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黙示録の執筆年代:もうひとつの観点

by ドン・K・プレストン



ある著名な著者であり説教者が「伝統的な」後期執筆年代である紀元95年説を擁護する ために黙示録の執筆年代に関する記 事を書きました。彼は「最近表面化してきた奇妙な理論」(例えば、すべての「終わりの時」の預言は紀元70年のエルサレムの崩壊で成就したという考え) に反論することと同じであるとして自らの説の擁護をしています。このような「奇妙な理論」に固守しない黙示録の早期執筆年代を擁護するたくさんの学者や学 生たちがいます。私はこの著者が黙示録の後期執筆年代を支持するために可能な限り良い仕事をしたと信じますが、証拠は彼の主張を支持しないことも信じてい ます。私は黙示録が、紀元70年のエルサレム滅亡の預言として書かれたと確信しています。確かに, すべての証拠を調べることはどのような真理の調査に対しても必要なことです。それでは、上記の著者が示した証拠を調べ、黙示録の後期執筆年代が間違ってい ることを示しましょう。

外的証拠

この著者は黙示録が書かれたのは紀元94〜96年だとする5つの外的証拠を上げています。ひとつは自分の情報がイレナエウスによることを明白にし たエウセビオスです。[1] これは私たちの友であるこの著者はほんとうはたった4つしか独自の資料を持っていないということで す。

使徒ヨハネから二世代目のイレナエウスはドミチアヌス帝の治世の後半にヨハネが黙示を見たと主張しました。ダニエ ル・ダンハムは「イレナエウスの証 言は後期執筆年代の証拠としてのとりでとして考えられます。」と述べました。[2] しかしダンハムはこの「証拠のとりで」に問題があることを認めています。第一に、イレナエウスのギリシャ語は黙示録に言及していないと理解されるからであ り、それはヨハネがパトモスで見られたことに対する言及であると理解されるのです。第二に、彼はイレナエウスは誤解した可能性があるという意見を述べてい ます。ロバート・ヤングはドミティアヌーという名は実際は後代の著者たちがドミチアヌスと間違えたネロを指していると語っています。ダンハムは後期執筆年 代の支持者ですが、それでも「私たちのところにまでもたらされた証言の不明瞭さは後期執筆年代を要求するためには弱く、また決定的でないことを考慮しなけ ればならない」ことを認めています。[3] アレキサンドリアのクレメントはエウセビオスを引用して「圧制者」によって流刑された後、ヨハネはパトモスから戻ったと言っています。この検討中の著者は 圧制者とは疑いなくドミチアヌスであると言います。問題は、エウセビオスは黙示録の歴史的、また年代的文脈からはかけ離れていることです。エウセビオスは およそ紀元324年に記したのです。しかし私たちは「圧制者」が誰であるのかについてより早い証言を持っています。

ケネス・ジェントリーは[4] タキトゥス、スエトニウス、プリニー長老、 ローマの風刺作家ジュベナル、そしてネロを圧制者と呼んでいるエウセビオスよりも早い年代の人々を引用しています。ミリアム・グリフィン [5] はネロを「有名な圧制者」と呼んでいます。私たちの兄弟であるこの著者はパトモスから解放された時、クレメントがヨハネを「老人」と呼んだことも記してい ます。そしてヨハネがまだ60代(紀元70年より前)であるときにこう言ったのならば、「老人」というのはふさわしくないと言います。しかし使徒パウロは ピレモン9節でまだ60歳の自分を年寄りと呼んでいます。[6] さらに、後期執筆年代擁護者はクレメントの証言を受け入れることに関して問題があることを読者に告げることを怠り、また自分の他の著書と重大な矛盾がある ことを示してもいません。

ヨハネは紀元95年に90歳以上でパトモスから戻りました。クレメントはヨハネが馬に乗って荒野に行き、以前回心 したことのある犯罪者を追いかけ、 彼を捕まえ、もう一度彼に真理を教えたと主張しました。 [7] このことをよく考えましょう。94〜95年に黙示録が書かれていたなら、90歳以上という年齢でヨハネがこのようなことができたでしょうか?

