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「この方(イエスキリスト)以外には、だれによっても救いはありません。
世界中でこの御名のほかには、 私たちが救われるべき名としては、 どのような名も、 人間に与えられていないからです。」 (使徒行伝4章12節) |
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使徒行伝1章11節
By ジョン・ノエ
スプロールは「キリストの再臨はその昇天と同じように見えるのだろう。このテキ スト(使徒行伝1:9〜11)は目に見えないキリストの再臨を不可能にするように 思えます。」と書きました。本当にそうでしょうか?ここでの重要な表現は「同 じ有様で」ということばです。 ひとつの適用として、もしこの節がキリストのパルーシア(再臨)に言及しているなら、天に上げられたキリストを弟子たちは見なかったということを指摘しな ければなりません。なぜなら、1章9節では「雲が彼らの視界からキリストを隠した」(「雲に包まれて見えなくなられた」)とあるからです。ですから、同じ 有様であるキリストの再臨は視界から隠されることもあるだろうからです。エルサレムの崩壊の期間、燃える瓦礫からの巨大な煙が何日も空に立ち昇りました。 キリストの地上への再臨はどれほど「同じ有様」である必要があるのでしょうか?多くの人がこの箇所は全く同じ有様で(詳細に至るまで寸分違わず、唯一順序 が逆になる)あると教えられてきました。それでは、キリストは目に見える、復活の体で昇天されたのですから、その同じ形(フォーム)である、肉体をもって 見えるように戻られなければなりません。 そして、イエスはオリーブ山のまったく同じ場所に戻って来なければなりませんか?この考えをどこまで推し進めるべきなのでしょうか?その当時は少人数の人 々がイエスの昇天を見ました。これはその当時の地上のすべての人々に対して、少人数の人々を意味するんでしょうか、それともその当時と全く同じ人々を意味 するのでしょうか?伝統的な解釈はたくさんの問題点を含んでいます。加えて、もし「同じ有様で」と言うのが、「全く同じ方法で」という意味ならば、 *どのようにして白い馬に乗ってイエスは天から来られるのでしょう?(黙示録 19:11) *どのようにしてイエスは千万の聖徒を引き連れて来られるのでしょう?(ユダ 14) *どのように「いなずまが東から出て西にひらめくように」イエスは来られるの でしょう?(マタイ24:27) *どのようにイエスは「号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのう ちに」来れれるのでしょうか?(1テサ4:16) *どのようにイエスは「炎の中に、力ある御使いたちを従えて」来られるので しょう?(2テサ1:7) 感謝なことに、この節に関しての他の解釈があります。「戻って来られる」と訳されるギリシャ語のエルコマイの意味を中心に展開していきます。このことばは 実際は「来るとか行く」という意味です。使徒行伝1章11節において、私たちは行くところを見ます。さらに、(白い衣を着た)二人の天使たちはイエスが同 じような「肉体」を持ってとか、同じ「肉体」を持ってとか、同じ「場所」にとか、イエスの昇天を目撃した同じ人々だけに対して戻って来られるだろうとは言 いませんでした。 強調されているのはイエスの再臨の方法です。この表現はイエスが肉体/見える姿のみで再臨されるという制限をつけません。これはイエスがどのように来られ るかを意味しています。これは、ほとんどでなかったとしても多くの旧約、新約における神の顕現と同じように、イエスは目に見える物質的な世界にご自身を現 わすために見えない霊的領域から出てこられたのです。そして見えない霊的領域に戻られました。これが多くの神が来られ、戻られる方法でした。イエスはひと つの領域から出てこられ、別の領域に入り、再び戻られるのです。 ところで、天使たちも同じ能力をもっています(2列王6:7)。神のとられる形、場所、受け取る人々は変化します。エルコマイ(来ると行く)は多くの見え る形での神の到来における一般的な、また総合的な方法です。しかし、他にも見えない到来があったし、あるのです。(The Superiority of Preterism: An Evaluation of the Four Major Evangelical Views of the Return of Christ" (Ph.D. diss. Trinity Theological Seminary, 2003), 363 - 364. ) |
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by:ゲイリー・デマー
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聖 書を用いた聖書解釈 by:ゲイリー・ デマー |
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マタイ 24章過去派の解釈 by:ジョセフ・バリート |
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by:ゲイリー・デマー
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バック・トゥー・ザ・フューチャー ***過去派の視点 by: ケネス・ジェントリー |
大 患 難のタイミング by:ゲイリー・デマー |
黙 示録講解: The Days Of Vengeance (1 章1〜3節) by: デイヴィッド・チルトン |
