1コリント14:22)。

エペソ 4:11 そして、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を福音宣教者、ある人を牧者、教師とされたのです。 12 こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき、 13 ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するの です。

教会が成熟していないならば、これらの賜物はまだ行使されるべきではないでしょうか?いいえ。教会はすべての賜物が終焉した紀元70年に成熟に至っ たのです。

どちらの期間にも、悪者は正しい者の中から切断され、約束の地に入ることを許されませんでした(へブル3:11、17、マタイ12:30、13: 49)。

キリストの死にあって成就した過越を発端に、災害がその結果として肉のイスラエルに下ろうとしていました。キリストの死は霊的イスラエルには救いの 祝福でしたが、肉のイスラエルには災いをもたらすものでした。これはマタイ21章33〜41節の息子が殺されたぶどう園の主人の例え話しから明らかです。 過越の成就は、ディスペンセーショナリストが論じるような神の国の約束の延期をもたらしたのではなく、肉のイスラエルの上に完全な破滅をもたらしたので す。42〜44節で、この時、神の国はイスラエルという国以外の人々に与えられるだろう、忠実な霊的神の国家である教会に与えられるだろうと記されていま す。

最初の40年の終わりには、信仰のイスラエルは一時的な約束の地に、物質的な敵を神の助けをいただいて打ち負かすことによって入りました。第二の 40年の終わりには救いが完成し、神の民は霊的な敵を神によって打ち負かすことによって永遠の約束の地に入りました(1コリント15:26、 54〜57)。

もしキリストが今日もまだ再臨されていなかったら、すべての信者はいまでも贖いの相続を待ち続けているのです。しかし私たちは、キリストが再臨さ れ、神が最初の影を成されたと同じように一世紀にもまさに同じ時間的な順序を用いて、「エクソドスの影」のすべての面を成就してくださったと信じていま す。

旧い契約の物質的な描写はどれも新しい契約の霊的現実として成就しています。第二番目は永遠の契約です。これは霊的奴隷状態と霊的死に対する勝利を 伴う、新しい永遠のいのちと永遠の救いをもたらす霊的な過越を通して与えられた永遠の解放です。キリストはご自身の民がキリストの臨在(パル−シア)を通 して至聖所に入ることを許されたのです。

エクソドスで示されたすべての型と影が神の民が罪の束縛からキリストのうちにある永遠の安息に至らせるエクソドスのうちに成就したのを見出します。 他の再臨や安息の約束の未来の成就を期待することは私たちが今キリストにあって与えられていること、すなわち神の国にある永遠のいのちに対する感謝が欠け ていることを表わします。

私たちが学んできた祭りはイスラエルが毎年祝う文字通りの祭りと教会のために神が与えられた出来事の預言的なカレンダーの型なのです。秋の祭りは乾 燥期の終わりにあります。

秋の祭りの最初は角笛祭(トランペットの祭り)

レビ記 23:23 主はモーセに仰せになった。24 イスラエルの人々に告げなさい。第七の月の一日は安息の日として守り、角笛を吹き鳴らして記念し、聖なる集会の日としなさい。25 あなたたちはいかなる仕事もしてはならない。燃やして主にささげる献げ物を携えなさい。
民数29:1 第七の月の一日には聖なる集会を開く。いかなる仕事もしてはならない。角笛を吹き鳴らす日である。

7つの祭りの中で角笛祭を除いてすべて詳しく説明されています。角笛祭の聖書の記録は長くもなく、複雑でもありません。イスラエルは単に、角笛を吹 くことによってその日を覚え、安息日の休みとしてその日を守るように命じられました。

ユダヤ教ではこの祭りは「ロシュ・ハシャナ」として知られてい ますが、聖書では決してその名前は知られていません。聖書においては、「ジクロン・ テルア」、または角笛を吹き鳴らしての記念(レビ23:24)、また「ヨ ム・テルア」、角笛が吹き鳴らされる日(民数29:1)と言われています。角笛祭は神殿でそしてイスラエル全土を通して角笛が吹き鳴らされ る日です。

