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復活の概念への挑戦
Challenging Concepts Of The Resurrection

By ウィリアム・ベル


  ある人々にとって復活とは墓から人間のからだが起き上がることだけを意味することは明らかだ。「人が死んだ時、「横たわった」人はみな、復活の時に「立ち 上がる」だろう。死の時に横たわった人がいるところには何があるのだろう。その人の魂ではないだろうか?もちろんそうではない。それはその人の肉体だ。そ れゆえ、復活ということばそれ自体は結果として人間の肉体が起き上がることを示唆している。(The A.D.70 Theory, by Wayne Jackson, p.57).

  どのテーマを理解するにしても第一ステップのひとつはことばの定義を知るということです。「復活」ということばの定義は一般的に考えられているよりも大き な範囲を持っています。上記の引用のように、ある人々は復活は死体が起き上がるということのみに限定します。しかし、いろいろな資料を見ると、復活と言う ことばのより広範囲な定義を知ることができるのです。

  第一に、「復活」はギリシャ語の「アナスタシス」から来ています。これは合成語です。初めの部分「アナ」は「上に(へ)」という意味で、後半部分の「スタ シス」は「立っている」(ヒステミから来ている、立たせるの意)という意味です。ですから、たいへんシンプルで基本的な意味は「立ち上がる」ということで す。

   さらに、それが動詞として用いられる時、他動詞としても自動詞としても用いられます。他動詞としてアニステミが使われる時、目的語(よみがえらせられるも の)はそのことばに含まれていませんし、そのことばの一部でもありません。ですから何がよみがえらせられるのか注意深く文脈を考慮しなければなりません。 このことが守られ、行われるなら、そのことばの見境のない使用から導き出される不当な憶測から守られます。他方、自動詞として使用されるならば、そのこと ばに主語は含まれません。同じように、文脈がだれがなにをよみがえらせるかを決定するのです。

  第二に、このことばのいろいろな使い方を調べると、前述のコメントを理解することができます。セイヤーの示す「アニステミ」の定義は「起こす、立ち上がら す」です。セイヤーは何が立ち上がらせられるのかについては語っていません。次にセイヤーはこのことばの4つの用法を上げています。

a. 横たわっている(または、座っている)人に関して;
「そこで、ペテロは手を貸して彼女を立たせた。そして聖徒たちとやもめたちとを呼んで、生きている彼女を見せた。」 (使徒行伝9:41)

b. もうける、生まれさせる;
「言った。『先生。モーセは「もし、ある人が子のないままで死んだなら、その弟は兄の妻をめとって、兄のために子をもうけねばならない。』 と言いました。」(マタイ22:24)「彼は預言者でしたから、神が彼の子孫のひとりを彼の王位に着かせると誓って言われたことを知っていたのです。」 (使徒行伝2:30・・・日本語訳には出てこない。"Therefore being a prophet, and knowing that God had sworn with an oath to him, that of the fruit of his loins, according to the flesh, he would raise up Christ to sit on his throne," ( Acts 2:30).)

c. 現われる、公開する;
「モーセはこう言いました。『神である主は、あなたがたのために、私のようなひとりの預言者を、あなたがたの兄弟たちの中からお立てになる。 この方があなたがたに語ることはみな聞きなさい。」(使徒行伝3:22

d. 死からよみがえる(霊的に物質的に)
「わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえら せることです。」(ヨハネ6:39)
「神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。」(使徒行伝2:32)

  上述した箇所から、以下のような理解が与えられます。ひとつは、「立たせる」ということばが復活のために用いられているということです。息を吹き返した後 のドルカスは座っていましたが、ペテロが手を伸ばして「彼女を立たせました。」(使徒行伝9:40,41)これは死からのよみがえりではなく、座っている という状態から立つという状態への変化を表現しています。これは文字通り、自分の足で立つということです。しかし、復活ということばが用いられています。 文脈がこのことばの死からの復活という使用法を禁じているのです。

  次に、このことばは子どもの誕生、この世に存在させるという意味で用いられることがあります。「言った。『先生。モーセは「もし、ある人が子のないままで 死んだなら、その弟は兄の妻をめとって、兄のための子をもうけねばならない。」と言いました。』」(マタイ22:24)これはひとりの人を 生まれさせることを意味していますが、生物学的死からその人の肉体をよみがえらせるということではありません。誕生としての「復活」の象徴はパウロも理解 し、用いています。「また、御子はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、ご自身がすべての ことにおいて、第一のものとなられたのです。」(コロサイ1:18)パウロは誕生を復活として語り、サドカイ人たちはアナスタシスの例として誕生を用いま した。

