「聖書が教える本当の終末論」
レジュメ
1)終末論とは?
●終末論(英語ではEschatology)
は「最後の、終わりの」を意味するギリシャ語のエスカトスから来ている。
●終末論の区別:個人の終末/歴史・世界の終
末
●終末論は待ち望んでいること、まだ明らかにされていないことに関係する。死後の魂の状態、イエスキリストの再臨、世の終わり、死者の復活、最後の
審判、被造物の更新、天国と地獄、神のすべての計画の成就が終末論の論点である。(ウィキペディア/インターネット百
科事典)
2)終末論の必要性・・・世界観との結びつき
の中で
●世界観(ワールドビュー/パラダイム/価値
観)とは、状況・物事に対する知覚(捉え方)、ものの見方、観点、判断基準、信念。これはメガネのようなもの、自分のかけているメガネ(のレンズ)によっ
て見るもののすべてを変えてしまう。
●すべての人が世界観を持っている。そして世
界観の中には未来観がある。すべての人がどのように未来を見るかという判断基準、パラダイムである未来観を持っている。それによって人は今を生き、未来の
備えをする。だから、未来観は世界観にとって本質的なものである。未来をどう理解するかは、現在をどう生きるか、どう理解するかを決定する。
●終末論はキリスト教にとっての未来観であ
る。キリスト者は自分の持つ終末論によって自分の歩みを決定していく。だから、終末論は神学の付録ではない。(多くの場合、終末論は組織神学書の最後の章
であることが多い。)終末論のない神学は不可能である。もし終末論のない神学書があったとしたら、それは良くても不十分な本であり、悪く言うと非聖書的で
ある。
●神学者のラッシュドゥニーは「終末論は最後の
事柄というだけではなく、初めの事柄でもある。」と言いました。
●クリスチャンはより聖書的な終末論を聖書を
土台に、聖書から導きださなければならない。
3)千年王国説
●「千年王国(ミレニアム)」はラテン語「ミ
ル」(千)と「アヌム」(年)を組み合わせて出来たことばである。これに対応するギリシャ語のことばは「チリアズム」で同様に「千年」を意味することばで
ある。ミレニアム、千年王国の概念は黙示録20章から引き出されている。イエスキリストの再臨の時が千年王国のいつ起こるのかの解釈によって、前・後・無
に分かれる。
a)歴史的前千年王国説(ヒストリカル・プレミレニアリ
ズム/プレミレ)
@新約の教会時代は旧約に預言されているキリ
ストの王国の最初の段階である。
A新約教会は歴史において、時おり勝利を勝ち
取るかもしれないが、究極的にはその使命に失敗し、影響を失い、教会時代の終わりに向かって世界的に悪は増大し、崩壊していく。
B教会は今まで経験したことのない世界的な苦
難の時を通る。この時期は大患難として知られている。
Cキリストは大患難の終わりに、教会を携挙す
るために再臨される。死んだ聖徒たちを生き返らせ、「まばたきの間」に義人の裁きが行われる。
Dキリストは栄光の聖徒たちと地上に降りてこ
られ、ハルマゲドンの戦いを戦い、サタンを縛り、エルサレムから1000年の間支配する。キリストの世界的、政治的王国が建てられる。
E1000年の支配の終わりに、サタンは解き
放たれ、王国に対する大きな反逆が起こり、キリストとその聖徒たちに対する激しい攻撃が起こる。
F神は、キリストと聖徒たちを助けるために、
恐ろしい裁きをもって介入される。悪者の復活と裁きが起こり、永遠の秩序が始まる。
b)ディスペン
セーション的前千年王国説(ディスペンセーショナル・プレミレニアリズム/プレミレ)
@キリストは一世紀のユダヤ人たちにダビデの
王国を提供された。しかし、彼らはそれを拒み、王国は将来に延期された。
A現在の教会時代は旧約では知らされていない
「挿入(パレンセシス)」である。
B神は教会とイスラエルのそれぞれに違ったプ
ログラムを持っておられる。
C教会は究極的には世の中において影響力を失
い、教会時代の終わりに向かうにつれて腐敗し、背信していく。
D大患難の前にキリストは秘密のうちに聖徒た
ちを携挙するために再臨される。(秘密の携挙・空中再臨)
E大患難の後、キリストは1000年間エルサ