ロシュ・ハシャナは文字通りには、「年の始め(頭・Head of the Year)」という意味です。しかし、この定義は少なくとも、この祝日が制定された後1500年以上たった紀元2世紀までこの祭りに適用されませんでし た。紀元70年の神殿崩壊に続いて、その祭りの遵守は急激になくなりました。神殿と犠牲制度がなくなったために角笛祭が継続して行われることが危機に瀕し ました。その結果、シナゴーグの儀式が広がり、新しい伝統が提案され、故郷を追われ、神殿を奪われた人々のためにこの祝日が維持されるようにという試みに 強調点が置かれるようになっていきました。この古代の祭りの時期はイスラエルの新年の始まりと時期が重なっています。紀元70年の神殿の崩壊後は、この祭 りと新年とが関連付けられました。

角笛祭が実際に行われたという記録は聖書の中にただ一度だけ記録されています。律法学者のエズラは角笛祭の最中に神殿の祭壇が築かれ、バビロン捕囚 から戻った人々によって犠牲制度が再び制定されたと述べています(エズラ3:1〜6)。ネヘミヤはエズラが民に神の律法を繰り返し読み聞かせた同じ日にイ スラエルのうちにリバイバルが起こったことを記録しています(ネヘミヤ7:73〜8:13)。

この祭りに関して私たちの興味をそそるいくつかのことがあります。第一に、この祭りは月の第一日目に祝われたこと。第二に、この祭りは第七の月の第 一日目に祝われたこと。第三に、この祭りは角笛が吹かれなければならなかったこと。「テルーワウ」ということばが使われていますが、それは「アラーム、シ グナル、叫び、戦争や警告や喜びの叫び」という意味です。なぜこの祭りが月の第一日目に行われることが重要なのでしょうか?7つの祭りの中で角笛祭だけが 月の最初の日に始められる祭りなのです。

ヘブルの月はそれぞれ新月で始まりました。他の祭りはみな、満月か満月に近づく頃であるそれぞれの月の中旬に行われました。夜は月の光が輝いていた のでした。新月の時は、月は暗く細い三日月があるだけでした。

それぞれの月の始まりはもとも新月の光に依存していました。夜は少しの月光だけなので暗かったのです。新月の正確な時期はいつも天候や証人の欠如の ため決定が容易ではありませんでした。

新月の最初の細長い小片を見たことに同意した二人の証人がそれぞれの新しい月を決定しました。二人の証人は新月を見て、神殿でサンヘドリンに証言し ます。これは2日のうちのどちらかに起こりました。なぜなら証人次第だったからです。だれもいつ証人たちが現れるのか知らなかったので、角笛の祭りがいつ 始まるかだれにも分かりませんでした。新月が現れたことが確認されて、角笛祭は始まりました。そして残りの秋の祭りはその日から正確に数えられました。角 笛祭はまた完全な安息日(High Sabbath)で、仕事をまったくしてはいけません。ですから、角笛祭のすべての準備は前もってされなければなりませんでした。だれも新月が現れる正確 な時間を知りませんでしたから、そのことは人々をいつもそれを意識する状態にしました。

新月が現われるおおよその時を人々は知っていました。しかしその正確に現れる時は知りませんでした。欧米に暮らしている者たちにとって旧暦は馴染み がありません。しかし、私たちは何千年もの間、この方法で古代の人々が時間を把握していたことを理解しなければなりません。神の預言のタイムラインを理解 しようとする前に、私たちは先ず、どのように神が時を計算されるのかを理解しなければなりません。

用心深いことはこの祭りの重大な要素だったのです。ラビたちは後に、この祭りをし損なうことがないように、二日目をつけ加えました。角笛祭に対する 用心深さと準備の必要性は新約聖書を通して主の再臨と関連して何度も繰り返されています。

