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主の祭り
Part 2

by デイヴィッド・カーティス


レビ記 23


私たちは主の祭りを学んでいます。主の祭りには7つあり、レビ記23章には時間的順序でその祭りが掲載されて います。
レビ23:4 以下は主の祝日であり、その日あなたたちはイスラエルの人々を聖なる集会に召集しなければならない。

「祭り」ということばの意味は「定められた時間」ということです。「聖なる集会」とは「リハーサル(試演・練習)」という意味です。別の言い方をす ると、主の祭りとは神の預言的カレンダーにおいて「舞台稽古」としてイスラエルが礼拝するために定められた時間です。肉のイスラエルに起こることは、普 通、教会に起こる霊的なことがらと並行しています

基本的に、これら7つの祭りは主の贖罪の中心的出来事が連続的であり、時間的であり、重大であることを表わし、象徴しています。それらはイエスがご 自身を世界の罪のために自発的に捧げられたカルバリー(過越)で始まり、主の再臨の時のメシアの王国の完成をもってクライマックスを迎えました。7つの祭 りはメシアの贖罪の全体を描写しています。

これらの祭りの研究は類型学(タイポロジー)の研究です。類型学とは旧約の出来事、人物、儀式が教会と新しい契約の中におけるキリストの成就を予表 するしるしとして解釈することです。類型学(タイポロジー)は型、または予型(象徴、概念、儀式、旧約の前兆としての出来事)と対型(アンチ・タイプ)、 すなわち新約の歴史的形態、または型(タイプ)の約束に続く、また成就する出来事の両方を識別することを含みます。

ヘブル 10:1 いったい、律法には、やがて来る良いことの影があるばかりで、そのものの実体はありません。従って、律法は年ごとに絶えず献げられる同じいけにえによっ て、神に近づく人たちを完全な者にすることはできません。

律法は影でした。キリストの来臨は旧約聖書の影を取り除きました。モーセの律法の目的は私たちにキリストの人格と働きの予表、予想像を与えることで す。旧い犠牲は影であって、決して本質ではありませんでした。影は不十分なのです。私たちは家の影に住むことはできません。家に住む必要があるのです。

ヘブル書の著者が言っていることに注意しましょう。律法とは「やがて来る良い ことの影」です。「来る」というギリシャ語のことばは「メロー」で、その意味は「まさに〜しようとしている、今〜しようとしている」とか「今にも〜しそうで」ということです。「良いこと」とはまさに来ようとしていた新 しい契約の完成のことを言っています。それは紀元70年に、「まさに来ようとして」いたのであって、へブル書が書かれた時はまだ来ていなかったのです。

「そのものの実体はあ りません」の「実体」というギリシャ語のことばは「エルコン」で、その意味は「正確 なレプリカ」です。律法はただ影であって、正確なレプリカではありません。

エモリー・エリオットの「New England Puritan Literature」によると、類型学的解釈学とは新約におけ る出来事と人々を予示するものとしての旧約のしるしを詳しく説明することです。これは興味深いを生み出します。例えば、大魚の中に三日間いたヨナは墓 の中に三日間いたキリストと類型的に並行します。

トーマス・ハーウェル・ホーンはイギリスの神学生が一般的に読むテキストとして用いられているAn Introduction to the Critical Study and Knowledge of the Holy Scripturesの中で、「型(タイプ)は第一義的 に、また字義的意味において、おおまかなブループリントとか、より完全なイメージからすると少し正確さの足りないモデルという意味です。しかし、聖書的・ 神学的観点からすると、型(タイプ)は将来の離れた何かの象徴(シンボル)、または未来のことがらを予め表わすために神によって明確に準備され、デザイン された見本として定義できるでしょう。」と説明しています。

パウロはこの研究の方法の基本的原則を以下のように述べています。Paul declared the fundamental principle of this means of study, by saying:

1コリント 15:46 最初に霊の体があったのではありません。自然の命の体があり、次いで霊の体があるのです。

神は一時的な影を用いて永遠の贖いの計画が神秘であることを明らかにしています。私たちは「アブラハムにふたりの息子がいる」ことを学びました。そ れによって聖書の象徴と類型のすばらしさを見させられるのです。