  第三に、この用語は現われるとか、持ち出す、公開するという意味があります。「モーセはこう言いました。『神である主は、あなたがたのために、私のような ひとりの預言者を、あなたがたの兄弟たちの中からお立てになる。この方があなたがたに語ることはみな聞きなさい。』」(使徒行伝3:22) 神が預言者をお立てになることに注意してください。この箇所はイエスがイスラエルに対して公に、また驚くべき方法で現わされたみ業を指し示していると考え られます。イエスが30歳の時に、公の働きは始まりました(ルカ3:23)。イエスは立ち上がられ、兄弟たちに公にお現われになったのです。ヨハネのバプ テスマのひとつの特別な目的は、キリストをイスラエルに公にするということでした。「その翌日、ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。 『見よ、世の罪を取り除く神の小羊。私が『私のあとから来る人がある。その方は私にまさる方である。私より先におられたからだ。』と言ったのは、この方の ことです。私もこの方を知りませんでした。しかし、この方がイスラエルに明らかにされるために、私は来て、水でバプテスマを授けているのです。』また、ヨ ハネは証言して言った。『御霊が鳩のように天から下って、この方の上にとどまられるのを私は見ました。私もこの方を知りませんでした。しかし、水でバプテ スマを授けさせるために私を遣わされた方が、私に言われました。『聖霊がある方の上に下って、その上にとどまられるのをあなたがたに見えたなら、その方こ そ、聖霊によってバプテスマを授ける方である。』私はそれを見たのです。それで、この方が神の子であると証言しているのです。」(ヨハネ1:29〜34) これはキリストがイスラエルに現われることによって、神が正式な公の働きを示されたことを表しています。それは立ち上がったことであり、現わされたという ことです。キリストはご自身の働きと使命にふさわしく、世に知られないままではありません。神による正式な宣言によってキリストは公に現われました。もう 一度言いますが、このことは文字通りの死から肉体が立ち上がるということを意味していません。

  第四に、復活と言う用語は死からからだがよみがえるという意味で用いられています。「神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人 です。」(使徒行伝2:32)

  第五に、霊的死から霊的によみがえることを表すために用いられています。(ヨハネ6:39)

  第六に、ハデスからたましいが解放されることを復活と考えます。「あなたは私のたましいをハデスに捨てて置かず、あなたの聖者が朽ち果てるのをお許しにな らないからである。」(使徒行伝2:27)ダビデはキリストの復活が語られる前に、たましいは地獄(ハデス)に留まらず、その肉体は朽ち果てないというこ とを見ていました。ダビデはハデスから霊が解放されることを語っている時、キリストの肉体には言及していないことに注意しましょう。それよりも、ダビデは 肉体は墓に残る一方、キリストの霊がハデスへと下ったことを注意深く示しています。

  第七に、それはバビロン捕囚から自分たちの土地への回復を意味することばとして用いられています。バビロンの地は捕囚によって葬られたイスラエルの「墓 場」だったのです。墓が開かれ、いのちが与えられたことは自分たちの土地への回復を象徴しています(エゼキエル37:1〜14)。新約聖書において、霊的 なバビロンであるユダヤ人の時代から、自分たちの土地である新しい天と地へと新しいイスラエルである教会が回復されるという類似があります。ヨハネ5章 28〜29節の解釈においてこの点をよく理解している著者による以下のコメントに注意していただきたいと思います。

  「・・・墓は文字通りのものだと考えられています。これもまた、証明される必要があります。多くの人々が墓ということばは死ということばと同義語として象 徴的に用いられているという考えをばかにします。しかし、聖書においてそのような用法は一般的です。『墓』ということばは、バビロン捕囚におけるイスラエ ルの霊的な死の描写として用いられています(エゼキエル37章)。彼らは死人として表現されています(イザヤ26:19)。そしてパレスチナへの帰還は復 活として語られています。クロスがバビロンから彼らを帰還させた時、墓は開かれたのです。この捕囚は肉のイスラエルの終わりの時の、新約聖書の聖徒たちの 捕囚を象徴していました。彼らはその第二のバビロンの終わりの時まで苦しめられ、迫害されました(1テサロニケ2:14〜16)。バビロン(イスラエル) の凋落と故郷への聖徒たちの復活、新しい天と地、は人間に対する神の最後の啓示という基本的なテーマなのです。古代のバビロンにおけるイスラエルがそうで あったように、イスラエル(バビロン)からの聖徒たちの解放は墓が開かれることであり、すべてに裁きをもたらすことでした。(The Spirit of Prophecy, by Max R. King, p. 219).