マタイ 24:42 だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。

第7月ー私たちは7番目の月の重大性をすぐに理解すべきです。7番目の月は安息月として区別されていました。

神は7日目を休む日、安息日として制定されました(出エジプト20:8〜11)。安息日は休む日であるべきであったし、神がされたことを思い出すべ き日でした。安息日があっただけではなく、安息年もまたありました(レビ25:1〜7)。それは7年が7回来た後の年でした。

安息年、ヨベルの年は休み、贖い、自由の時でした。この間はみなが休みました。7年目と8年目に十分持ち越せるように6年間は神が三倍の祝福を約束 されました。

7番目の月は同じように特別でした。7番目の月の間に、とても特別な秋の祭り、角笛祭、贖罪日、そして仮庵祭が行われました。ほとんど一ヶ月間がこ の3つの祭りのために取り分けられたのです。

角笛を吹くことがどのように特別なのでしょうか?イスラエルには基本的に2つの種類のラッパがあります。雄羊の角(ショファー)で作られた角笛と銀 のラッパです。

ショファーは雄羊の角で作られた曲線状のラッパでした。へブル語では、ショファー(雄羊の角笛)は楽器として使われていないカレン(動物の角)とは はっきり区別されていました。雄羊の角は雄牛や雄羊の犠牲のいくつかの型から来ています。雄羊の角笛が特にエリコの城壁に向かって音が吹き鳴らされる時に 使われました。それはヨベルのラッパです。牛の角から作られたラッパは荒野で金の子牛を礼拝したイスラエル人の偶像礼拝を思いださせるので拒絶されまし た。雄羊の角笛は茂みの中に角を取られ捕まえられた雄羊をイサクの解放の代わりとしたことのさらに喜ばしいことがらとして理解されます。

主がティシュリ月1日を「ラッパを吹き鳴らす日」、または「ラッパを吹き鳴らす記念」と定められた時、角笛祭のラッパの種類は特に示されてはいませ んでした。ほとんど例外なく、歴史的習慣とラビの伝統では聖書に示された第一の楽器として祭司が使う銀のラッパではなく、ショファー(雄羊の角笛)が指定 されました。

たぶんこれはヨベルの年の告知のために使われる雄羊の角笛がそのオリジナルの理由でしょう。聖書はヨム・キッパーに吹くラッパとして高価な金属で 作ったラッパではなく、ショファー(雄羊の角笛)を指定しました。

50年ごとに、このショファーが奴隷が解放され、農耕のサイクルから土地が休みを得るヨベルの年の到来を告知しました。

捧げ物を捧げる儀式とは別に、ラッパはイスラエルでいくつかの用途に使われていました。中心的な2つの用途は、主の前に人々を集めること、そして人 々に来る危機に関する警告を与えるためでした(民数10:2〜4、9)。角笛祭はイスラエルの暗い日でした。それは天にある第一の明かりが暗い新月にあっ たからです。イスラエルの預言者たちは繰りかえし国家にもたらされる来るべき裁きの日を警告しました。それは「主の日」と呼ばれました。それはユダヤ人の時代の終わりに起こるべきことでし た。主の日は主がイスラエルの上に怒りを注がれる日でした。

預言者アモスはこの暗闇の裁きの日についてこのように語っています。

アモス 5:18 災いだ、主の日を待ち望む者は。主の日はお前たちにとって何か。それは闇であって、光ではない。 19 人が獅子の前から逃れても熊に会い/家にたどりついても/壁に手で寄りかかると/その手を蛇にかまれるようなものだ。 20 主の日は闇であって、光ではない。暗闇であって、輝きではない。

ラッパは主の日を導きいれるために使われました。

ヨエル 2:1 シオンで角笛を吹き/わが聖なる山で鬨の声をあげよ。この国に住む者は皆、おののけ。主の日が来る、主の日が近づく。
ゼパニヤ 1:14 主の大いなる日は近づいている。極めて速やかに近づいている。聞け、主の日にあがる声を。その日には、勇士も苦しみの叫びをあげる。 15 その日は憤りの日/苦しみと悩みの日、荒廃と滅亡の日/闇と暗黒の日、雲と濃霧の日である。 16 城壁に囲まれた町、城壁の角の高い塔に向かい/角笛が鳴り、鬨の声があがる日である。