ガラテヤ 4:22 アブラハムには二人の息子があり、一人は女奴隷から生まれ、もう一人は自由な身の女から生まれたと聖書に書いてあります。

これらの二人の息子とはだれのことでしょうか?イシマエルとイサクです。イシマエルは普通の方法でハガルから生 まれました。しかし、イサクは奇跡的な方法でサラから生まれました。

ガラテヤ 4:23 ところで、女奴隷の子は肉によって生まれたのに対し、自由な女から生まれた子は約束によって生まれたのでした。  24 これには、別 の意味が隠されています。すなわち、この二人の女とは二つの契約を表しています。子を奴隷の身分に産む方は、シナイ山に由来する契約を表していて、これがハガ ルです。 25 このハガルは、アラビアではシナイ山のことで、今のエルサレムに当たります。なぜなら、今のエルサレムは、その子供たちと共に奴隷となっているからです。26 他方、天のエルサレムは、いわば自由な身の女であって、これはわたしたちの母です。
ガラテヤ 4:28 ところで、兄弟たち、あなたがたは、イサクの場合のように、約束の子です。 29 けれども、あのとき、肉によって生まれた者が、““霊””によって生まれた者を迫害したように、今も同じようなことが行われています。

この二人のアブラハムの息子たちの関係を通して、私たちはふたつの契約に関しての神の永遠の計画を教えられ、以前には隠されていたことが明らかにさ れます。

主の祭りは実際、2つの40年のエクソドスがあることを伝えています。第一のエクソドスの期間は私たちにとても なじみのあるものです。肉のイスラエルが過越の時に、エジプトの束縛から解放され、地理的な(物質的な)約束の地に向かって物理的な旅をするために荒野に おかれました。さて、さらに重要なこと、その対型(アンチ・タイプ)は霊的なエクソドスです。このエクソドスは十字架から紀元70年まで続きます。このエ クソドスにおいて霊的なイスラエルは罪と死の法則(ローマ8:2)の束縛から解放され、霊的な相続、神の国、または新しい天と地への40年間の霊的な旅が 始まります。

前の学びで、最初の3つの祭り、過越祭、除酵祭、初穂祭を学びました。過越祭は過越の子羊としてのイエスの身代わりの死を見ました。除酵祭はイエス の葬りを表わしています。初穂祭はメシアの復活を描写しています。この祭りは初穂祭の二日目、過越祭の三日目にあります。イエスは3日目によみがえられま した

七週祭

第四の祭りはへブル語で「シャブーテ」として知られています。それは七週祭と呼ばれています。なぜなら、神は特にヤコブの子らに初穂祭から七週を数 え、その次の日に第四の祭りを守れと言われたからです。

レビ記 23:15 あなたたちはこの安息日の翌日、すなわち、初穂を携え奉納物とする日から数え始め、満七週間を経る。 16 七週間を経た翌日まで、五十日を数えたならば、主に新穀の献げ物をささげる。

七週は49日です。それに一日加えると合計50日となります。この第四の祭りは初穂祭(イエスの復活)からちょうど50日目に行われるべきだったの です。

古代ユダヤ世界では名前はとっても大切です。それはそれに関わる大切な人物、歴史、意味を表わすからです。へブル語で「七週」を意味する「シャ ブーテ」の祭りのためにへブル語では3つの違った名前が付けられています。それぞれの名前はその儀式の違った面を強調しています。もっとも一般的なへブル 的意味は「ハグ・ハシャブート」、「七週の祭」とう意味です。シャブートは七週の祭りと呼ばれています。それはこの祭りを守るのが初穂祭から数えて七週だ からです。

この祭りの第一の意味はへブル語の「ヨム・ハビクリム」、または「初穂の日」を表わします。それはシャブートが神殿に夏の小麦の収穫からの初穂の捧 げ物を携えて来る日だったからです。