レムを中心にユダヤ人の政治的王国を管理するために地上に再臨される。サタンは縛られ、神殿が再建され、旧約の犠牲制度が再開される。
F千年王国の終わり近くで、サタンは解き放た
れ、キリストはエルサレムにおいて攻撃を受ける。
Gキリストは天からの裁きを呼び下し、永遠の
秩序が導きいれられ、悪者の裁きが行われる。
c)
無千年王国説(アミレニアリズム/アミレ)
●文字通りの意味は「千年王国は無い」という
こと。
@教会時代は旧約に預言された神の国の時代で
あり、新約の教会は神のイスラエルである。
Aイエスの地上での働きによってサタンは縛ら
れ、世界に福音が宣べ伝えられ間サタンは制限されている。
B信者の心をキリストが現在支配しているとい
う範囲において、信者が信仰によって生きることを通して、文化的な影響をいくらかは与える。
C終わりに向かう中で、悪の成長は増大し、大
患難と反キリストの登場でクライマックスを迎える。
Dキリストは歴史の終わりに戻って来られ、復
活、すべての人の裁きがあり、永遠の秩序が建て上げられる。贖われた人々の永遠の終着点は天国、または全く回復した新しい地である。
d)
後千年王国説(ポストミレニアリズム/ポストミレ)
@旧約の預言の成就として、キリストの地上で
の働きの間にメシアの王国は建てられた。新約の教会は変化したイスラエルであり、パウロがガラテヤ6章16節で語る「神のイスラエル」となった。
A神の国は本質的に、政治的・物質的であるよ
りも、贖罪的・霊的である。
B神の国は歴史において社会的・文化的変化を
与えるという影響力を持つ。
Cキリストの王国は地上において時間の経過と
共に、徐々に拡大していく。これはキリストの肉体的臨在こそないが、キリストの王としての力なしには完成されない。
D大宣教命令は成し遂げられる。
E大宣教命令は国々がキリスト教化されていく
ことも期待される。
F長い霊的繁栄の時期は1000年(長い期
間)続くだろう。その後、キリストの再臨をもって歴史は終わりを迎える。キリストの再臨は文字通りの復活、裁きによって完成し、神の国の最終的、永遠の姿
が明らかにされる。
4)終末論を導く聖書解釈法
●聖書解釈の一般原則
@原語の優位性(この原則の意図は、聖書研究
をヘブル語、アラム語、ギリシャ語の研究者に限定してしまうことではない。)
A啓示の適応性(聖書は、正しく人間に理解さ
れるために、人間の考え方に適応させて書かれた神の真理である。聖書は人間の肉体的、社会的生活環境に特有なことばで書かれている。神の真理は、人間の考
え方との接触点を持っている。さもなければ神の真理は無意味なものになってしまう。有意味で理解しうる啓示であるためには、啓示は人間の言語および人間の
思考形式において伝えられ、人間が経験しうる対象に関係しなければならない。)
B漸進的啓示(神の行動についての漸進的啓
示。神は人間を旧約の神学的揺籃期から新約の成熟期へと導かれる。)
C歴史的妥当性(聖書の啓示が与えられた時代
の人々が信じていたことや信じていなかったことについて、解釈者はある程度の分別を必要とする。)
D無知を認めること(聖書には不可解な箇所
や、どんな解釈者によっても年代を決定することのできないような箇所がある。)
E解釈と適用は別のことであること(「解釈は
ひとつ、適用は無数」の原則。・・・例:ヨハネ3:30)
F照合すること(盲点や性癖を抑制し、以前の
誤った轍を踏むことがないように、過去の知恵によって研究を向上させ、不完全な知識を満たすこと。)
G帰納法(章句の意味を発見するのであって、
その章句に意味を帰するのではない。ルターは「最良の教師は、自分の意味を聖書に持ち込む人ではなく、聖書から意味を引き出してくる人である。」と言っ
た。)
H最も明瞭な解釈を優先させること(不明瞭な
解釈よりも明瞭な解釈を、無理やり信じさせられる解釈よりも筋の通った解釈を選び取る。)
I聖句の意味の単一性(この原則を力説するこ
とには、二つの根本的理由がある。第一に、それが確定されるときにのみ聖書解釈は可能であり、聖句の意味が単一であるときにのみ聖書解釈は確定されるから
である。第二に、一つ以上の意味が聖句になるなら、神の言葉の意味は不明瞭になるからである。)
J信仰の類比(アナロジー・オブ・フェイス/
