使徒
行伝1章11節
By マイケル・ベネット
しばしば、この箇所で未来派の人々から出される議論
は、使徒行伝1章イエスキリストの文字通りの肉体を持った再臨について語っているというものです。私はこの議論をディスペンセーション主義者からも、パー
シャル・プレテリスト(部分的過去派)からも聞いてきました。ですから、短い回答をしたいと思います。
ヨハネ14章
18節 わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。
わたしは、あなたがたのところに戻って来るのです。
19節 いましばらくで世はもうわたしを見なくなります。
しかし、あなたがたはわたしを見ます。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです。
20節 その日には、わたしが父におり、あなたがたがわたしにおり、わたしがあなたがたにおることが、あなたがたにはわかります。
21節 わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現わしました。
どうぞ注意してください。世はもうイエスを見なくなります。この箇所 の唯一可能な解釈は、彼らはイエスを文字通り見なくなるということです。また、イエスは雲に乗って裁きに来られるので、すべての目が彼を見る(黙示録 1章)のです。ですから、イエスを見るということは文字通りの意味ではありません。なぜなら、イエスは世はもはやわたしを見ないと言われたから です。
22節 イスカリオテでないユダがイエスに言った。「主よ。あなたは、私たちにはご自身を現わそう
としながら、世には現わそうとなさらないのは、どういうわけですか。」
23節 イエスは彼に答えられた。「だれでもわたしを愛する人
は、わたしのことばを守ります。そうすれば、わたしの父はその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て、その人とともに住みます。
24節 わたしを愛さない人は、わたしのことばを守りません。あなたがたが聞いていることばは、わたしのものではなく、わたしを遣わした父のことばなので
す。」
神が信じる者と ともに住まれる家を作ること、信じる者を養子とされることは他にどの箇所に見出すことができるでしょうか。(「ヨハネ14章18節はあなたがたを捨てて孤 児とはしません。」の ような箇所は?
黙示録21章
3節 そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。
「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、
彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、・・・
7節 勝利を得る者は、これらのものを相続する。わたしは彼の神
となり、彼はわたしの子となる。
未来派のみなさん、これが私のポイントです。あなたは神があなたと共 に住んでおられること、あなたは神の子であることを信じていますか?黙示録21章まで養子とされることは起こらないのです。
さらに神が雲に乗って来られることのいくつかの例です。
出エジプト16章
10節 アロンがイスラエル人の全会衆に告げたとき、彼らは荒野のほうに振り向いた。見よ。主の栄光が雲の中に現われた。
出エジプト19章
9節 すると、主はモーセに仰せられた。「見よ。わたしは濃い雲
の中で、あなたに望む。わたしがあなたと語るのを民が聞き、いつまでもあなたを信じるためである。」それからモーセは民のことばを主に告げ
た。
出エジプト19章
16節 三日目の朝になると、山の上に雷といなずまと密雲があ
り、角笛の音が非常に高く鳴り響いたので、宿営の中の民はみな震え上がった。
レビ記16章
2節 主はモーセに仰せられた。「あなたの兄アロンに告げよ。かってな時に垂れ幕の内側の聖所にはいって、箱の上の『贖いのふた』の前に行ってはならな
い。死ぬことのないためである。わたしが、『贖いのふた』の上の雲
の中に現われるからである。」
詩篇はイエスがどのように上られると言っているか見ましょう。
詩篇47篇
5節 神は喜びの叫びの中を、主は角笛の音の中を、上って行かれた。
6節 神にほめ歌を歌え。ほめ歌を歌え。われらの王にほめ歌を歌え。ほめ歌を歌え。
ですから、使徒行伝1章で同じ有様でと言われ、私たちは大きなラッパ の響きとともに雲に乗って上られるイエスを見、イエスは弟子たちに世はもう彼を見ないと言われたのに、叫びの声をラッパの響きをともなって雲の乗って来ら れるというのは「同じ有様」として十分なのでしょうか?
それで良いのでしょうか?それとも私たちはまだ子とされていないので しょうか?
ヨハネ14章
1節 あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。
2節 わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。
もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがた
のために、わたしは場所を備えに行くのです。
3節 わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、
あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなた
がたをもおらせるためです。
もしイエスが再臨されていないとすれば、だれが天にいることができる のでしょうか?
ある学者はイエスは十字架を「備えられた」場所としたがりますが、そ れがイエスが言われたことでしょうか?イエスは十字架を備えに行き、それによって彼らもまた十字架につくことができるとイエスは言っておられるのでしょう か?主題はイエスの父の家であると思われます。
それでイエスはわたしたちが父の家にアクセスできるために戻って来な ければならないと言われたのではないでしょうか?
ですから、もしイエスが再臨しておられないなら、わたしたちが父の家 に入ることはできないのです。
ヘブル9章
28節 キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。
別の言い方をすると、もし再臨が起こっていないなら、だれも救われていないということです!
ルカ19章
41節 エルサレムに近くなったころ、都を見られ
たイエスは、その都のために泣いて、
42節 言われた。「おまえも、もし、この日のうちに、平和のことを知っていたのなら。しかし今は、そのことがおまえの目から隠されている。
43節 やがておまえの敵が、おまえに対して塁を築き、回りを取り巻き、四方から攻め寄せ、
44節 そしておまえとその中の子どもたちを地にたたきつけ、おまえの中で、一つの石もほかの石の上に積まれたまま残されない日が、やって来る。それはお
まえが、神の訪れの時を知らなかったからだ。」
ルカ21章
19節 あなたがたは、忍耐によって、自分のいのちを勝ち取るこ
とができます。
20節 しかし、エルサレムが軍隊に囲まれるのを
見たら、そのときには、その滅亡が近づいたことを悟りなさい。
21節 そのとき、ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。都の中にいる人々は、そこから立ちのきなさい。いなかにいる者たちは、都に入ってはいけません。
22節 これは、書かれているすべてのことが成就する報
復の日だからです。
上記のことから、エルサレムの崩壊を通して「神が来られること」は成就し、「書かれているすべての
ことが成就した」ことは明白です。
ルカ21章
32節 まことに、あなたがたに告げます。すべてのことが起こってしまうまでは、この時代は過ぎ去りません。
マタイ16章
28節 まことに、あなたがたに告げます。ここに立っている人々の中には、人の子が御国とともに来るのを見るまでは、決して死を味わわない人々がいます。
マタイ10章
23節 彼らがこの町であなたがたを迫害するなら、次の町にのがれなさい。というわけは、確かなことをあなたがたに告げるのですが、人の子が来るときまで
に、あなたがたは決してイスラエルの町々を巡り尽くせないか
らです。
この出来事が起こるときも非常に明白です。紀元30年から40年(聖書的時代)=紀元70年という
のは単なる偶然でしょうか?もちろん偶然ではありません。イエスは来ると言われた通りに来られたのです。まさに言われた通りに来られたのです。
この小論はThe Preterist Archiveのトッド・デ
ニス師の許可を受けて翻訳掲載しています。よって無断転載を堅く禁じます。