レビ記 23
レビ記 23:4 以下は主の祝日であり、その日あなたたちはイスラエルの人々を聖なる集会に召集しなければならない。
「祭り」ということばの意味は「定められた時間」ということです。「聖なる集会」とは「リハーサル(試演・練習)」という意味です。別の言い方をす ると、主の祭りとは神の預言的カレンダーにおいて「舞台稽古」としてのイスラエルが礼拝するために定められた時間です。肉のイスラエルに起こることは、普 通、教会に起こる霊的なことがらと並行しています。
基本的に、これら7つの祭りは主の贖罪の中心的出来事が連続的であり、時間的であり、重大であることを表わし、象徴しています。それらはイエスがご 自身を世界の罪のために自発的に捧げられたカルバリー(過越)で始まり、主の再臨の時のメシアの王国の完成をもってクライマックスを迎えました。7つの祭 りはメシアの贖罪の全体を描写しています。
「7」という数字は聖書の完全数です。世界を創造された後、神は7日目に休まれました。神は疲れたので休まれたのではありません。全能者は疲れませ ん。神は完成と満足の中に休まれたのです。神が創造されたものは良いものであり、満足のいくものでした。他に欠けているものはなかったのです。週の第7日 目にイスラエルの子たちは安息日を守らなければなりませんでした。それは神の創造の休息を模範にしたものでした。彼らは自分たちの労働をやめて休息すべき だったのです。
7年が7回数えられ(49年)るべきであり、その次の年(50年目)をすべての負債が赦され、奴隷が自由にされるヨベルの年とされるべきでした(レ ビ25:9〜12)。
神が贖罪の目的に完成をもたらすときのために、ユダヤ人に対して70週が定められました(ダニエル9:24〜27)。黙示録はユダヤ人の時代の完成 を記録しています。黙示録は7という数字を50回以上も用いています。
これらの祭りのコメントで、ある著者は「7つの祭りの4つはその年の春にあります。これらの祭りの成就は「完了」しました。別の言い方をすると、そ れらはすでに起こった死、葬り、復活、昇天というメシアの生涯の出来事を表わしています。残りの3つの祭りはその年の秋にあります。それはまだ成就してい ない聖書預言の将来の出来事を表わしています。」と言います。
プレテリストとして、私は農耕期の最初の7ヶ月にある旧約のイスラエルの7つの祭り、祝日は預言的にも、霊的にも十字架から紀元70年のイエスキリ ストの再臨、ユダヤ人の時代の終わり、神の国の完成と同一であるエルサレムの陥落までの期間に成就したと信じています。
これらの祭りは戦略的な順序で見なければなりません。今日のユダヤ教は角笛(トランペット)を新年と考えていますが、それは間違っています。彼らは そう考えることで、決して本当には預言を理解することができません。主の祭りは過越から仮庵までの順序で見なければなりません。実際、祭りは2つの40年 の出エジプトの期間を告げます。第一の出エジプトの期間は私たち皆に親しみのあるものです。それは過越の時にエジプトの束縛から肉体は自由にされ、彼らは 物質的な約束の地に地理的な旅をするために荒野に置かれました。さて、私たちがあまりなじみのないさらに重要で、霊的な出エジプトがあります。これは十字 架から紀元70年まで続きます。この出エジプトにおいて霊的なイスラエルは罪と死の律法の束縛から解放され(ローマ8:2)、霊的な相続、神の国、新しい 天と地への霊的な40年の旅を始めました。
新約聖書において、イスラエルの祭りは霊的現実の描写であり、それらは預言的であり、来るべきことがらについて語っているものであると教えられま す。
コロサイ 2:16 だから、あなたがたは食べ物や飲み物のこと、また、祭りや新月や安息日のことでだれにも批評されてはなりません。17 これらは、やがて来るものの影にすぎず、実体はキリストにあります。
パウロは祭りは来るべきものの影であると言います。ヘブル8章5節は基本的に同じ事を言っています。
ヘブル 8:5 この祭司たちは、天にあるものの写しであり影であるものに仕えており、そのことは、モーセが幕屋を建てようとしたときに、お告げを受けたとおりです。神 は、「見よ、山で示された型どおりに、すべてのものを作れ」と言われたのです。
影や型はそれを理解しようとするなら、たくさんのことを私たちに教えてくれるでしょう。