「聖書は聖書によって解釈する」とか「聖書は聖書自身の解釈者である」ということ。)
●原則的に以上のような解釈学上の原則を心に
とめながら、クリスチャンは終末預言を以下の四通りに解釈する。それによって終末論の違いが出てくる。
・未来派(フューチャリスト)+++黙示録
などの終末預言のほとんど、またはすべては私たちの未来に成就する。
・歴史派(ヒストリシスト・包括派)+++
黙示録などの終末預言はキリストの初臨から終末までの歴史の中で成就してきたし、今後も成就していく。
・理想派(アイデアリスト)+++黙示録の
などの終末預言は、善と悪の継続した戦いを表わすもの。黙示録は善対悪、光対闇の対決の大きな描写であり、悪が支配しているように見えるが究極的には善が
勝利することを説明している。
・過去派(プレテリスト)+++黙示録など
の終末預言のほとんど、またはすべては使徒たちと、その同時代の出来事としてすでに成就した。
5)過去派への道(谷口の過去派への証し)
●
1970年代、私の小学生・中学生のころはノストラダムスの大預言が流行っていました。それは五島勉という人が「ノストラダムスの大予言」と
いう本を出したからです。シリーズで何冊もでましたが、80年代、90年代と何度かノストラダムス・ブームがやってきたようです。第一次ノストラダムス・
ブームに小学生高学年か中学生だった私は、まじめに1999年を恐れました。同じ経験をしたことが、さくらももこの「ちびまるこちゃん」にあります。
UFOや超能力などオカルト系のものがこのころから流行りだしたのだろうと思います。今ならそれが社会的な病理のゆえであることが分かりますが、子どもの
私には分かるはずもなく、ただ好奇心と怖さを感じずにはおられなかったのです。
●
1976年中学3年生の時にクリスチャンになって聖書を読み始めました。福音書は中学生の私でも比較的分かり易かったのですが、パウロの手紙
など新約聖書も中盤から後半に来るとだんだんと難しくなりました。そしてヨハネの黙示録に至っては、ほとんどSFの世界であり、映画の世界でした。将来こ
んなことが起こるのかと勝手に思っていたように思います。私の出身教会では、それほど世の終わりについてメッセージで話されていたようには思いませんが、
特別な集会や聖会と呼ばれる集まりでは、よく世の終わりについて聞いたように思います。
●
その頃は、黙示録は未来の出来事が書かれていること、黙示録の解釈に関して他に説があるとは少しも考えませんでした。1984年聖書学校に入
学をしました。そのころ、ちょうど中東問題研究所の宇野正美という人がビジネスマンを相手にユダヤ人問題、世界の情勢、聖書の預言を講演してたくさんの聴
衆を集め、一般書店から何冊も本を出すぐらいに有名になっていました(現在でも活躍しておられるのでしょうが)。同じ頃、聖書学校にいた仲間たちの影響を
受け、宇野正美の講演テープをダビングして回し聞きするようになりました。(実際、私の母は、弟が聞いていたテープを横で聴いて、これはいかんと教会に行
くようになり、救われました。・・・お母さんが救われたのだから、未来派解釈もいいのではないかというのは別問題です。)月刊誌「エノク」を購読し、本を
買い、学びました。そのころ、80年代後半が要注意(携挙、大患難)だと言っていたと思います。
●
私が牧師になろうと決心したのも、世の終わりがもう間もなく来るのなら、大学に進学する意味はない、伝道しなければと考えたからでした(これ
は私のように超まじめなクリスチャンならたどり着く結論でしょう?)。私は完全に黙示録は将来起こる出来事で、その解釈に完全に浸っていたのです。
●
1987年に日本の聖書学校を卒業し、アメリカの聖書学校に行きました。そのころ「88の理由、なぜ携挙は1988年に起こるか?」という本
が元NASAの科学者が出してベストセラーになりました。しかし、88年の予定の日になっても何事も起こりませんでした。彼は「計算が間違っていた。88
年じゃなくて89年だ。」と言いましたが、それも間違っていました。1830年代に起こったこの新種の教えは、ブレザレンのジョン・ネルソン・ダービーや