出エジプト 34:22 あなたは、小麦の収穫の初穂の時に、七週祭を祝いなさい。年の終わりに、取り入れの祭りを祝いなさい。

ですから、イスラエルの始めの初穂祭が春の大麦の収穫を表わしていたように、シャブートは夏の小麦の収穫の始まりを表わしていました。

第三の名前は「ハグ・ハカツィアー」、または「収穫の祭り」であり、この祭りが夏の収穫期の公式な始まりの事実を意味しています。この聖書的な意味 に加えて、タルムードとヨセフスはこの祭りを「結果、終結」という意味の「アツェレット」として言及しています。彼らはシャブートを過越祭の季節と七週祭 の春の収穫の終結と見ています。なぜなら、秋まで他には主要なユダヤ人の祭り、祝日はないからです。ギリシャ語においてシャブートはペンテコステとして知 られています。意味は、「第50番目」で、初穂祭から数えて50日目に祝いました。50日はヨベルの香りを持っています。ヨベルの年とは捕虜が解放と関連 する50年という概念です。紀元70年はヨベルの年でした。そのヨベルの年には贖罪日にラッパを吹きます。

ですから、ペンテコステの祭りは七週祭、収穫祭、ペンテコステ、初穂の日という4つの中心的な名前を持っています。

レビ記 23:15 あなたたちはこの安息日の翌日、すなわち、初穂を携え奉納物とする日から数え始め、満七週間を経る。

初穂祭で初穂の捧げ物として神殿に持って来られた大麦はオマー(へブル語で「束」)として知られています。この日数を数えるのがオマーの捧げ物から 始まるので、この50日の期間はオマーとしても知られています。

七週祭の歴史

ユダヤ人たちがエジプトを出発して三ヵ月後、シナイの荒野に到着し、シナイ山に向かって宿営しました。そしてモーセは神から律法を受け取るために民 を集めるように言われました。

出エジプト 19:1 イスラエルの人々は、エジプトの国を出て三月目のその日に、シナイの荒れ野に到着した。 2 彼らはレフィディムを出発して、シナイの荒れ野に着き、荒れ野に天幕を張った。イスラエルは、そこで、山に向かって宿営した。3 モーセが神のもとに登って行くと、山から主は彼に語りかけて言われた。「ヤコブの家にこのように語り/イスラエルの人々に告げなさい。 4 あなたたちは見た/わたしがエジプト人にしたこと/また、あなたたちを鷲の翼に乗せて/わたしのもとに連れて来たことを。 5 今、もしわたしの声に聞き従い/わたしの契約を守るならば/あなたたちはすべての民の間にあって/わたしの宝となる。世界はすべてわたしのものである。 6 あなたたちは、わたしにとって/祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエルの人々に語るべき言葉である。」 7 モーセは戻って、民の長老たちを呼び集め、主が命じられた言葉をすべて彼らの前で語った。 8 民は皆、一斉に答えて、「わたしたちは、主が語られたことをすべて、行います」と言った。モーセが民の言葉を主に取り次ぐと、

イスラエル人たちは「主が語られたことをすべて、行います」と答えました。へブル語で「ナアシェ・ヴニシュマ」、「私たちは聞く前でさえも行うこと に同意します」という意味です。

それからモーセはユダヤ人たちに二日間、衣服を洗い、三日目に律法を受け取る準備をするために身を清めるように言いました。それと同時にモーセはシ ナイ山に近づき過ぎてはいけないと言いました。朝早くから濃い雲が山頂に掛かっていました。雷鳴と雷光が絶え間なく見聞きできました。ショファー(雄羊の ラッパ)の音が激しく聞こえました。山頂は火と煙で包まれました。シナイ山の麓にいたイスラエル人たちは大きな恐れに立ち尽くしました。

出エジプト 19:18 シナイ山は全山煙に包まれた。主が火の中を山の上に降られたからである。煙は炉の煙のように立ち上り、山全体が激しく震えた。19 角笛の音がますます鋭く鳴り響いたとき、モーセが語りかけると、神は雷鳴をもって答えられた。

それからモーセはひとりで山に登って行きました。彼が頂上に近づいた時、力強い声が十戒を告げました(出エジプト19:20〜25、20: 1〜21)。聖書の中にはそれに関わる日付はありません。しかしシャーブートに関して正統ユダヤ教徒に尋ねるなら、それは初穂祭の後の50日目にいつも祝 われますと答えるでしょう。