1コリント 10:11 これらのことは前例として彼らに起こったのです。それが書き伝えられているのは、時の終わりに直面しているわたしたちに警告するためなのです。
この箇所の「彼ら」とは旧約聖書の肉のイスラエルのことです。「わたしたち」とは新約聖書の霊的イスラエルです。その時代の終わりは一世紀の聖徒た ちに来たのです。
レビ的制度のすべてはキリストの影です。それはキリストのご性質と成し遂げられる業を現わしていました。イエスご自身が旧約聖書を示してご自身のこ とを証言しておられます。
ヨハネ福 5:39 あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。 40 それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。
これらの祭りはイスラエルの梅雨の時期に従ってセットになっています。過越祭、除酵祭、初穂、五旬祭(ペンテコステ)は後の雨として知られる期間に あり ます。後の雨は収穫の初期をもたらし、春にあります。そして4ヶ月、または120日間の乾燥期があって、私はそれをペンテコステから紀元70年までの教会 の建設期間だと信じています。それはまた、ノアが箱舟を建てたことのアナロジー(類比)です。そしてまた、ある時代の終わりでもあります。そ れから最後の期間に角笛祭、贖罪祭、仮庵祭が行われる初めの雨があります。私たちはこれらの祭りがエルサレムの陥落、旧約の終わり、神の幕屋が人と共 にある新天新地の確立を表わしていることを理解したいと思います。ホセアは後の雨が先に来て、初めの雨が後に来ることを説明しています。
ホセア 6:3 我々は 主を知ろう。主を知ることを追い求めよう。主は曙の光のように必ず現れ/降り注ぐ雨のように/大地を潤す春雨のように/我々を訪れてくださる。
収穫期間の初期に集められた穀物を初穂と呼びます(出エジプト23:16)。イエスキリストを象徴する大麦の収穫の初穂があります。そして50日後 のペンテコステの時に、小麦の収穫の初穂があります。それは教会を象徴しています。初穂の考えをここでしっかりと正しておかなければなりません。違った2 組の初穂があります。収穫時の終わりに集められる穀物は夏の果物として知られています。
アモス 8:2 「アモスよ、何が見えるか。」わたしは答えた。「一籠の夏の果物です。」主はわたしに言われた。「わが 民イスラエルに最後(ケーツ)が来た。もはや、見過ごしにすることはできない。
これは肉のイスラエルに対する否定的な意味合いを持っています。
それでは、7つの祭りを見ていきましょう。そこから学ぶことを見てみましょう。
1. 過越祭
レビ記 23:5 第一 の月の十四日の夕暮れが主の過越である。
過越祭は基礎となる祭りです。これに続く他の6つの祭りはこの上に建て上げられています。過越祭は春に、へブルのニサンの月(3/4月)の14日に あります。多くの学校に学年があり、ビジネスに会計年度があるように、過越祭はイスラエルの宗教年の始まりです。
モーセの時代からユダヤ人たちは毎年、過越祭を祝ってきましたが、実際はたったひとつの過越があるだけです。それは今から約3500年前のエジプト でありました。その時、そこで、子羊が捧げられ、それぞれの家の門柱とかもいに血が塗られました。このことが信仰によって、また神への従順によってなされ たとき、その家は過ぎ越されて、初子のいのちは守られました。その後のすべての過越祭はひとつの、ただ一度の最初の過越を記念することでした。同じよう に、世界の罪のためにカルバリーの十字架でイエスの肉体が刺し通され、血が流されというただ一度の出来事がありました。主の晩餐は一度きりの重大な出来事 を継続して記念することです。
出エジプトの物語は聖書の中で最も劇的で、ハラハラする出来事です。へブル人たちはエジプトで奴隷でした。ファラオは情け容赦のないボスでした。多 くのへブル人たちは希望を失っていました。そのような時に、神はモーセに燃える柴の中から語りかけられました。柴は燃えていましたが、燃え尽きませんでし た。モーセは不思議な出来事を見ようと近づきました。その時、燃える柴の中から、神はしもべに語りかけ、モーセがイスラエルの子どもたちをエジプトの束縛 から解放することを告げられました。