しかしなぜ私たちの兄弟であるこの著者がネロの時代にすべての神からの啓示は終わったことをクレメントが主張して いることを読者に知らせないので しょうか?クレメントはヨハネが黙示録を書いたとはっきり信じていました。しかし、もしヨハネの黙示録がネロ帝の後30年経って書かれたとしたらどうして このようなことを言うことができたのでしょうか?[8] もし後期執筆年代擁護者がクレメントの外的証言を受け入れようとするなら、彼らはここではっきりとジレンマに直面するのです。

ヴィクトリヌスとジェロームが私たちの兄弟であるこの著者が外的証拠とする残りの部分を構成しています。しかし、 ヴィクトリヌスは3世紀後半に、ま たジェロームは4世紀初頭に書き記したことに注意してください。ですから、彼らの証言は若干遅いのです。彼らはイレナエウスに 依存しているようには記していません。さらに、ヴィクトリヌスはヨハネはそこに流刑にあったとき、パトモスの鉱山で働いていたと言っています。もしヨハネ が90代に入ってなおも元気だったとしても、これが事実であるということができるのでしょうか?[9] ですから黙示録の執筆年代に関して外的証拠の十分さを強調することには注意をすべきなのです。その証言はよくても議論の余地があり、不十分で、相互依存的 です。さらに、外的証拠が重大な難点があるとき、外的証拠は内的証拠を妨げることはできません。

内的証拠

私たちの友であるこの著者は黙示録に記されている教会の状態は後期説を支持すると強く主張します。私たちは証拠はその反対を示すと信じています。 彼はエペソの教会が最初の愛から離れたという事実はエペソへの挨拶の手紙が書かれたおよそ61年から早期年代である67〜69年の間以上の時間を要すると 言います。しかしそれは、ガラテヤの教会が建てられてからガラテヤ1章6〜7節の「そんなに早く」信仰から離れた間ほど長くはありません。さらにパウロは 使徒行伝20章と第一テモテ(紀元65年)で差し迫った問題をエペソの長老たちに警告しています。パウロは若い伝道者に当時エペソに満ちていた偽教師たち にどのように対処するかを話しました。

ラオデキヤは紀元60年に地震で滅びたのですから、地震と再建の間の回復は8,9年以上はかかったと主張されてい ます。しかし歴史家のタキトゥス[10] は町は非常に豊かで「ローマからの助成金なしで」町を再建したと報告しています。

黙示録2章6、15節の「十分に発達したセクト」であるニコライ派は第二ペテロとユダの手紙で「暗に示されてい る」だけのグループであるから、これ は後期説を支持すると言われます。しかし読者は自分で第二ペテロとユダの手紙を読むように強く勧められています。ペテロはこれらの異端の現実を示すために 一章全体を費やし、ユダは彼らと戦うために書かれました。これは単なる「暗に示された」こと以上です。

ネロの迫害はローマ市に限定されていたと教えられています。しかし7つの手紙は後期説に調和する以上に迫害が広 がっていたことを支持します。ネロの 迫害はローマ市に限定されていたというのは憶測でしかありません。

著名な歴史家ウィリアム・ラムゼイ[11] は、「ネロが一度(迫害の)原則を打ち立てた後、彼の行動はすべての地域の先例となりました。」記述しています。

私たちの友である著者は黙示録の迫害はネロの迫害よりもドミチアヌスの迫害とより調和すると言います。しかし現代 の学説はドミチアヌスが扇動した組織 的で、長期に渡る迫害の現実について懐疑的になってきています。レオン・モリス[12]は、「後期のクリスチャンたちが時々ドミチ アヌスの下での迫害について語りますが、証拠を見つけるのは容易ではありません。」と言っています。ジョージ・ラッドは「一世紀の最後の10年に教会に対 する広範囲で、組織的な迫害があったとする証拠はありません。」と言いました。[12]