スコフィールド聖書で有名な、C・I・スコフィールドによって、またその頃の世界情勢と相まって、瞬く間に福音派クリスチャンの間に広がりました。しか
し、この約170年間は聖書の預言を未来派の解釈をほどこしたために出てきた数多くの年代設定の偽預言解釈の繰り返しだったのです。何度も愚かなことを繰
り返しながらもこの新種の聖書解釈の間違いに気づかずに来たのです。そしてなおもその間違いの中に多くの人たちがいます。さて、アメリカ留学中に、私は黙
示録の違う読み方に出会ったのです。それも、私が信じていた「黙示録の未来的読み方」ではなく、「黙示録は当時の人々にとって未来の出来事」(私たちに
とっては過去の出来事)という読み方でした。未来派の人々は「聖書を字義的に読む」ことを主張しますが、実際に字義的に、文字通りに聖書を読んでいる訳で
はありません。過去派は「聖書を象徴的に解釈する」から間違っていると非難されますが、過去派は「すぐに、まもなく」と書かれている時間設定された預言を
文字通り信じるのです。大切なことは、「聖書は聖書によって解釈する」という歴史的キリスト教の聖書解釈学の大原則です。黙示録を私たちの時代の未来のこ
とと読む読み方をする人々が、まじめなクリスチャンではない訳ではありません。いえ、まじめなクリスチャンたちです。しかし、まじめに間違ったことを信じ
ていることはイエスキリストの喜ばれることではありません。私たちは使徒行伝17章のベレヤの人たちのようになりましょう。聖書を開いて、聖書を解釈して
いくのです。偉い先生たちの意見だけを鵜呑みにしてはいけません。聖書の預言を新聞紙を開いて解釈してはいけません。あなたや私が何歳であろうとも、何歳
になろうともいつも「聖書を学ぶ学生」であろうではありませんか!
6)過去派解釈とは?
・時間の枠組み(タイムフレーム)
「聖書を解釈する上で、クリスチャンが
最初に学ぶべきことのひとつは、時間の文脈に注意を払うということである。」
(ゲイリー・デマー)
a)
へブル1:2この終わりの時代には、御子によってわたした
ちに語られました。神は、この御子を万物の相続者と定め、
また、御子によって世界を創造されました。
b)
マルコ1:15「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福
音を信じなさい」と言われた。
c)
1コリ7:29定められた時は迫っています。今からは、妻の
ある人はない人のように、
d)
1コリ7:31この世の有様は過ぎ去るからです。
e)
ガラ4:4 しかし、時が満ちると、神は、その御子を女か
ら、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。
f) ルカ21:20、22エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、その
滅亡が近づいたことを悟りなさい。・・・書かれていることがことごとく実現する報復の日だからである。
g)
1コリ10:11これらのことは前例として彼らに起こったので
す。それが書き伝えられているのは、時の終わりに直面しているわたしたちに警告するためなのです。
h)
1ヨハネ2:18子供たちよ、終わりの時が来ています。反キリ
ストが来ると、あなたがたがかねて聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現れています。これによって、終わりの時が来ていると分かります。
i)
ヘブル10:37もう少しすると、来るべき方がおいでになる。
遅れられることはない。
j)
1ペテロ4:7万物の終わりが迫っています。だから、思慮深
くふるまい、身を慎んで、よく祈りなさい。
・聴衆(読者)の妥当性(オーディエン
ス・レラバンス)
「黙示録を正しく読むためには、第一
に、これがまさにヨハネの時代に生きていた信仰者たちのために書かれたものであるというところから出発しなければならない。」(ウィリアム・ヘンドリクセ
ン)
聖書は私たちのため(For
us)に書かれたが、私たちに宛てて(To us)書かれたのではない。
聖書(終末預言)をより良く理解するた
めの3つの質問
@なぜ一世紀において新約の記者たちは
このように語ったのか?