神はモーセにエジプトにいる神の民の苦しみを見、救いの叫びを聞いてきたと言われました。そして今、神は彼らをエジプトの束縛から連れ出し、約束の 地に導く解放者を送ろうとされました。彼は民を導き出し、導き入れたのです。約2000年前、イエスは人をその束縛から連れ出すために地上に来られまし た。力強い手をもって、サタンの束縛から連れ出し、約束の地に導かれました。
神は束縛から国を解放するためにモーセを遣わされました。その時、へブル人たちは非組織的で、教育されていない奴隷たちでなるごちゃごちゃのグルー プでした。彼らはシナイ山で始まろうとしている独立国家について何も知りませんでした。彼らは何年にも渡って根本的には自分たちの神を忘れた奴隷のグルー プ以外の何者でもなかったのです。
しかし彼らの不忠実さにも関わらず、神はアブラハムへの約束を守られました。神はアブラハム、イサク、ヤコブの神でした。神は彼らに彼らの子孫は海 の砂のように、空の星のようになると言われました。これは神による厳かな約束でした。神は契約を守られる神です。神が語られたことは、その右の手で行われ るのです。彼らの外観に関わらず、なおも彼らは神の民でした。神は民の苦しみを知っておられました。またそれは彼らが「荷物を詰めて」、家路に向かう時 だったのです。430年間の奴隷生活の後、神は約束を守り、実行されました。
モーセがエジプトに行った時、手を大きく広げたステキなファラオと面会したのではありませんでした。ファラオは心を頑なにし、神の民を行かせること を拒みました。その後、偶像で満ちたエジプトに対して、災いに次ぐ災いがもたらされたのです。それぞれの災いにおいてファラオはさらに心を頑なにしまし た。それぞれの災いはエジプトの神々に対するものでした。それは最後に、子羊を殺さず、その血を塗らなかったエジプトのすべての家の初子を滅ぼすまで続き ました。災いはファラオの宮殿まで届きました。それはファラオは神として礼拝され、神の子は死なないと考えられていたからです。ついに、自暴自棄になって ファラオはイスラエルの子らを行かせることを承諾しました。主のしもべモーセの指導下、100万人以上の奴隷が、荷物を持ってエジプトのスフィンクスのそ ばを通り荒野へと行進しました。何と言う情景でしょうか!解放された100万人の奴隷たちが荒野を行進したのです。ほとんどの古代の都市とは違って、エジ プトの国を囲む大きな城壁はありませんでした。それは必要ではなかったのです。荒れ果てた砂漠は最高の防御となりました。そしてまさに砂漠を歩く、へブル 人の男、女、子どもたち、そして家畜たちがいました。水、食べ物、着物、避難所や必要なものはどこから来るのでしょうか?みなさんにはもう答えがお分かり でしょう。主なるヤハウェ神からです。詩篇の中でダビデが書いたように「神は荒野で食卓を備えることができるのでしょうか?」、もちろん答えは「はい、そ の通り」です。
人々はほとんどどこに行くのか、どのように行くのか知りませんでした。しかし、モーセは彼らを導く方を知っていました。彼らは紅海を渡り、40年間 荒野をさまよい、ついにヨシュアによって約束の地に入ったのでした。
エジプトで3500年前に起こった出来事を説明する多くの言葉がある中で、最もふさわしい言葉は、「贖い」です。その出来事は本当に起こりました。 それはエジプトの神々よりも偉大なへブル人の神によってもたらされた本物の奇跡でした。奴隷のグループが贖われ、そして彼らは本当の生ける神を礼拝できる ようになりました。しかしその贖いは無代価ではありませんでした。贖いを確かなものとするために血が流されました。子羊の血が流されたのです。過越の子羊 の血でした。エジプトで捧げられたすべての子羊(一家族に一匹)は世の罪を取り除く本当のただひとつの神の子羊を指し示しています(ヨハネ1:29)。コ リント人への手紙で、使徒パウロは「キリスト、私たちの過越の子羊が私たちのために犠牲となった」(1コリント5:7)と言う時はいつもその並行性を引き 出しています。
ヨハネ福 1:28 これは、ヨハネが洗礼を授けていたヨルダン川の向こう側、ベタニアでの出来事であった。 29 その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。