早期執筆年代に対する議論

それでは、私たちの兄弟である著者が早期説に対して反論していることを考えて行きましょう。彼はこの書がエルサレ ムの崩壊後に書かれたのにその大災 害に関して何も記していないのは全く不思議であるという論点を記しています。彼は「ある学者たちは、ソドムと呼ばれる(それは単に邪悪さのためではなく、 それが滅ぼされたという事実のために)救い主が十字架にかけられた『大いなる都』である黙示録11章8節のエルサレム崩壊への隠された言及であると理解し ています。」と言うように応えています。しかし、11章において取り上げられている町(彼によるとエルサレム)はまだ滅びていません。黙示録11章 11〜14節を見ましょう。ヨハネは 振り返っているのではなく、すぐに起こらなければならないことを待ち望んでいるのです。黙示録1章1〜3を見ましょう。

さらに、もしエルサレムへの言及が「事後のこと」であったら、二人の証人も同様であり、3節以降私たちははっきり と証人たちはまだ来ていないと教え られます。「黙示録11章を土台にすると文字通りの都も神殿もまだ建っているし、それは語られていることの象徴的性質を無視したものである」と彼は主張し ます。

最初はこれに説得されますが、彼は矛盾しています。彼はすでに、「私たちの主が十字架にかけられた所」は文字通り のエルサレムだと言及しています。 そして今まさにそれを否定したがっているのです。11章は象徴的であるというのは事実です。しかし象徴的表現の真中で、混乱を取り除くために「私たちの主 が十字架にかけられた所」という解釈的な表現を見出すのです。「私たちの主が十字架にかけられた所」という表現は象徴ではなく、解釈的な表現です。

私たちの友(である著者)は、確信を持って、「その全場面は天国で起こっている」のだから、だれもが文字通りのエ ルサレムへの言及だと理解できるとの驚きを表現しているサルモンを引用しています。この論理を拡大してみると、イエスは天で十字架にかけられたという意味 になります。私たちは象徴だと確信している証人たちはイエスが十字架にかけられた同じ都で殺されるはずでした。しかし、もしこれらすべては天でだけ起こる 出来事であったなら、イエスは天で死ななければならなかったのです。

私たちの良く学んでおられる兄弟(である著者)は、(ヨハネの時代の)エルサレムが事実すでに崩壊したということ を理解するためにはエゼキエルの幻と神殿を図ることを比較することだけをしなければならないと言います。エゼキエルは40章で、神殿を図るように言われま した。しかし私たちの兄弟は文字通りの神殿は14年前に崩壊したという意見を述べています。この考えが言おうとしていることはヨハネはすでに崩壊した神殿 を計れと言われたということです。しかしエゼキエルはそれより前に破壊された神殿ではなく、将来の神殿を計っています。黙示録11章1、2節でヨハネは、 滅ぼされようとしている神殿を計るように言われています。私たちの兄弟(である著者)のことばに「その災害から教えられることはそれに先立つ四半世紀によ く語られたであろうから、少しばかりエルサレムの崩壊に関して焦点をしぼる必要があるだろう。」とあるから、ある人はヨハネはなぜ25年も前に滅ぼされた 神殿を計れと訪ねられているのだろうと質問するかもしれません。

聖書は時々、イザヤ46章9,10節のように、過去形を使って未来の出来事を語りました。しかし聖書のどこに未来 形を使って過去の出来事を語っているところがあるでしょうか?しかし、これこそが、私たちの兄弟が黙示録11章で要求していることであり、もうすぐ滅ぼさ れようとしているが未だに存在するエルサレムという明白なことがらを避けようとしていることです。