Aもしあなたがその時代に生きていたと
したら、これらのことばをどのように理解したか?
Bイエスの時代の人々はこれらのことば
をどのように理解しただろうか?
→聖書の霊感説と正しさの問題
時間の枠組みの問題と聴衆の妥当性を論
じることがなぜ重要なのか?・・・
第一:聖書は私たちに対しての神の唯一
のことばであり、神の意思表示であるから、それを正確に理解したいため。
第二:聖書の完全性が危険にさらされて
いる。聖書を批評する人々はキリストや弟子たちのした終末預言が彼らが期待していた時間内に起こらなかったということのために、彼らは誤っていたと結論付
けます。
「アメリカにおいて過去50〜100年
に渡って、神学校に次ぐ神学校が、教会に次ぐ教会が、クリスチャンに次ぐクリスチャンが、リベラルや懐疑主義者の聖書に対する攻撃の餌食になってきた。人
々は保守的信仰から離れて行った。それは『聖書のための戦い』と呼ばれる。」(ジョン・ノエ)
バートランド・ラッセル
「私は福音書の物語に現れているままの
キリストを調べてみて、とても愚かしく思える重要なことがらを発見している。一つのことを取り上げれば、彼は確かに、栄光の雲のうちになされる彼の再臨
が、当時生きていた人々が全部死んでしまう前にあると考えていた。そのことを証明するかなり多くの本文があり、また彼の来臨は、そのとき生きていた多くの
者の生涯中に起きると彼が信じていたことを全く明瞭にしているおびただしい箇所がある。それが初代の弟子たちの信仰であり、また彼のかなりの量の道徳的な
教義の基盤だった。」
(「自分はなぜキリスト教徒ではないの
か」・・・彼はそのため聖書は信頼しないと結論付ける。)
ケラルト・A・ラルー
「終末的神話は、新約聖書の至るところ
に見出され、黙示録の中で、最も組織立った形態で描かれているが、福音記者たちがその概念に対しての権威をバプテスマのヨハネとイエスに与えた。ヨハネは
そのテーマを福音書の中に導入し、イエスは、その時代の終わりのしるしを説明し、弟子たちに、神の国が彼らの生涯中に突入してくると約束した(マタイ
16:28)。イエスは間違った。実際、2世紀に、クリスチャンのある者らは尋ねた。『キリストの来臨の約束はどこにあるのか。先祖たちが眠ったときから
このかた、何事も創造の初めからのままではないか』(2ペテロ3:4)私たちが言えるのは、ただそのとき以来、時の終わりについてのあらゆる預言的な告知
が間違っていた、ということである。」
(「懐疑的な質問」・・・イエスは来臨
のタイミングを間違っていたから、聖書は間違いだらけであるという立場をとる。)
C・S・ルイス
「しかし、もっと悪いことがある。『あ
なたの好きなことを言いなさい』と私たちは告げられよう。『最初のクリスチャンたちの終末的な信仰は、間違っていたと証明されている。新約聖書から、彼ら
がみな自分たちの生涯に、再臨のある事を期待していたことは明瞭である。そして、尚悪いことは、彼らはそう信じる理由があったのだが、それはあなたがたを
非常に当惑させるものであろう。彼らの主が、彼らにそう言ったのである。』彼が彼らの幻想を分かち与えたのであり、事実、その幻想を創造したのである。彼
は多くの言葉を費やして、『これらのことがみな、なされるまでは、この世代は過ぎ去ることがない』と言った。そして、彼は間違っていた。彼は他の誰にも
勝ってはっきりと、この世の終わりについて知っていたわけではなかった。」
(「世界の最後の夜とその他のエッ
セー」・・・ルイスはマタイ24:34を「聖書中で最も当惑させる節」としている。)
R・C・スプロール
「ここで直面していることはイエスの権
威の問題であることは、プレテリストはみな同意します。ですから、私たちはイエスの権威を保持することに努力しなければなりません。」
→時間の枠組みと聴衆の妥当性を文字通
りに取るなら、そして、イエスと弟子たちが語ったことがその通りに起こったのだとしたら、私たちは預言の成就の性質の見直しをしなければならない。
・2テサロニケ2章1〜3節・・・もしテ