  第八に、このことばは霊的な怠慢さから人が立ち上がることの意味として用いられています。「それで、こう言われています。『眠っている人よ。目をさませ。 死者の中から起き上がれ。そうすれば、キリストが、あなたを照らされる。』」(エペソ5:14)ここで眠っていると言われている人は肉体的に死んでいるの でも、霊的に死んでいるのでもありません。その人はバプテスマを受けた人であり、霊的成長が欠けている人です。パウロはそのような人はその死から起き上が るべきだと語りました。さらに、原語ではanistemiという短縮形をとっていますが、同じことばです。この短縮形は語尾音が消失したものであると理解 されています。

  ジャクソンが上で述べた、「復活」(アナスタシス)とは「立ち上がる」という意味であることは本当で、一般に広く認められたことであり、アナスタシスがた んに人間の肉体という以上の広い意味をもって使われていることが本当であるならば、アナスタシスの目的語は肉体、たましい、状態、誕生、国家の自由、また は霊的成長などある意味において「横たわっている」、もっとふさわしいことばを用いるなら、「立っていない状態」が対象になるというのは論理的帰結です。 たましいが神との正しい関係にないことはたましいが立っていない状態であり、死んでいる、また復活が必要だということです。捕囚状態にある国は立っていな い国であり、自由を失っているので、アナスタシスが必要であり、「国家」の復活が必要です。まだ生まれていない子どもは肉体的には死んでいませんが、母の 胎の中にあり、この世界からは分離しているので、立っていない状態なので、誕生が必要であり、母の胎からのアナスタシス、分離が必要です。この事実を考慮 する時に、他の選択肢が考慮される必要があるのに、死んだ人間のからだが復活の箇所の目的語であると無理強いするために、明らかな証拠を隠蔽することは好 ましくありません。

  さらに、未来派的終末論におけるからだの復活はローマ8章11節において大変な解釈上の問題を生み出します。「もしイエスを死者の中からよみがえらせた方 の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、 あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。」もしこのテキストに疑う余地のないひとつの事実があるとしたら、それは内住の聖霊はからだの復 活に影響を与えるということです。この点において三つの疑問が自然に起こってきます。ひとつは、どのようにして肉体的に死んだからだに聖霊が内住してくだ さるのでしょうか。二つ目は、悪者のからだを聖霊が復活させることが必要なのでしょうか。もしそうではないなら、どのようにして悪者は復活するのでしょう か?三つ目は、今日の奇跡のない時代にあって聖霊が死んだからだに内住されるのでしょうか。第一に、注意深い読者たちは、ローマ8章のからだが肉体的に生 きているけれども、彼らのうちにキリストが来てくださる状態になるときまで、ある意味において死んでいる(10節)ということであるのに気づくでしょう。 それとも「あなたがたのうちにおられるキリスト」は肉体的死をもたらすのでしょうか? 何という栄光の望みなのでしょう。第二に、この文脈におけるからだは肉体的に生きているクリスチャンのからだです。第三に、からだに内住されることはその 「完全な」業が未来である「その時の現在」(紀元57年)での聖霊の奇跡的な内住でした。しかし、それはこの奇跡の時代から内住される聖霊によって移され るということではありませんでした。明らかにこれは、「実現された終末論」 (realized eschatology)への批判としては意味をなさないからだの復活の「ノン・ローバー」な概念です。(non- Rover:私の知識不足でこのことばの意味が分かりません。ご教授くださる方、ぜひメールをお願いします。)

  また、明らかに肉体の死ではないローマ8章の「からだ」の復活と1コリント15章のからだの復活とは同じものなのでしょうか?ローマ書の文脈は25節まで からだの復活のテーマを取り扱っています。このことはいくつかのとても大切な、すなわち「からだの復活」、「相続人」、「ともに栄光を受ける」、「神の子 どもたちのあらわれ」、「被造物の解放」、「あがない」、「望み」という「終末論的部分とつながっています。私たちはこのように問わなければなりません。 「彼らは聖書的終末論という同じひとつの枠組みの中において、肉体の死の前、もうひとつは肉体的に死んだ後という2つの『からだ』の復活を望んでいたので しょうか。」