後 千年王国説 大宣教命令の4つのすべて Byケネス・ジェントリー |

プレテリズム(過去派解 釈)とは |
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フ ル・プレテリズムFAQ by:ドン・プレストン |
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復 活の概念への挑戦 by:ウィリアム・ベ
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過 去派解釈と主の晩餐 by デイヴィッド・カーティス |
聖 霊の 賜物は 今 日も存在するか? by ダナ・ネイサン・サルスバ リー, Th.M |
世 々にわたって(終わりのない世 界・World Without End) by ドン・K・プレストン |
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by ドン・K・プレストン
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B・ J・パーカー氏(プレテリスト・ヴィジョン) とのメールのやりと り |
大きな白い御座の裁きはすでに起 こった by マイケル・ベネット |
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イ レナエウスの 証言を考える(黙示録の執筆年代) byドン・K・プレストン |
主 に感謝せよ! by: デイヴィッド・カーティス |
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ゲイリー・
デマーからマイク・サリバンへのレス マイク・サ リバンは私が彼と同じようにみこと ばを解釈しないので、私が首尾一貫していないと主張します。しかし、これに対する理由は単純です。私は彼や他のフルプレテリストたちがするようにはこれら の箇所は解釈されるべきだとは信じていないのです。例えば、「あなたがた」と「私たち」に関する箇所ですが、私たちはみなマタイ24章の聴衆を知っていま す。彼らはイエスに質問をしました。彼らはイエスの足元に座っていたのです。私たちはまた「時代」に伴った「この」という近さを表わす表現はイエスが語っ ておられる時代の人々以外の何ものでもないことを知っています。しかし、1テサロニケ4章15、17節の「私たち」は同じではありません。パウロがローマ 14章7,8節で書いたことを考えて見ましょう。「私たちの中でだれひとりとして、自分のために生きている者はなく、また自分のために死ぬ者もありませ ん。もし生きるなら、主のために生き、もし死ぬなら主のために死ぬのです。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。」これは紀元 70年以前のクリスチャンのためだけのものでしょうか?それともパウロはすべての時代のどのような場所のクリスチャンをも心に描いていたのでしょうか?私 は後者であることが明らかだと考えています。それでは、ピリピ1章20〜26節でパウロが自分はまもなく死ぬことを暗示している箇所があります。2テモテ 4章6〜8節はさらにはっきりしています。「私は今や注ぎの供え物となります。私が世を去る時はすでに来ました。私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終 え、信仰を守り通しました。」。「私たちが世を去る時」ではありません。マイクや他のフル・プレテリストたちは私のこれらの箇所の解釈を好まないかもしれ ません。しかし、私の解釈は決しておかしいわけではありません。私は多くの人々の前で話をしますが、私が「私たち」を用いる時はほとんどの場合、私の前に いる聴衆だけを意味しているのではあありません。ほとんどの場合は、「私たちクリスチャン」または、「私たちプレテリスト(パーシャル)」というように用 いています。私には黙示録20〜22章がまだはっきりと分りません。あるフル・プレテリストは紀元30〜70年までの期間を主張することで、黙示録20章 の「千年」に回答を与えたと信じています。しかし、私には確信がありません。私はすでに質問をしてこられる方々に個人的に私の意見を分かち合ってきまし た。1000年を40年とすることは私に確信を与えません。もし私が確信できないならば、明らかにディスペンセーション主義者を確信させることはできませ ん。私は解決がどこかにあると信じています。しかし、現在のところこの課題に取り組む時間がありません。聖書預言の研究だけを私がしているわけではありま せん。私がある立場を取るためにこころに確信を持たなければなりません。そして今のところだれもこれらの箇所において私を納得させた人はいません。私はダ ニエル12章をよりよく解釈していますが、それを十分には研究していません。マイク・サリバンがほのめかしたこととは反対に、私は自分の考えを変えてきま した。しかし、簡単には変えたりしません。もっとも明白な私の変化はマタイ24章35節以下の解釈です。「Last Days Madness」の最初の二版では、34節以降を取り扱いま せんでした。たくさんの研究を重ね、考慮した後、私は24章の残りの部分を研究することができた時、イエスはまだエルサレム崩壊のことを話しておられるこ とを確信しました。そして私はこの考えを掲載しました。Last Days Madnessは四版となりました。注意深い読者はある箇所 に関する私の考えがどのように変わったかを理解するでしょう。私はだれかに脅されたからある立場をとるのではありません。マイクは私がフル・プレテリスト の集会で話しをするのにふさわしくないと書きました。