彼は黙示録13章6節の謎めいた数字666をネロが成就したと断定することは「解釈的にもっともいい加減なこと」 であると主張します。彼はまたネロの名前に「シーザー」を加えることにも反論しています。しかし一世紀の人々のだれがそれを除外すると考えたでしょうか? ネロはシーザー、皇帝だったのです。著者はまた、ギリシャ語ではなくへブル語で666を解釈することにも反論しています。しかし黙示録は旧約聖書への 500以上の直接、間接の言及があると著者自身が首尾一貫して述べていることです。黙示録はギリシャ語で書かれましたが、べブル的背景を持っています。

驚くべき手落ち

たぶんこの著者の記事の中で最も煩わされることは、彼が70年前説の強力な内的証拠のいくつかを無視し、疑問をは さみやすい証拠を注意深く選んでいると言うことです。これはすばらしいディベートの方法ですが、真理の正直な探求にかんしてはふさわしくないことです。

黙示録は1章1節にあるように、「すぐに起こるべきことがら」が関心ごとなのです。来るべき出来事の中心は18章 24節にあるように、「聖徒の血とその地で殺されたすべての人々の血」が満ちた都の崩壊です。イエスははっきりとマタイ23章29〜39節でこの都がエル サレムであると言われました。

私たちは95年説をとったまま、どのようにして黙示録はローマの崩壊を語っていることを維持することができるので しょうか?それはヨハネが書いてから400年もしてから起こったことです。400年は「すぐ」ではありません。このことを歴史的、聖書的に確認するため に、初めから終わりまでが386年という期間であったダニエル8章の幻を比較しましょう。[12] ダニエルは幻を封印せよと命じられました。なぜなら、それはその日はまだ遠い(8:26)からです。黙示録22章10節でヨハネは幻を封印してはならない と言われました。それは「近い」からです。ダニエルにとって386年は「遠い」けれど、ローマ帝国の崩壊である381年だけは「近い」のでしょうか?この ことはバビロンを教皇制だとする伝統的な考えにとってはさらに衝撃的なことです。黙示録の時間設定と迫害する都の二点だけを考えても、伝統的な黙示録の後 期執筆年代説を受け入れる前に注意深い聖書を学ぶ人たちは再考を余儀なくされるでしょう。

私はこの最もすばらしい主題の裾に触っただけです。私はみなさんに黙示録の後期年代説か早期年代説かを判断するた めに、自分で証拠を探す熱心な聖書の学生になっていただきたいと思います。本当に、ある「奇妙な理論」は黙示録の不適切な解釈が土台となっています。しか し私たちはそれらを打ち負かすために間違った議論や偽りの証拠を提示する必要はありません。提示されたままの証拠を受け入れ、正しく解釈し、真理を判断す ればいいのです。

 

参照

1. The Beast of Revelation, Kenneth Gentry, Institute For Christian Economics, Tyler, Texas, 1989, page 164.

2. "Date of the Book Of Revelation???", H. Daniel Denham,Part 1 of a three part series carried in the Defender, January, 1979, 4850 Saufley Rd. Pensecola, Florida.

3. Ibid.

4. Gentry, p. 42.

5. Nero, The End of a Dynasty, Miriam Griffin, Yale University Press, 1985, page 100.

6. Interpretation of Colossians, Thessalonians, Timothy, Titus, Philemon, R.C.H.Lenski, Augsburg Publishing, 1964, page 961.

7. Redating The New Testament, John A.T. Robinson, Westminster Press, 1976, page 223. 8. Gentry, page 162.

9. Gentry, page 163.

10. Annals of Imperial Rome, Tacitus, Dorsett Press, 1984, page 326.

11. The Church in The Roman Empire, Before A.D. 170, William Ramsey, G.P. Putnam's Sons, 1892, page 245.

12. The Revelation of St. John, Tyndale New Testament Commentaries, Leon Morris, Eerdmans, 1980, page 36.


※この小論はドン・プレストン師の許可を得て翻訳・掲載して います。よって無断転載は禁止いたします。



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