ですから、非常に特筆すべき歴史的出来事は最初のシャブートの日に起こりました。十戒が与えられたのです。

イスラエルは第三月の第三日にシナイ山に到着しました(出エジプト19:1)。ですから、神によって律法は聖書的・宗教的暦では、シヴァンの月であ る、第三月の第六日に与えられました。この日は紅海を渡った日からちょうど50日目です。

シャブートはへブル語ではトーラが与えられる季節と呼ばれます。なぜなら、これはシナイ山の麓に立ったイスラエル人たちに神がご自身を現わされた
文字通りの日だからです。

新しい契約のアンチ・タイプ(対型) - ペンテコステ

「ペンテコステ」と聞くと何を考えるでしょうか?使徒行伝2章ですか?異言ですか?カリスマ派ですか?私たちの心に思い浮かべるべきことは、新しい 契約の始まりである教会の誕生です。

イエスは初穂祭に復活されました。イエスの復活の50日後約束の新しい契約は到来したのです。

使徒 2:1 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、 2 突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。 3 そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。4 すると、一同は聖霊に満たされ、““霊””が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。

ローマの歴史家タキトゥスは「約60万人の人口をかかえた聖なる都は巡礼のために2〜300万人に膨れ上がりました。」と記録しています。巡礼者た ちは家の屋根の平らな場所に眠ったり、エルサレムの城壁の外側でキャンプを張ったり、親戚や友だちにもてなされたりしました。みな神の家から「安息日の距 離」にいました。

3大祭りの期間の聖なる都での滞在は神がモーセに命じられたトーラに対する従順でした。

申命記 16:16 男子はすべて、年に三度、すなわち除酵祭、七週祭、仮庵祭に、あなたの神、主の御前、主の選ばれる場所に出ねばならない。ただし、何も持たずに主の御前に 出てはならない。

シャブートは特に聖書の時代のユダヤの祭りとしてとても重要でした。イスラエルに与えられたユダヤ人の聖なる7つの祭りにおいて、3つは神が「厳か な祭り」として定められました。シャブートはこの3つの第二番目でした。

人々は祭りのために集りました。主がこの時を預言の成就のために選ばれたのは最大限の効果のためでした。そして事実これは神の預言だったので す。「エルサレムには、敬虔なユダヤ人たちが、天下のあらゆる国から来て住んでいた」と書かれています。彼らはたぶんその祭りのために来たのでしょう。し かし、主はこれらの人々のために他の何か、さらに良い何かを計画しておられました。この日彼らは新しい教会、神の教会、メシアイエスの教会のメンバーの初 穂となるべきだったのです。新しい民のために新しいメッセージがありました。それはすべての国語、すべての人々によって聞かれるべきだったのです。聖霊が 語らせてくださるとおりに彼らは語るべきでした。それはすべての人々に分かることばで語られたすばらしいいのちの救い、人生が変わるイエスのことば、すべ ての人々に与えられた永遠の約束のことばでした。キリスト教の学者たちはエルサレムで起こった歴史的ペンテコステを「教会の霊的誕生」としています。

タイプ(型)とアンチ・タイプ(対型) - 旧い契約・新しい契約

エジプトでの最初の過越の50日後、石の板に書かれた律法がシナイ山で与えられました。最後の過越が捧げられた50日後に神の霊によって人々の心に 書かれた律法が「神のイスラエル」に与えられました(2コリント3:3)。

ヘブル 8:10 『それらの日の後、わたしが/イスラエルの家と結ぶ契約はこれである』と、/主は言われる。『すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、/彼らの心にそ れを書きつけよう。わたしは彼らの神となり、/彼らはわたしの民となる。

最初のペンテコステの日、律法が与えられ、金の子牛を拝んだために3000人の人が死にました。それは死をもたらす律法の契約を表わしています(出 エジプト32:28、2コリント3:16〜18)。最初の新しい契約のペンテコステにおいて、聖霊が与えられ、3000人にいのちが与えられ(救われ)、 イエスキリストの教会に加えられました(使徒行伝2:41)。それは聖霊がもたらす契約を表わしています。

最初の場合、初穂祭の50日後、神は律法を与えるためにシナイ山のモーセのところに降りて来られました。律法を与えることによって、神はイスラエル という国家を建設されました。神の契約の民として彼らは神の義を表わす民となるように定められました。彼らは「王なる祭司、聖なる国民」となりました。シ ナイ山での律法の授与と聖霊による新しい契約のアパルームにいる120人に対する授与は、暦の同じ日、ペンテコステの日に起こりました。