サロニケの人々が再臨は、私たちが教えられてきたように天変地異の中、地球が崩壊するものだと信じていたならば、どうしてその到来に騙されることがあった
でしょうか?その問題を解決するために、パウロは「窓の外を見てご覧、地はまだあるから、主が来られたのではないことは明らかでしょう。」ということで済
んだはずです。しかし、当時のある人々はもう済んだことだと考えていたということは、彼らが全く私たちと違った性質の再臨に対する考えを持っていたという
ことではないでしょうか?
・マタイ16章27、28節・・・27節
は明らかに再臨について語っています。しかし28節を見ると、その再臨はイエスが語っておられる弟子たちのある者たちはまだ生きている間に起こるのだと言
うのです。この節の納得のいく説明は何でしょうか?3つしか考えられないのではないでしょうか?(1)今日もまだイエスの弟子たちの幾人かは生きている。
(2)イエスは嘘つきであったか、狂人であった。(3)イエスは言われた通り、弟子たちがみな死んでしまう前に再臨された。あなたはどの節を選ばれるで
しょうか?もし(3)を選ぶならば、私たちは再臨の性質に関するパラダイムシフトをしなければなりません。
・一世紀の人々からの良い例があります。
マラキ4章5節には大いなる恐ろしい日の来る前にエリヤの到来があると預言しています。しかしイエスの弟子たちはこれに疑問を持っていたので、イエスに尋
ねました。イエスはそれに答えて言われました。それがマタイ17章10〜13節にあります。当時の人々はエリヤの到来を文字通りの、肉体的・物質的エリヤ
が来るものだと信じていました。しかしイエスは霊的なエリヤであるとその性質を修正されたのです。イエスは弟子たちに「エリヤが来たことを理解したいな
ら、霊的に見なければならない。」と言われたのです。(ルカ1章17節、マタイ11章13,14節)
・以上のことはキリストの再臨にも当ては
まります。時間の枠組みと聴衆の妥当性を文字通り受け入れるならば、私たちは再臨の性質を考え直さなければなりません。そしてこれこそ、より聖書的な解釈
なのです。
・字義主義(文字通り)解釈の問題・・・
マルチン・ルターは「literal sense(sensus
literalis)」(文字通りの意味)という用語を用いた時、それは現在使われている意味ではなく、聖書が書かれたように意味を解釈するということで
あった。古典的意味での文字通りの解釈とは聖書は違ったジャンルの文芸、文学であることを理解して、そのような読み方をしなければならないということで
す。(詩篇18:8、50:10、マタイ5:29、「目の中に入れても痛くない」)
・トピックス(終わりの時・反キリスト・
パルーシア・この時代)
「終わりの時」・・・「時の終わり」、
「世(界)の終わり」(マタイ13:49は本当は時代の終わり。コスモスではなくアイオーン(時代)が用いられている。)ということばは聖書に出てこな
い。「終わりの日」(使徒2:17、へブル1:1,2、1テモ4:1)、「主の日」(使徒2:20、1テサ5:2)
「反キリスト」・・・「イエスがキリス
トであることを否定するすべての者」、「父と子を否定するすべての者」。「反キリスト」ということばはヨハネの手紙の中だけに出てくる。ヨハネにとって反
キリストは特定の個人ではなかった。(1ヨハネ2:18、22、4:3、2ヨハネ7)(1)反キリストは単純に、キリストの人格から始めて、キリスト教の
基本的な教えを論難するすべての信仰体系のことである。(2)聖書によれば、反キリストは一人物ではない。(3)ヨハネの手紙を読んだ人々にとって「その
時」が終わりの時であることをヨハネは明らかにした。
「この時代」・・・新約聖書で20回使
われているがどれも同時代の人々のこと。「ゲネア」は「民族」とも訳せるが新約聖書の用法から、これをとることはできない。(マタイ24:34、マタイ
11:16、マタイ12:39、41、42、45、ルカ11:50、51、マルコ8:38、ルカ17:25)
7)それでは、どのように生きるのか?