それは集会の主催者に話すべきでしょう。集会の主催者が私を招いてくれるのです。私は家にいるほうが 好きなのです。しかし私はフル・プレテリストと常に話しを聞ける状態を保っておきたいのです。彼らの議論を聞きたいのです。それによってどのように彼らが 自分たちの立場に至ったかを知ることができます。トミー・アイスやあるフル・プレテリストのようにではなく、聞いて、理解するならば、事実を誤って伝える ことはないのです。マイクが深く深呼吸をして、プレテリストに起こっているもっと積極的なことがらにフォーカスをあてるように提案します。ディスペンセー ション主義はアメリカにおいて大多数を占めるシステムです。 そこに私は自分のエネルギーを集中していま す。多くのフル・プレテリストたちはいらいらしています。それはマイクのような人々の多くにとってはそれだけが関心のすべてであり、それはいいことではあ りません。ゲイリー・デマー |
コー ネリアス・ヴァン・ティル名言集 |
腐敗しない宝 by:ゲイリー・ノース |
三つ の社会制度(聖書的ガバメント) by:原 雅 |
| キリスト教と資本主義
(聖書的経済) By R.J.ラッシュドゥニー |
神の律法は今も有効か? By アンドリュー・サンドリン |
聖書のす
べては生活のすべてのために Byアン ドリュー・サンドリン |
キ リスト教再建主義神学者 |

| 以下の文
章はJLがゲイリー・デマーに宛てて書いたものです。 ゲイリー, 私たちはパーシャル・プレテリストに感謝しています。 私がプレテリストであるのは、ケネス・ジェントリーやゲイリー・ ノースがプレテリズムが正しいことを確信させてくれたからです。 私は現在、アメリカン・ヴィジョン(ゲイリー・デマーのミニスト リー)の支援者であり、過去に長い間ICE(ゲイリー・ノースの ミニストリー)の支援者でした。このサイト(プラネット・プレテ リスト)に来ている他の人たちも同じように言うことができるで しょう。 でも私たちが感謝できないことは、異端であると言われることです。 私たちは彼らの本を欲しますが、私たちを敵とみなす決心をした 人々の支援はしたくありません。 率直に言うなら、私はパーシャル・プレテリズムよりもフル・プレ テリズムのほうが好きです。なぜなら、フル・プレテリズムの方が 単純な仮説(hypothesis)だからです。すべてのフル・プレテリス トはどの預言が成就し、どの預言がまだかについて一致しています。 フル・プレテリズムにはもうひとつ別の利点があります。それは 反証可能であるということです。反証のために要求されることは まだ成就していない預言をひとつでも見つければいいのです。 そうすれば、私たちはみなパーシャル・プレテリストになります。 しかしパーシャル・プレテリズムはそんなに単純ではありません。 ひとりとして一致するパーシャル・プレテリストはいないのです。 信条には間違いがないということを除いては、一致した哲学や前提 はないのです。あるパーシャル・プレテリストはマタイ23〜 25章を分割します。ある人は違ったように分割します。他の人は 全くこれらの章を分割しません。妥当な議論をするための十分な 一致や同意がないのです。 信条は聖書ではないのですから、信条からの逸脱は私を煩わせません。 しかし、聖書からの逸脱には煩わされます。また信条主義者の敵意にも私は煩わされます。特に、ジェントリー、ノース、ハネグラフ はバプテスマにおいてこれらの同じ信条を否定しています。 言うならば、彼らも私たちと同じように異端なのです。 JL |
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聖書は聖書によって
by 谷口明法 聖書は聖書によって解釈するというのが聖書解釈の大前提です。 しかし、多くのプレテリズムを批判する人々、特に聖書を文字通りに解釈する字義主義者たちは前提として聖書は聖書によって解釈するという理解をもっていま すが、実際にそれを適用していることはまれです。 たとえば、マタイ24章14節を持ち出して、終わりが来るのは御国の福音が「全世界」に宣べ伝えられてからであり、紀元70年までには福音は「全世界」に 宣べ伝えられていないからプレテリストの言うようには終わりは来ていないと言います。 「全世界」とは何でしょうか?世界にはユーラシア大陸、アフリカ大陸、オーストラリア大陸、南極大陸、南アメリカ大陸、北アメリカ大陸があります。マタイ 24章14節の「全世界」はこれらすべての大陸を言っているのでしょうか?そうであるならば、終わりはまだ来ていません。 しかし、私たちがクリスマスによく読まれるルカ2章1節を開くなら聖書の「全世界」は6大陸を言っているのではないことは一目瞭然です。 「そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストから出た。」 ヨセフとマリヤがベツレヘムへ住民登録をしに行ったとき、アメリカや日本やフランスやオーストラリアでも皇帝アウグストの勅令が流され、彼らは住民登録を したのでしょうか? そんなはずはありません。聖書の全世界は「全ローマ帝国」だったからです。 そして紀元70年までに御国の福音は「全世界(ローマ帝国)」に宣べ伝えられていたことはローマ1章8節とコロサイ1章6節でパウロがはっきりと語ってい ます。 自分の感覚、自分の定義で聖書を解釈しようとするととんでもないことになります。すべての聖書の箇所は聖書によって当たらなければなりません。自分の定義 と聖書の定義が異なっているならば、もちろん自分の定義や感覚を変えることが聖書を尊ぶクリスチャンのすべきことです。 |
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