たぶんもっともすばらしいペンテコステのイメージのひとつは神(花婿)とイスラエル(花嫁)の婚姻です。神が与えられた聖書的な結婚式(ローマ9: 4、へブル9:1、1歴代誌28:11〜12)において、結婚は2つの段階(ステージ)を持っています。第一段階(ステージ)は婚約、へブル語で「エルシ ン」とよばれます。この最初の段階には2組の間に婚約の協定が結ばれるとすぐに入ります。この書面にされた契約を「ケツバ」と言います。婚約期間中、ふた りは法律上結婚していることになります。しかし、物理的には一緒に暮らしていません。婚約は非常に法律的に拘束されるものであったので、離婚、へブル語で 「ゲット」することなしに解消することはできません。

結婚の第二段階(ステージ)は完全な、完成された結婚です。これは「ネスイン」と呼ばれます。

聖書はエレミヤ書でシナイ山で神がイスラエルと婚約されたと教えています。

エレミヤ 2:2 行って、エルサレムの人々に呼びかけ/耳を傾けさせよ。主はこう言われる。わたしは、あなたの若いときの真心/花嫁のときの愛/種蒔かれぬ地、荒れ野での 従順を思い起こす。3 イスラエルは主にささげられたもの/収穫の初穂であった。それを食べる者はみな罰せられ/災いを被った、と主は言われる。

キリストと新しい契約における結婚式の意味は何でしょうか?イエスは花婿です。一世紀のクリスチャンたちは彼と婚約しました。ほとんど2000年前 にイエスが地上に来られた時、イエスに信頼と確信をおく者とはだれでも永遠に結婚するために来られました。これはユダヤ人も非ユダヤ人もどちらも含まれ ています(ヨハネ3:16)。昇天においてキリストは父なる神のもとに行かれました。しかしイエスが帰られる前に、一世紀のイエスの弟子たちに彼らを受け 入れるために戻ってくると約束されました。

ヨハネ福  14:3 行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。

ここで、イエスはだれに語っておられるのでしょうか?ユダを除いた(ヨハネ13:30〜31)11人の弟子に語っておられます。イエスはご自身の 死、復活、昇天に言及してから彼らを離れて行かれました。ペンテコステからホロコーストまでの移行期間にキリストは弟子たちと一緒に住んではおられません でした。それは婚約期間だったのです。しかしイエスは彼の花嫁のために戻ってくる約束をされました。

ですから、一世紀のキリストを信じる信者たちは霊的にイエスと婚約していました。彼らは完全な結婚関係に入るべきでした。イエスは花嫁のために戻っ て来られて一緒に暮らすべきだったのです。

シナイ山で与えられたトーラはアロンの祭司制度、犠牲制度、幕屋、安息日、祭り、司法と祭儀律法、そして十戒が含まれていました(出エジプト19: 17、20、20:1、21〜22、21:1〜2、12、22:1、16、23:10〜11、14、24:1〜8、12、18、25:1、8〜9、40、 28:1、31:12〜18、32:1、34:27〜28、へブル8:1〜6、9:1〜12、15、18〜24、10:1、10、13:20)。これらは 来るべきものの影(へブル10:1)、また私たちにイエスと神の贖いのわざを教える(コロサイ2:16〜17)ために神によって与えられたものです。シャ バートは荒野での会衆の誕生でした(使徒行伝7:38)。シナイ山で与えられたことは神からのものでしたが、神が私たちに伝えたいと願っておられた霊的な 真理を理解するため(1ペテロ2:5〜9)に物理的な、物質的な方法(へブル9:1)で示されました。ですから神がイスラエルに契約、トーラ、神の託宣と 約束(ローマ9:4〜5、3:2)をシナイ山で与えられたのは私たちにイエスについて教えるためでした(へブル9:1)。