キリストの時代まで、肉のイスラエルはパウロが「滅びの束縛」(ローマ8:21)というところの制度・システムに陥っていました。これは過越の型を 表わす表現・ことばです。
ペテロが律法について言っていることに注意しましょう。
使徒 15:10 それなのに、なぜ今あなたがたは、先祖もわたしたちも負いきれなかった軛を、あの弟子たちの首に懸けて、神を試みようとするのですか。 11 わたしたちは、主イエスの恵みによって救われると信じているのですが、これは、彼ら異邦人も同じことです。
神はグラフィックな表現を用いて、旧約のイスラエルが陥っていたことを描写しています。
黙示録 11:8 彼ら の死体は、たとえ/てソドムとかエジプトとか呼ばれる大きな都の大通りに取り残される。この二人の証人の主も、その都で十字架につけられたのである。
ここで、古いエルサレムは霊的なソドムとエジプトと呼ばれていることが分かります。なぜなら、旧約のイスラエルは人々を束縛する制度・システムと なっていたからです。
十字架は無力、無価値な律法の制度に対する奴隷からの、またユダヤ教の弱く貧しい教えからの解放の始まりです(ガラテヤ4:3,9)。
新しい契約の共同体に対して過越が意味する良い表現は以下のものです。
ローマ 3:24 ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。25 神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるた めです。
イエスは最終的な過越を契約の変更に結び付けられました。
ルカ 22:20 食事 を終えてから、杯も同じようにして言われた。「こ9の杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である。
私たちはもし以下の箇所を見るなら、ここで意味することを特別に理解することができます。
ヘブル 8:10 『それらの日の後、わたしが/イスラエルの家と結ぶ契約はこれである』と、/主は言われる。『すなわち、わたしの律法を彼らの思いに置き、/彼らの心にそ れを書きつけよう。わたしは彼らの神となり、/彼らはわたしの民となる。 11 彼らはそれぞれ自分の同胞に、/それぞれ自分の兄弟に、/「主を知れ」と言って教える必要はなくなる。小さな者から大きな者に至るまで/彼らはすべて、わ たしを知るようになり、 12 わたしは、彼らの不義を赦し、/もはや彼らの罪を思い出しはしないからである。』」 13 神は「新しいもの」と言われることによって、最初の契約は古びてしまったと宣言されたのです。年を経て古びたものは、間もなく消えうせます。
この新しい契約の特徴のひとつは12節の「もはや彼らの罪を思い出しはしないからである」に見出せます。さて、十字架上では完全に新しい契約が完成 したのではないことを忘れないようにしましょう。なぜなら、へブル人への手紙はおおよそ紀元62〜64年に書かれたのですが、8章13節では旧い契約は古 びてしまい間もなく消えうせるものとして語られています。
過越祭は贖罪の過程の始まりです。変貌山の出来事を見ましょう。
ルカ 9:29 祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。 30 見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである。31 二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた。
モーセとエリヤが栄光の内に現われ、イエスの死について話しました。「死」というギリシャ語のことばはエクソドス(出エジプト)です。十字架で始ま り、もうひとつの40年の旅をスタートしたエクソドスがあったのです。
2. 除酵祭(種なしパンの祭り)
レビ記 23:6 同じ月の十五日は主の除酵祭である。あなたたちは七日の間、酵母を入れないパンを食べる。
神は過越祭のまさに次の日、ニサンの月の第15日に始まる別の祭りを制定されました。それを除酵祭(種なしパンの祭り)と呼びます。それは7日間続 きました。最初の夜と第7日目に神と人との間の集会(召集)の時間がありました。