私たちの信じていることは、私たちの行動を
決定します。終末予言も成就の時間に関しての考え方は私たちの世界観(未来観、現在の行動、キリストの王国の大使としての動機付けなど)に大きな影響を与
えます。もし私たちが世界は主が再び私たちを携挙するために戻って来られるまで、どんどん悪くなると信じたなら、それは私たちの世界観に影響を与えます。
それはまた、人間の行動から大きな影響力を取り去り、キリスト教に敵意のある人々の手に権利を渡してしまいます。彼らは私たちが退いたことによって空いた
立場を喜んで埋めにやってくるでしょう。多くの未来派の人々はこれらすべてのことをただ終わりの時のしるしの一つだと解釈します。
もし私たちがこの世界は間もなく滅びると信
じるなら、未来の世代のために世界をより良い所にしようとする長期的、献身的な努力を考えるための動機付けは非常に影響を受けます。結局、「どうして煩わ
される必要があるのか?」ということになってしまいます。これこそが、私たちの時代の支配的なクリスチャンの態度です。古い言い方では、「沈み行く船の中
の真鍮をなぜ磨くのか?」というのがあります。これは非常に人気を博している未来派のレフトビハインド的メッセージに慣らされた人々の一般的な反応です。
しかし、もう一方で、もし私たちがイエスキ
リストはすでにご自身が言われた通りに再臨され、神の国は完成し、キリストが地上で共に治めることを私たちに期待しておられると信じるなら、私たちの動機
は全く違ったものになります。これこそが、プレテリズム(過去派)とプレミレの世界観の違いです。流行のプレミレ的世界観はただ終わりまでがまんしようと
いうものです。しかしプレテリズムの世界観はクリスチャンを現在においてダイナミックな役割を果たすために動機付け、積極的な理由を与え、より良い未来を
作り、続く世代に利益をもたらそうとします。大きな違い、驚くべき違いがここにあります。
事実はほとんどの福音主義者たちはキリスト
とともに治めるために将来の千年期を待ち続けることに慣らされています。彼らはユダヤ人がキリストを十字架につけたとき、それをもたらし、もたらすために
死んだ、その王国は延期されたと教えられてきました。もしそれが本当ならば、だれか、または聖霊はその手がかりを示すことを忘れたのでしょうか?このたぶ
ん延期されたであろう出来事の後、20、30年経ってもパウロは「神の国と主イエスキリスト」を宣べ伝えるためにローマ帝国中を走り続けたのです(使徒行
伝19章8,20節)。パウロは神の国が延期されたことを知らなかったのでしょうか?
もし世界が終わりに向かっていないなら、船
は沈んでいないなら、私たちはこの世界から取り去られないなら、父のビジネスを行う必要があります。それはキリストと共に、この地上で支配し、神の国を広
げていくことです。
考えは結果をもたらします。私たちが終末論
に関して信じることは、私たちのすることやしないことに影響を与えます。20世紀の中頃、支配的な終末論の立場がポストミレからディスペンセーション的な
プレミレに変わったことと、多くのクリスチャンが社会に関わることを止め、道徳的・霊的影響力である教会が衰退したこととは完全に一致します。
忘れてはいけません。考えは結果をもたらし
ます!
<何が出来るのか?>
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個人 |
家庭・家族 |
教会 |
地域・社会 |
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