詩篇 40:7 (8) そこでわたしは申します。御覧ください、わたしは来ております。わたしのことは/巻物に記されております。 
ペンテコステとパン種

過越においてパン種は完全に禁じられていました(出エジプト12:15、19〜20)。一般的な食べ物の捧げ物においても禁止されていました(レビ 2:1、4〜5、11)。前の学びでパン種は罪を表わすと学びました(1コリント5:6〜8、ガラテヤ5:9)。過越と種なしパンは罪のないイエスの死と 葬りを語っています。しかしペンテコステにおいては神はちょうど反対のことを命じておられます。

レビ記 23:17 各自の家から、十分の二エファの上等の小麦粉に酵母を入れて焼いたパン二個を携えて、奉納物とする。これは主にささげる初物である。

ペンテコステのための神殿での奉仕は初穂祭のやり方と多くが同じです。それはどちらの祭りも初穂をもって祝われるからです。しかし、ペンテコステの 捧げ物はユニークです。それは2つの長く、平たい小麦の種入りパンを使うように主によって命じられているからです。

パンは焼かれません。それは主が祭壇でパン種を焼くことを禁じておられるからです。「パン種や蜜は、少しでも、主への火による捧げ物として煙にして はならない」。その代わりに、2つのパンと二頭の雄の子羊が和解の捧げ物としてペンテコステの揺らす捧げ物を形成します。祭司は祭壇の前でこれを前後に、 そして上下に揺らしました。その後、「祭司」のためにそれは取り置かれます(レビ23:20)。その日の遅く祭司は神殿で食べる祭りの食事を整えました。 それはペンテコステの食事と呼ばれます。

ですからペンテコステの日に、彼らは種の入った2つのパンを揺り動かさなければなりませんでした。これらの2つのパンはユダヤ人と異邦人、すなわち 教会を表わします。どうしてパンはイースト菌を入れていないのでしょうか?

ヘブル 8:10 『それらの日の後、わたしが/イスラエルの家と結ぶ契約はこれである』と、/主は言われる。『すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、/彼らの心にそ れを書きつけよう。わたしは彼らの神となり、/彼らはわたしの民となる。 11 彼らはそれぞれ自分の同胞に、/それぞれ自分の兄弟に、/「主を知れ」と言って教える必要はなくなる。小さな者から大きな者に至るまで/彼らはすべて、わ たしを知るようになり、 12 わたしは、彼らの不義を赦し、/もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。』」 13 神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。

この新しい契約の特徴のひとつが12節に見出されます。「もはや彼らの罪を思い出しはしないからである」。さて、以下の箇所を見ましょう。

ダニエル 9:24 お前の民と聖なる都に対して/七十週が定められている。それが過ぎると逆らいは終わり/罪は封じられ、不義は償われる。とこしえの正義が到来し/幻と預言 は封じられ/最も聖なる者に油が注がれる。

ダニエルはイスラエルの民とエルサレムの都のために70週が定められたと言われました。この預言の期間の終わりに、神は6つのことを完成すると約束 されました。ダニエルが神によって語られたその期間の終わりに起こることのひとつは神が「罪を封じられる(終わらせる)」ということです。

エゼキエルはイスラエルの罪が終わらせられる終わりのときについて預言しています。それはイスラエルが「清められる」時です。

エゼキエル 36:24 わたしはお前たちを国々の間から取り、すべての地から集め、お前たちの土地に導き入れる。 25 わたしが清い水をお前たちの上に振りかけるとき、お前たちは清められる。わたしはお前たちを、すべての汚れとすべての偶像から清める。 26 わたしはお前たちに新しい心を与え、お前たちの中に新しい霊を置く。わたしはお前たちの体から石の心を取り除き、肉の心を与える。 27 また、わたしの霊をお前たちの中に置き、わたしの掟に従って歩ませ、わたしの裁きを守り行わせる。 28 お前たちは、わたしが先祖に与えた地に住むようになる。お前たちはわたしの民となりわたしはお前たちの神となる。 

この預言はダニエルの70週と同時期のことです。これは約束された新しい契約です。それではなぜ教会がパン種、または罪を持つように描写されている のでしょうか?それは新しい契約はペンテコステの時にはまだ十分に完成していなかったからだと私は考えています。教会はペンテコステの日に誕生しました が、紀元70年まで旧い契約は過ぎ去っていませんでした。へブル人への手紙は紀元62〜64年に記されましたが、へブル8:13では「年を経て古びたもの は、すぐに消えていく」ものとして旧い契約を語っています。ペンテコステと贖罪日(紀元70年)までの間、罪はまだ封じられていなかったのです。それはイ エスがまだ戻って来ておられなかったからです。