聖書は除酵祭のために3つだけ指示を与えられました。レビ記23章8節、民数記28章19〜24節によると祭りのそれぞれの日に神殿では特別な犠牲 が捧げられるべきでした。最初と最後の7日目は働くことが禁止された安息日でした(出エジプト12:16、レビ記23:7〜8、民数記28:25、申命記 16:8)。
もうひとつ必須とされたのは、どんなパン種も禁止であったことです。この祭りの期間パン種が禁止であったことが少なくとも6つの違った箇所に記され ています。それは、出エジプト12:14〜20、13:6〜8、23:15、34:18、レビ記23:6、申命記16:3,8です。
この祭りの間にパン種を入れた食事(パンなど)が禁止されていただけではなく、人々の家にパン種があることさえ禁じられていました。主はモーセに命 じられました。
出エジプト 12:15 七 日の間、あなたたちは酵母を入れないパンを食べる。まず、祭りの最初の日に家から酵母を取り除く。この日から第七日までの間に酵母入りのパンを食べた者 は、すべてイスラエルから断たれる。
神の命令に対する不従順には死刑が適用されました。もうひとつの命令は以下のものです。
出エジプト 13:7 酵 母を入れないパンを七日の間食べる。あなたのもとに酵母入りのパンがあってはならないし、あなたの領土のどこにも酵母があってはならない。
制限の拡大がさらに強調されています。
申命記 16:4 七日 間、国中どこにも酵母があってはならない。祭りの初日の夕方屠った肉を、翌朝まで残してはならない。
神の命令の明確さは議論の余地を残しません。どれだけの量であっても、どのように少ししかなくても除酵祭の期間はどんなパン種も許されていません。 パン種を食べること、触ること、隠れた場所に蓄えられたパン種を見ることを控えるだけでも十分ではありません。すべてのパン種は取り除かれなければなりま せん。そうすることを怠ることは死をもたらしたのです。
この祭りは今日も世界中で祝われています。正当ユダヤ教徒の家族は過越祭がやってくる前に骨の折れる準備をする数週間を始めます。カーペットから真 空バッグに至るまですべてを準備のために掃除し、こすり、換気します。過越祭の前の日の夜に、シナゴーグでの夕べの祈りの後、各家庭の父親はベディカッ ト・ハメッツ、すなわち「パン種探し」の儀式を行います。この古代の儀式は家の中からパン種の最後の残りかすさえもきれいに取り除きます。その夕べの早い 時間に、母親たちはいくつかの家の隅か窓際にパンくずをいくつか置きます。そうすることで、見つけられるためのパン種があるようにするのです。
この時のための祝祷を唱えた後、父親は探し始めます。彼は片手に木のスプーン、もう一方にアヒルの羽を持ちます。キャンドルの光を頼りに、彼は分散 されて置かれたパンを探すため部屋から部屋を探します。父親が注意深く見つけたパンを羽で掃き集める時、子どもたちは大喜びで父親についていくのです。最 後に集めたパンくず、木のスプーン、羽をかばんの中に入れるか、布で包みます。これは糸で結んで次の日に燃やすために脇に置いておかれます。
この祭りは出エジプトの記念です。出エジプト記12章17〜20節、13章6〜7節、レビ記23章6〜8節を参照しましょう。
申命記 16:3 その 際、酵母入りのパンを食べてはならない。七日間、酵母を入れない苦しみのパンを食べなさい。あなたはエジプトの国から急いで出たからである。こうして、あ なたはエジプトの国から出た日を生涯思い起こさねばならない。
旧約のイスラエルはエジプトから脱出して40年の旅を始めようとしていました。それは約束の地への歩みでした。彼らはこの7日間種なしパンを食べな ければなりませんでした。私たちが最後の晩餐に関する新約聖書の箇所を見るとき、イエスはご自身のからだを種なしパンと同一視しておられたことが分かりま す。イエスは過越の子羊とご自身のからだを同一視しておられません。これは以下のことから明白です。
ルカ 22:19 それ から、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、使徒たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わた しの記念としてこのように行いなさい。」
なぜ種なしパンに強調がおかれているのでしょう?新約聖書のパン種の考えは何に当てはめられるのでしょうか?聖書ではパン種はしばしば罪として描写 されています。古代のユダヤ教の教師たちも「パン種はこころの悪い衝動を表わす」と信じていました。