先に記したように角笛祭は月が暗いうちに始まる唯一の祭りです。ゼパニヤの上記の箇所は多くの主の日の中で、暗闇の日、ショファーが吹き鳴らされる 日としている唯一の箇所です。

夜の空にある暗い月が角笛祭を告知するように、主の日が始まる時に、天は神の力で暗くされました。

ヨエル 2:31 (3:4) 主の日、大いなる恐るべき日が来る前に/太陽は闇に、月は血に変わる。

新約聖書においてラッパは復活の時に吹かれることになっていました。

マタイ 24:31 人の子は、大きなラッパの音を合図にその天使たちを遣わす。天使たちは、天の果てから果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める。
1コリント 15:52 最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。
1テサ 4:16 すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。すると、キリストに結ばれて死んだ人 たちが、まず最初に復活し、

パウロは神のショファーの音を復活と結びつけています。復活と角笛祭の共通点は何でしょうか?第一に、どちらもそれがいつ、何時起こるのか分からな いことです。第二に、どちらもショファーの音をもって告知されることです。

もし私たちがこれらのことをまとめるなら、この特別な祭りの日に吹かれるショファーの重要性を理解し始めることができるのではないでしょうか?春の 祭りはイエスキリストの死、葬り、復活によって成就したことを私たちは知っています。

神の子羊イエスキリストは過越のための罪の犠牲としてご自身を捧げられた時、過越祭を成就されました。キリストは墓に入ることによって除酵祭を成就 されました。復活によって初穂祭を成就されました。七週祭は50日後に新しい契約の始まりをもって成就したことを私たちは知っています。

4つの春の祭りはイエスの初臨のときに成就し、秋の3つの祭りは紀元70年のキリストの再臨の時に成就したのです。

ショファーが吹き鳴らされたことは忠実な者たちが主とともにいるために家に呼ばれることの型です。しかし、同時にキリストに来ることを拒んだイスラ エルには裁きをもたらすために吹かれたショファーの型となっています。

要約するなら、角笛祭は主の日に先立つ死者の復活の時に成就したと分かるのです。どちらもショファーが吹かれることによって到来が告げられます。

聖書は人や天使がラッパを吹くことについて何度も語っています。しかし神がラッパを吹かれるという記録はたった2回だけです。どちらの場合にもそれ はショファーです。最初のは、主が天からご自身を啓示され、旧い契約の下に国を導く準備をされたシナイ山での出来事です。主のシェキーナの栄光が激しい嵐 の中でショファーの音をもって降ってきました(出エジプト19:18〜20)。

二度目はメシアの再臨の時に主がショファーを吹かれたことです。主は暴風、栄光の雲、火、そしてラッパの響きをもって天から降ってこられました。預 言者ゼカリヤは以下のように宣言しています。

ゼカリヤ 9:14 主は彼らの前に現れ/その矢は稲光のように飛ぶ。主なる神は角笛を響き渡らせ/南からの暴風と共に進まれる。

古代のラビたちはこの箇所をメシアの到来と関連させて何度も引用しています。

「『そして主なる私たちの神が角笛を吹かれるだろう』と書かれているように、ダビデの子、私たちの正義なる方がご自身を現わされる時に、祝福された 聖なる方が角笛を吹かれることが定められている。」 (Tanna debe Eliyahu Zutta XXII)

興味深い注意書きとして、古代のユダヤの伝承は死者の復活はロシュ・ハシャナの時に起こるというものがある。この伝統に影響を受けて、ユダヤ人の墓 石にはしばしばショファーが彫られました。神の最後のラッパと義人の復活は新約聖書において複雑に結びついています。