ほとんどのクリスチャンは贖いは十字架上で完成したと考えていると言うことは安全だと私は思います。しかしこれは聖書が教えていることではありませ ん。贖いは再臨と強く結びついているのです。

ルカ 21:27 そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。 28 このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。

キリストが再臨された時、彼は贖いをもたらされます。旧い契約が存在する限り、クリスチャンは完全ではなく、神に近づくことはできなかったのです。

ヘブル 9:8 このことによって聖霊は、第一の幕屋がなお存続しているかぎり、聖所への道はまだ開かれていないことを示しておられます。 9 この幕屋とは、今という時の比喩です。すなわち、供え物といけにえが献げられても、礼拝をする者の良心を完全にすることができないのです。10 これらは、ただ食べ物や飲み物や種々の洗い清めに関するもので、改革の時まで課せられている肉の規定にすぎません。

旧い契約の下では、人々は決して完全にされませんでした。彼らは完全ではなかったので、神の臨在に入ることはできませんでした。しかし旧い契約が滅 ぼされたら、信じる者は完全にされ、神の臨在に入れます。

聖徒たちが移行期間に経験したことは来るべき完成の頭金でした。

エペソ 1:13 あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。 14 この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです。

「保証」というギリシャ語のことばは「アーハボン」といい、「担保、抵当、支払い金の一部、残りの保障のために前もって支払われる財産、保証金」と いう意味です。この同じ考えを以下の箇所に見出します。

2コリント 1:22 神はまた、わたしたちに証印を押して、保証としてわたしたちの心に““霊””を与えてくださいました。
2コリント 5:5 わたしたちを、このようになるのにふさわしい者としてくださったのは、神です。神は、その保証として““霊””を与えてくださったのです。

移行期間にあった聖徒たちは今私たちが持っていることの保証金をもっていました。彼らは来るべきものの保証を持っていたのです。私たちはそれをみな 持っています。

ペンテコステは国家としてのイスラエルの誕生とイエスキリストの教会の誕生について語っています。2つのパンはユダヤ人と異邦人がイエスキリストの 教会にあってひとつになることを語っています。たとえイスラエルと教会が神に選ばれ、神に対して聖とされたとしても、罪はイスラエルの内に見出され、移行 期間にある教会にもまだ存在しました。過越と種なしパンは罪のないイエスについて第一義的に語っていますが、ペンテコステは罪がまだ存在するイスラエルと 新約の教会について語っています。

肉のイスラエルにとって、過越はエジプトの束縛からの自由でした(出エジプト12章)。種なしパンはエジプトの地から紅海と荒野の雲を通しての侵礼 (バプテスマ)への分離でした(1コリント10:1〜2)。最後に神はペンテコステを経験するシナイ山に人々を導かれ(出エジプト19:1)、人々に以前 にはなかったさらに大いなる方法でご自身を啓示されました。

春の祭りは、私たちの過越の子羊イエスが過越祭の日に死ぬことによって成就しました。イエスは罪のない、いのちのパンです。イエスは除酵祭の日に墓 におられました。イエスは地の中に葬られた小麦の穀粒でした。イエスは大麦の収穫の初穂としてよみがえり、死からよみがえる者たちの初穂となられました。 最後に約束された新しい契約がすべてのキリストにある信じる者たちを集める、地上の神の春の収穫としてのペンテコステの祭りの間に到来しました。これらの 4つの祭りがメシアの最初の到来の間の重大な出来事を細かく説明するように、エデンの園での人間の堕落に続いて、神のもとに人を贖うためにイエスが再び来 られる再臨時の出来事について、秋の祭りが驚くほどの洞察を与えてくれるのを私たちは見出すでしょう。



パート1
パート2
パート3
パート4
パート5

※この主の祭りシリーズ(5回)はベレアン・バイブル・チャーチのカーティス牧師のメッ セージです。このメッセージはカーティス牧師の許可を得て翻訳掲載しています。無断転載などはお止めください。

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