マタイ 16:6 イエスは彼らに、「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種によく注意しなさい」と言われた。
パン種は生地の中にすばやく浸透し、広がり、発酵し、重さを変えずに元の大きさの何倍も膨らみます。パン種は罪を表わします。これが型なので、種な しパン(マッツォ)は神殿だけで用いられました。
レビ記 2:11 主にささげる穀物の献げ物はすべて、酵母を入れて作ってはならない。酵母や蜜のたぐいは一切、燃やして主にささげる物として煙にしてはならないからであ る。
レビ記23章の他の祭りと同様に、除酵祭の預言的意味はメシアの働きに見出されます。過越祭は過越の子羊としてのメシアの身代わりの死を描写しま す。種なしパンはメシアの葬りを表わし、それに続く祭りである初穂祭はメシアの復活を表わします。ヘブルの預言者たちはメシアが罪の犠牲となることを預言 しました。一度限りの犠牲として神によって捧げられた子羊となるためでした。預言者はメシアについて宣言しました。
イザヤ 53:4 彼が担ったのはわたしたちの病/彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに/わたしたちは思っていた/神の手にかかり、打たれたから/彼は苦しんでいる のだ、と。
イザヤ 53:6 わたしたちは羊の群れ/道を誤り、それぞれの方角に向かって行った。そのわたしたちの罪をすべて/主は彼に負わせられた。
イザヤ 53:10 病に苦しむこの人を打ち砕こうと主は望まれ/彼は自らを償いの献げ物とした。彼は、子孫が末永く続くのを見る。主の望まれることは/彼の手によって成し遂 げられる。
ヘブルの預言者たちはまたメシアの驚くべき葬りについても語りました。イザヤはこのように預言しました。
イザヤ 53:9 彼は不法を働かず/その口に偽りもなかったのに/その墓は神に逆らう者と共にされ/富める者と共に葬られた。
普通、犯罪者として死んだ者は犯罪者の葬りを受けます。しかしイエスに関してはそうではありませんでした。イエスはまるで犯罪者のように処刑されま したが、神はイエスのからだが町の外のゴミの山に捨てられることを許されませんでした。イエスは葬りにおいてあがめられました。それはイエスが聖く、罪 (パン種)がない犠牲だったからです。彼は自分の罪のために死んだのではなく(イエスは無罪でした)、私たち(罪ある者たち)のために死なれたのです。で すから、神は金持ちの墓に葬ることをもってイエスに栄誉を与えられました。イエスはサンヘドリンのメンバーであるアリマタヤのヨセフの墓に葬られたのです (マタイ27:57〜60)。これはイエスの無罪性に関する神の宣言です。
イエスの葬りに関する別の中心的事実は、イエスのからだが塵に返らなかったという事実です。ダビデ王はメシアについて以下のように預言しています。
詩篇 16:10 あな たはわたしの魂を陰府に渡すことなく/あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず
明らかにダビデは自分自身について預言したのではありません。ダビデの墓は約3000年間エルサレムの崇高な遺跡となっています。ダビデの肉体は腐 敗しました(歴史の中の死んだすべての人々の肉体がそうであるように)。しかしイエスの肉体は朽ちなかったのです。アダムの子たちは神の呪いの下に罪人で あり、「塵に返える」(創世記3:19)のです。しかし聖く、罪がない捧げ物として、イエスは塵に返る呪いの下にはいなかったのです。ですから、イエスは 罪を遠くに運び出した後、三日目に墓から戻って来られたのです。
詩篇 103:12 東 が西から遠い程/わたしたちの背きの罪を遠ざけてくださる。
ヘブル 9:26 もし そうだとすれば、天地創造の時から度々苦しまねばならなかったはずです。ところが実際は、世の終わりにただ一度、御自身をいけにえとして献げて罪を取り去 るために、現れてくださいました。
イエスは聖く、罪(パン種)のない犠牲として除酵祭を成就されたのです。神は金持ちの墓にイエスが葬られることで、このことを有効とされました。さ らに、イエスの肉体は墓で朽ちることが許されず、戻って来られたのです。なぜなら、イエスは死と腐敗の呪いの下いる罪人ではなかったからです。