  たましいに関してジャクソンは「もし、復活とはたましいの復活であると主張するならば、その人はたましいが死ぬことを主張しなければなりません。なぜな ら、死ぬものだけがよみがえるからです。もしたましいは死ぬと断言するならば、その人はエホバの証人か、他の物質主義者の範疇に自分自身を置くことになり ます。」 (The A.D.70 Theory, p.49)と記しています。

  ここで、ジャクソンはたましいの死に関して論じながら、自分を聖書とは反対の立場においています。彼はたましいの死をたましいの存在が終わることを意味す るとみなしています。彼は聖書による「たましいの死」の深い意味が神からの分離(イザヤ59:1,2、ヤコブ5:20)だということを把握し損なっていま す。神はアダムがその「木」から取って食べたその日に死ぬと言われました。エホバの証人のように神はうそをつかれたと言い、アダムが食べたその日に彼は罪 と死を認識したということよりも、人がたましいを持っていることを否定するのでしょうか。また、私たちはアダムがその後何百年も肉体的には死ななかった (創世記5:4)ことを知っているわけですから、神はアダムのたましいの死を教えるための物質主義者というわけなのでしょうか?

  さて、他の新約聖書の記者たちはたましいの存在が消滅することを決して意味したり、肯定したりしてはいませんが、たましいの死ということを認めています。

「というのは、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。私たちはこう考えました。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が 死んだのです。」(2コリント5章14節)

「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいたものであって、」(エペソ2章1節)

「しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、−あな たがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。」(エペソ2章4,5節)

「あなたがたは罪によって、また肉体の割礼がなくて死んだ者であったのに、神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいまし た。」(コロサイ2章13節)

「自堕落な生活をしているやもめは、生きてはいても、もう死んだ者なのです。」(1テモテ5章6節)

「罪人を迷いの道から引き戻す者は、罪人のたましいを死から救い出し、また、多くの罪をおおうのだということを、あなたがたは知っていなさい。」 (ヤコブ5章20節)

  また、ジャクソンのからだの復活の立場は著しくエホバの証人の物質主義に似ています。エホバの証人はアダムの死に反対します。なぜなら、彼らはアダムのか らだが横たわったところを聖書に見出せないからです。同様に、ジャクソンは人の肉体がよみがえるのを見出さないという立場から「復活」に反対します。これ らの立場はまさに同じなのです。唯一の違いはからだの方向性だけです。

 上記のことから、たとえ目に見えなくても、 時を違えず、また物質的な領域で起こった霊的な出来事を否定することはできません。アダムの外見だけを見て、神との霊的関係が崩れてしまったという内側に 起こった変化を知ることはできないのです。エホバの証人はこのような簡単な、しかしはっきりと証明されたみことばの事実を理解することができないのです。 肉体の復活の擁護者たちも、逆の理由付けによって同じ間違いを犯しています。

 さらに、人は肉体的な感覚だけによって他の人を観察し、その人が救われているのか、神から離れているのかを決めることはできません。パ ウロの回心の詳細は、この事実を十分に実証しています。「サウロはエルサレムに着いて、弟子たちの仲間に加わろうと努めたが、みんなの者は彼を弟子だとは 信じないで、恐れていた。」(使徒行伝9:26口語訳)エルサレムでのこの出来事の前に、パウロはすでに約3年間クリスチャンでした(ガラテヤ1:17, 18)。パウロの「悔い改めの実」でさえも、ユダヤ人の兄弟たちにパウロが弟子であることを確信させることはできなかったのです。しかし、霊的な段階にお いて起こったことを彼らが信じられなかったということは、パウロの回心が本当ではなかったということではないことを記しておくことは重要でしょう。

  同様に、聖徒のハデスからの復活と私たちの知る範囲での「生きている者」が変えられることは、肉体の目では知覚できないのです。肉体による観察力の限界は 復活がエルサレムの崩壊に関連して紀元70年に起こった(マタイ24:31,34、ルカ21:22、1コリント15)という聖書の明らかな教えを否定も、 反証も、否定もできないのです。多くの人はみことばにはむかうよりも、エホバの証人が中毒になっている「肉体による観察習慣」に反対することによって利益 を得るでしょう。






※ウィリアム・ベルはテネシー州メンフィスにあるレインズ・ロードキリストの 教会の牧師。この論文はプレテリスト・アーカイブの トッド・デニス師の許可を得て翻訳掲載しています。無断転載。使用はご遠慮ください。


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