1コリント 15:51 わたしはあなたがたに神秘を告げます。わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。 52 最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。

ほとんどの人はこれが復活の出来事だと理解しているでしょう。しかしほとんどの人は角笛祭と同一視していません。パウロは神のトーラーをしっかりと 学んだ人であり、主の祭りがメシアによって成就したことを理解しました。パウロはどのようにメシアが過越祭と初穂祭を成就されたかを理解しました。そして 秋の祭りをどのようにメシアが成就されるのかをも認識しました。

ユダヤの伝統によると、天国の門はロシュ・ハシャナの時に開かれ、正しい国は入って来ると言うことも興味深いことだと思います。なぜなら、天国の門 はロシュ・ハシャナに開かれると理解されていて、これはキリストにある信者の復活はロシュ・ハシャナに起こったというさらなる証拠です。

これらの3つの祭りは対型(アンチ・タイプ)について決定するのは少し困難です。なぜなら、その成就としての聖書の言及がないからです。聖書は新し い契約の成就に関しては沈黙しています。なぜなら聖書のどの書も紀元70年より前に書かれたからです。しかし私たちは春の祭りによって制定されたパターン が秋の祭りにおいて継続していることを知っています。

私たちはヨシュア記6章で、エクソドスの40年の終わりにエリコの城壁が崩れたというこの祭りの型(タイプ)を見ます。その中央に神の契約の箱を 持った7人の祭司たちが7回行進しました。行進の最後に、ラッパは吹き鳴らされ、人々は歓声を上げ、神はエリコの城壁を壊されました。勝利は完全でした。

エリコの出来事は、破壊と裁きの7つのラッパを持った7人の天使たちが登場するペンテコステから40年後の、ユダヤ人の時代における出来事の現実的 な預言と具体的なイメージを与えます。

黙示8:2 そして、わたしは七人の天使が神の御前に立っているのを見た。彼らには七つのラッパが与えられた。

その時、偉大で力強いバビロン(エルサレム)は突然崩壊しました。

黙示録 18:10 彼女の苦しみを見て恐れ、遠くに立ってこう言う。「不幸だ、不幸だ、大いなる都、/強大な都バビロン、/お前は、ひとときの間に裁かれた。

天において大きな叫び声が伴いました。

黙示録 18:20 天よ、この都のゆえに喜べ。聖なる者たち、使徒たち、預言者たちよ、喜べ。神は、あなたがたのために/この都を裁かれたからである。

「ヨシュア」という名前はイエスに相当するへブル語です。ヨシュア記において都の崩壊がラッパの響きによって起こったように、ユダヤ人の時代の終わ りにあるエルサレムの崩壊もイエスがラッパを吹き鳴らされる時に起こりました。

ロシュ・ハシャナの別名は「ヨム・ハディン」、裁きの日です。正しい者は取り分けられ、神と一緒になります。これは聖書を信じている者たちにとって は復活として理解されています。悪い不信仰なユダヤ人たちはイスラエルの滅亡に際し、患難を通り、神の怒りに直面しました。

私たちはエルサレムの秋にある角笛祭と紀元70年に起こったキリストの再臨の霊的対型(アンチ・タイプ)を見ます。それゆえマタイ24章でラッパが 吹き鳴らされる時、その場面は設定され、キリストが祭りを成就されたのです。エルサレムが崩壊したのは何月か想像してみましょう?ヨセフスによると、「都 は紀元70年9月8日に、5ヶ月続いた包囲攻撃の後に陥落」 (Josephus, vol. 1, p. 467)したというのです。

角笛祭、贖罪日、仮庵祭は第7の月にあります。7という数字は完全数です。これらの祭りの間に信者は神の完全(フルネス)へと導かれるのです。



パート1
パート2
パート3
パート4
パート5


※この主の祭りシリーズ(5回)はベレアン・バイブル・チャーチのカーティス牧師のメッ セージです。このメッセージはカーティス牧師の許可を得て翻訳掲載しています。無断転載などはお止めください。



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