パウロはコリントのクリスチャンを励ますためにこのように語っています。
1コリント 5:5 このような者を、その肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡したのです。それは主の日に彼の霊が救われるためです。 6 あなたがたが誇っているのは、よくない。わずかなパン種が練り粉全体を膨らませることを、知らないのですか。 7 いつも新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種をきれいに取り除きなさい。現に、あなたがたはパン種の入っていない者なのです。キリストが、わた したちの過越の小羊として屠られたからです。 8 だから、古いパン種や悪意と邪悪のパン種を用いないで、パン種の入っていない、純粋で真実のパンで過越祭を祝おうではありませんか。
パウロのメッセージは単純で直接的です。信仰によってカルバリーの過越の子羊という犠牲を受け入れた信仰者にとっては、過越祭は過去の歴史となるの です。本当の過越の子羊であるイエスの解放は彼らの人生においてすでに経験されたのです。彼らは今やパン種から清められ、分離されたることが必要とされる 除酵祭の中に生きているのです。
3. 初穂祭
レビ記 23:10 イスラエルの人々に告げてこう言いなさい。わたしが与える土地に入って穀物を収穫したならば、あなたたちは初穂を祭司のもとに携えなさい。 11 祭司は、それを主に受け入れられるよう御前に差し出す。祭司は安息日の翌日にそれを差し出さねばならない。
第三番目の祭りは除酵祭の7日間の第二日目にあります。それは初穂祭と呼ばれています。過越祭は第十四日、除酵祭は第十五番目の日(第二十二日目ま で続く)、初穂祭は第十六日目であり、ユダヤ人たちの暦によるニサンの月にあります。
冬に蒔かれた最初の穀物である大麦が今、春に色づき始めています。収穫の初穂が刈り取られ、注意深い、細部にわたった儀式のうちに主に捧げられるの です。主が初穂を受け入れられるのはご自身の収穫全体の「手付金」、または誓約だからです。その他の祭りとともに、初穂祭のすばらしさは疑いの余地がない ことです。これは除酵祭の週の半ばにあります。それは除酵祭の週の過越祭のすぐ後にあります。そしてそれはキリストの復活を表わしています。
1コリント 15:20 しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。
これは大麦の収穫の初穂であることを心にとめましょう。これはイエスキリストと復活への言及です。初穂は主に捧げられ、収穫の神からの祝福の保証で す。これは以下のように繰り返されています。
ローマ 11:16 麦 の初穂が聖なるものであれば、練り粉全体もそうであり、根が聖なるものであれば、枝もそうです。
初穂は収穫を聖別します。「初穂」ということばはへブル語では選ばれた中の選ばれたもの」という意味です。イエスは本当に初穂の中の初穂です。
出エジプト 23:19 あ なたは、土地の最上の初物をあなたの神、主の宮に携えて来なければならない。あなたは子山羊をその母の乳で煮てはならない。
エゼキエル 44:30 あ らゆる初物の献げ物の中で最良のものはすべて、また、あなたたちがささげるすべてのものの中で最良の献げ物はすべて、祭司のものとなる。あなたたちが初物 の麦粉で作ったものも祭司に与えねばならない。あなたたちの家に祝福をもたらすためである。
普通それは肉ですが、ここではまるで神が肉的な制度を取り除くと言わんばかりに大麦をで用いています。
過越祭は過越の子羊イエスの身代わりの死を表わしています。除酵祭のパンはイエスの葬りを表わしています。それは過越祭の後に行われる
祭りでした。イエスは過越祭の次の日に葬られました。初穂祭はメシアの復活を表わします。この祭りは初穂祭の二日目、過越祭の後三日目に行われました。イ
エスは三日目に甦られました。このようなことはただの偶然でしょうか?それとも贖いの歴史を私たちに教えようとしておられるのでしょうか?
※この主の祭りシリーズ(5回)はベレアン・バイブル・チャーチのカーティス牧師のメッ
セージです。このメッセージはカーティス牧師の許可を得て翻訳掲載しています。無断転載などはお止めください。